地獄で光ったそれは
「っ…!」
こんなに体が軋むような痛みを感じるのは、いつぶりだろう。高校生の時に出たムエタイの大会でまるでゴリラのような女と対戦した時?いや、ついこの間、拳銃で頭を打ち抜かれた時?それとはまた違う感覚か。百鬼の腹部に命中したと思った私の拳は、目に見えない速さで動く百鬼の高速移動によって躱されたことに気が付いたのは、私の背中が岩山にぶつかり背骨が悲鳴を上げた時だ。
「…咄嗟に急所は外したか。案外やるようだな」
あの強さの打撃をみぞおちへ入れられたらその時点で立てなくなることくらい、動物的本能で感じ取ることができた。必死で脇腹へ攻撃を流したものの、体へ受けるダメージは大きい。
強い。こいつ、やはり人間離れしてる。正直ムエタイの技を駆使したところで私が倒せる相手じゃないのかもしれない。…いや、弱気になっちゃだめだ。どんな相手にも負けずに食らいついてきた。違うのはフィールドが地獄だということだけ。臆するな私。せめて大技の回し蹴りが当たれば変わってくるはずだ…!
百鬼の仕掛けてきた刀筋を何とか躱して、回し蹴りを決めるために百鬼の後方に回り込んで、地面に踏み込んで、体そのものを捻って脚を振り上げる。
「っ!」
…入った!手ごたえはあった。百鬼は後ろに飛びそうになる体を足の力で踏ん張っているように見える。顔をゆっくりと上げた百鬼は、口元からたらりと一筋の赤い血を流した。
「…ムエタイの力は、こんなものか」
「!」
「…残念。この程度では俺は倒せない」
目の前に百鬼の手のひらが覆い被さるように現れた。そのままその手は私の身体を吹き飛ばす。遠くからおじいちゃんの声が聞こえた気がした。
無残にも崩れ落ちた体。笑えるほど力が入らない。体のあちこちから百鬼とは比べものにならない血液が流れているのがわかった。
「…終わりか。他愛もない。お前の負けだ、4771番。明日からも最終到着者には罰を与える。…その前に、今日の最終到着者である2975番へのマグマ地獄結構がまだだったな」
そう冷たく言い放ちおじいちゃんの方へ歩いて行く百鬼。百鬼が一歩一歩地面を鳴らすたびに、空間に緊張が走る。
ぴたり。
…百鬼が足を止めた。
「…………何の真似だ」
「っ…やめ、ろ…」
血の流れる体を引きずって地面を這いつくばり、何とか百鬼の右足首を掴むことができる。百鬼はまるで虫けらを見るかのような眼で下方にいる私を見下ろした。
「俺はしつこい女は嫌いだ。お前は敗北した。止める権利などない」
「まだ…ギブアップしてない…。勝手に敗北を決めつけたのはあんただけよ…!」
「…!」
一瞬、百鬼が昨日のように目を見開いたように思う。だがすぐに怪訝な顔つきを取り戻して、私に刀を突き立てようとした。
「はい、そこまで」
…百鬼が私の身体寸前で刀を止めたのは、勿論自制じゃない。つい最近聞いたばかりの穏やかな声の持ち主が、百鬼の手を掴んで止めてくれたのだ。何の目的で止めたかなんて全く分からないけれど、訪れるはずだった想像を絶する痛みが襲ってこなかったことに少なからず息が荒がるほど緊張が解けた。そしてその安堵から、私は自然とその人物の名前を口に出した。
「黄緑……さん、」
「重罪人とはいえ、女の子相手にやりすぎなんじゃないの?百鬼」
「…………何をしに来た。誰が何と言おうがここは俺の島。俺のやり方に口を出すな」
百鬼は自分より背の高い黄緑の顔を見上げ、圧を強めて威嚇した。そんな百鬼に黄緑さんは、あーこわいこわい、とおちょけて地面にうつぶせのまま横たわっている私を優しく抱き上げてくれる。
「さくらちゃん、大丈夫かい?ひどい怪我だ」
「あ…は、い。でもどうして、」
「重罪人の囚人とはいえ、女の子が虐げられている姿は見ていて心地よくないからね」
黄緑さんはそう言うと私をお姫様抱っこしたまま険しい表情をしている百鬼に向き直った。
「…いくらあと1ヶ月だからといって、横暴すぎるな百鬼。血の池地獄にマグマ地獄…閻魔様はこんなやり方は好まない」
