時代は変わっても人の心はあまり変わらない
「お、おばぁちゃ…じゃない、?花魁…?」
「…………全く、あちきはきちんと忠告したというのに」
おばあちゃん…いや、花魁の紫太夫さんは、私を見てため息をついた。花魁といえば、江戸時代か何かの遊女だって習った気がする。でもこの人が、さっきのおばあちゃんであることは間違いないようだ。それにしてもどうしていきなりこんなに見た目が変わったのか?そしてさっき投げた小さいクナイ…的確に的を捉えてた。
「そう…あちきは江戸遊郭吉原の花魁…。クナイは正確には投げたんじゃない。この煙管から吹ける仕組みになってんのさ」
「こ、この心を読まれる感じっ…!やっぱりさっきのおばあちゃんだぁあ!本当はこんなに美しかったんですね…!」
「…ここでは若い女、綺麗な女というだけでこういう下種に売られるから、素の姿を晒すのは得策じゃない。おばあちゃんの姿の方が、何かと都合がよかったのさ」
「おばあちゃん!助けてくれてありがとう!」
「…………だから、おばあちゃんじゃないって…はぁ、まぁいいさ」
いや、呼び方なんて関係ない。おばあちゃんが来てくれなかったら今頃危なかった。おばあちゃんは額に手のひらを当てて、私を見てまたため息をついた。
「それより、女がいつまでそんな恰好をしているつもりだい?」
「え?あ、」
私は自分の身体に視線を落とす。引き裂かれた朝の囚人服からは、黒色の下着が大胆に見えている。いつまで、と言われても、隠せるものは手しかない。せめてものあれで裂けた服をつなぎ合わせるように中央に寄せる。
「む、紫太夫…覚えてるぜ…まさかお前がこんなところに来てたなんてな…」
英雄は顔に少し冷や汗を浮かべているように見える。この二人は人間界にいた時からの知り合いなのだろう。時は江戸って言ってたってことは…。
「げ、この人若そうに見えてめちゃくちゃ昔の人じゃん!」
驚き仰け反った私に、おばあちゃんが静かに尋ねた。
「…さくら。生まれは何時だい。」
「へ、平成生まれ…」
「…ヘイセイ?」
「え?あ、えっと、江戸時代より多分150年くらい後」
「「……」」
おばあちゃんと英雄は暫く考えた後、ガビーンという効果音が付きそうな顔で口を開けた。時の流れを知ってショックだったんだろう。私も驚いた、まさか教科書でしか勉強したことのない江戸時代の人物に会えるなんて。ポカン、と私も口を開けていると、おばあちゃんが咳払いをして、気を取り戻していた。
「…ま、それじゃあんたにおばあちゃんって言われるのも…仕方ないかもしれないねぇ…」
「はっ…となれば、俺達ゃもう地獄に来てから150年も経ってるようだが、尚更この若い女を食う意味が出て来るってもんじゃねぇか。おい、紫太夫も一緒に食いつぶせ。ご奉仕は本職だろ?なぁ、太夫」
「…ふん、地獄に来てまでクズだね、あんたは…」
「かつてあれだけ愛し合った仲だ、そんなにひどいことを言うなよ、なぁ?俺に逆らったらどうなるか…あの時からわかってるはずだろ?」
「っ…」
「…、おばあちゃん?」
慶長の江戸。徳川家康が政権を執っていた頃、夜の街吉原遊郭を、将軍の手の者は度々利用したそうだ。将軍の手の者という身分を振りかざして好き勝手をする。ろくに御代を払わず、気に入らない遊女達を斬った。その一人がこの英雄だ。将軍の側近を務めていたころから自分よりも身分の低い者にはひどい暴挙だったという。そんな英雄がいつも指名していた遊女…それが紫太夫。自分以外の指名客を紫太夫に近付かせないため、男たちの首を跳ねたという…。
「…そしてそのうちの一人に…私の夫となるはずだった方もいた」
「……え、」
「こいつは…私の身請け当時に、私の夫を私の目の前で殺したのさ」
おばあちゃんは、瞳の奥を暗く深くしてそう言った。…目の前が暗くなりそうだ。英雄がおばあちゃんの最愛の恋人を殺めたならば、おばあちゃんは一体今どんな気持ちでここにいるのだろう。どんな気持ちでこの男に向き合っているのだろう。どんな気持ちで、私みたいな他人を助けに来てくれたのだろう。
「だから私も人生を諦めた…彼のいない世界なんて、私には死同様だったのさ」
「…おばあちゃん、それって自分で…」
「捕えろ!こいつらは百鬼様への貢ぎ物だ!」
英雄の声ではっとした。おばあちゃんに刺されたクナイを抜いた囚人たちが、私とおばあちゃんに向かってくる。おばあちゃんを護らなくては、そう働いた防衛本能が、私を突き動かした。
だがその時、ぞくっとする凍りそうな声が、体に響く。
「一体何の騒ぎだ?」
この場にいた者たちが、雷に打たれたかのように止まる。それは英雄たちも例外ではない。
「ひゃ、百鬼様…」
看守諸共会議に出ているはずの百鬼が、何故かここにいる。足音も気配もなく私達の目の前に現れた。突然頭を垂れはじめる英雄たちは、目に見えるほど汗をかいていた。百鬼は眼球だけを動かして辺りを見回し、状況を把握したかのようにゆっくりと私達に近付いてきた。