「…お前こそどういうつもりだ黄緑。他所の島の獲物に手を出さなければ俺に勝てないと自負しているのか」
「僕たちの目的は囚人たちを痛めつけることじゃない。あくまで人間界の罪を罰し、清らかな魂として再び輪廻転生させることだ。君のやり方じゃ目先の罰に目が眩んで本来の目的を果たせない」
「他所島の囚人に手は出せない掟のはずだが」
「手出しは出来ないが、助けてはいけないとは閻魔様の口から聞いたことはないね」
一体何の話をしているか分からないが、この二人があまり仲良くないことはわかった。そして何かのタイムリミットがあと1ヶ月なことや、番人の本当の役目とか。朦朧としている意識の中だけれど、二人の圧がすごすぎて意識を失うことなんて全くできやしない。
「とにかく、ここ二日の君の暴挙を上に上げられたくなかったら今回はさくらちゃんの意志を汲むことだね。今後一切、最終到着者にペナルティを課すことはしない。それが君のただの遊びなら尚更」
ドクン、
黄緑さんの強い圧に、心臓が高鳴った。凍ってしまうような百鬼の圧とはまた違う、押し潰されてしまいそうな重厚な圧。すぐに分かった。やっぱりこの人もこの地獄の番人なんだと。百鬼に並ぶ力の持ち主なんだと。私が苦しそうにしているのを感じ取ったのか、黄緑さんは圧を放ちながらも私を抱く力を強くした。大丈夫だよ、とあの穏やかな声で言うように。
百鬼は圧を放ちながら、暫く口を閉ざした。二人の強靭な圧に、ここにいる囚人や看守が寧ろ苦しそうにしている。そのど真ん中にいる私の事も少しは気遣ってほしい所だが、そんなことは言ってられない。
「……ちっ。操り人形が」
「…ふふ、それは了承の意と取るよ、百鬼」
線香の煙が消えていくように、二人の圧が収束していく。それにやっと息をしやすくする私達。百鬼は私をギロリと睨むと、視線を看守たちに移して命を下した。
「…………今日はもういい。いつも通り石膏の運搬だけやっておけ」
百鬼はそれだけ言うと、門の上へ飛びあがり、宙を掛けてどこかへ行ってしまった。看守たちは一瞬目を点にしていたが、すぐさま、はっ!百鬼様!とおなじみの挨拶をして囚人たちに宿舎へ戻るよう指示を出した。マグマ地獄もあっという間に姿を消して、灼熱の空気は湿気を取り戻した。囚人たちの中には、ぽつりと、助かった…のか、と驚きの声を口にする者もいた。毎日、あぁやって百鬼に虐げられてきたことがよく分かった。
「お、お前っ…!大丈夫かっ…!」
「おじいちゃん…、へへ、結果オーライだったね。体は痛むけど」
「の、呑気な事を…!わしは本当に百鬼様に首を斬られてしまうんじゃないかと心配で…!」
おじいちゃんは黄緑さんに抱えられたままの私の元へおぼつく足でやってきて、腰を抜かした。
「あ、おじいちゃん、大丈夫?」
「わ、わしのことより血まみれの自分の心配をせい!」
「(ふふ…やっぱり不思議な子だ。これほどの怪我を負った自分よりも無傷の老人の心配か…。地獄にあるまじき人格の持ち主。百鬼のペースが乱れるはずだ)」
黄緑さんの心中を知るはずもなく。私は自分を抱えてくれている黄緑さんに、心からのお礼を言った。
「ありがとう黄緑さん。まさか番人の黄緑さんに助けてもらえるなんて」
「ふふ、さっき宿舎で言ったでしょ?その光を簡単に消してしまうのは惜しいって」
「光…」
「眩しいほどのその瞳の光だよ」
自分では分からないが、黄緑さんは私の顔をじっと見つめてそう言った。きれいな顔をずい、と近付けられて、恥ずかしくてつい目を泳がせてしまうと、黄緑さんはくす、と笑った。
「さ、その傷の手当てをしなくちゃね。僕の島の看守をここに呼ぶよ。あ、安心して。勿論手出しはしないよ。僕はちょっと、まだ百鬼に話があるから」
またね、可愛いさくらちゃん。
黄緑さんはそう言って私を岩にもたれかけさせると、目にも見えない速さで百鬼を追いかけて行った。
「お、黄緑…さん」
地獄で抱くはずのない感情が、私の胸で蠢いた。
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