「…ふん、強制猥褻…。やはり地獄に来る囚人というのは、考えること全てが腐っているらしいな」
「か、勝手な行動を、お、お許しください、百鬼様…!」
「…だが、獲物がお前…4771番となれば、話は別だ」
「えっ、」
罰を受けるかと思っていたのか、英雄は拍子抜けた声を発して、頭を上げ百鬼を見ていた。私も同じように眼を大きくさせる。百鬼がそう言ったからじゃない、いつの間にか百鬼が目の前にいて、私の頭を上から鷲掴みにしているからだ。思わず、ひっ、と口から空気が漏れた。
「お前に朗報だ、4771番。もしお前がこのままこいつらに犯し潰されるというなら、お前をすぐに人間界に帰してやってもいい」
「「「「「!!」」」」」
ここにいる誰もに戦慄が走った。百鬼の血走ったあくどい顔は、冗談の混じり気もない。こいつは本気だ。今ここで、こいつらに、犯されて潰されたら、あの賭け関係なく、人間界へ帰す…つまり百鬼が言ってるのはこういうことだ。そのために、恥もプライドも…人間としての全てを捨てて藁に縋りつけということか。こいつは、私のそんな惨めな姿が見たいんだ。だからこうして甘い罠を仕掛けて私が遜り落ちていく姿が見たいんだ。私の眼を…殺すために。
「っ…」
「さ、さくら…」
ぎり、と歯を噛みしめる。冷や汗を流しながらも、おばあちゃんは私を気にかけてくれた。…そんなの、人間界には帰りたい、行き返りたい。もう一度行き返って、ちゃんと復讐を成し遂げたい。我慢する?きっと恥ずかしいのも、怖いのも、悔しいのも、これから地獄にいる時間に比べれば一瞬だ。くだらないプライドを捨てて楽になってしまえば後は…、
後、は…。
「さぁ、どうする…猶予は与えない。今決めろ、女だったら体を売り無残に散ることで許してやると言っている…」
「「後は…何も残らない」」
自分の心の奥底から出た声が、おばあちゃんの優しく強い、芯のある声と重なった。驚いておばあちゃんの方を見ると、拳を震わせながらも百鬼に物申すおばあちゃんがそこにいた。何だか涙が出そうになったのは、どうしてだろう。
怖いはずだ。私よりも百鬼の恐ろしいところを数えきれないほど見て、被害に遭った。悔しいはずだ。過去の無念を抱えて尚、長い間虐げられてきた。なのにおばあちゃんは百鬼の前に立ちはだかった。強い人だと思った。心が強い人だ。紫太夫。まだ戦っているんだ…自分と。本当は心の奥で戦い続けているんだ。それが分かった時、涙が出そうになった理由も、自分が一人じゃないことも分かった。そして一瞬、囚人服を着ているはずの紫太夫の後ろに、煌びやかな藤色の着物を着た花魁が見えた。なんて美しい女性。
「自分を捨ててまで…助かろうなんて思わない。もし人間界に帰れても、そこには空っぽの私しかいない。百鬼…私はあんたの思い通りになんて動かない。自分の意志で、自分を…みんなを護る」
「!!」
百鬼がこれほどまでに表情を見せるのを、初めて見た。私の言葉のどこかに、驚かせるものがあったのだろうか。初めてこいつの光のない眼の中に、自分を見た。そんな眼が縮こまったと思ったら、ぐぐぐ、と頭を握る力が強まる。でも嫌だ。頭が割れそうに痛くても、屈しない…絶対にこいつに負けたくない。
「…お前は、必ず俺が、殺す…」
百鬼は私の頭を放るように話すと、眉間に皺を寄せて姿を消してしまった。どっと、空気が変わって囚人たちが息を乱した。
「っ…(…何?百鬼の今の…)」
「さくら、大丈夫かい!?」
「…おばあちゃん」
私も急に足から力が抜けて、ヘナヘナとその場に座り込む。
「よく言ったよ、あんたってやつは…百鬼相手に…」
「おばあちゃんこそ、私のために百鬼に立ち向かってくれてありがとう…本当に嬉しかった」
「…馬鹿だね、一昨日までのあちきなら、あんな命知らずな事しなかったさ。あんたの諦めない強い心が…思い出させてくれたんだよ、自分を」
「あちきは…夫を亡くして…生きることを諦めた。でも、空っぽだった。死んだら楽になるだろうと思ってたのに、それでも空っぽだった。あちきもあんたのその眼に魅せられた一人さね…ありがとう。礼を言うのはこっちだ」
「おばあちゃん…」
「今度はあちきも、諦めない」
おばあちゃんは、座り込んでいる私に目線を合わせて優しく抱きしめてくれた。安心するぬくもりに、何だか本当に自分の家族に抱きしめられているような気がしてまた涙が出そうになった。
「英雄…」
おばあちゃんはやっと体勢を立て直した英雄に声を掛ける。
「あちきは、あんたを許さない。力で敵わないと分かってても、もう…逃げない。今ここであんたに復讐を果たす」
煙管を構えるおばあちゃんに、英雄は眼を吊り上げる。
それを見た時、はっとした。
同じだ。
こいつの眼と、さっき百鬼が去り際に私を映したそれ。どちらも同じだ。
暗くて、深い。光のない闇しか存在しない眼。
どちらも、寂しさに溢れた眼だ。
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