4-5. 楔

 魔界の夜は暗い。

 月は二つもあるのに、なぜ夜にはどちらもいなくなってしまうのか。

 昔はよくそんなことを考えたものだったが、魔鉱石による技術が発達し、夜でも光が確保されるようになってからというもの、そういうことを考える時間は少なくなった。

 屋敷の庭から少し逸れたティラン地区の外れが、彼の煙草スペースだ。元はと言えば、彼の煙草の香りが嫌いで外で吸うように指示したのが始まりだった。

 彼は、やはりそこにいた。レンガで出来た塀にもたれかかり、ぼんやりと空を眺めている。

「俺、その匂い嫌い」

 アッシュは彼の隣に立つと、そう言った。

「……ここまで来て言うセリフじゃあないな」

 深く煙を吐き出し、ランスロット。イーリスと比べるとだいぶ苦くて重い香りだった。

 彼が外で喫煙するようになってから久しく嗅いでいない香りだったが、やはりこれは好きになれないとアッシュは顔をしかめる。昔、この香りに耐えられず変えるように言ったくらいだ。

 二人は何を話すわけでもなく、ただ空を見上げていた。

 何本目かの煙草を、ランスロットが吸い終わった時だった。ランスロットが煙と共に言葉を吐き出した。

「なあ、アッシュ。俺は、どうしたらいいんだ」

 彼の濃紺が見つめる先には何もない。

「わかってる。俺が、全部悪いんだ」

 煙草の火を自らの手でもみ消し、置いてある灰皿に落とす。

「俺はただ、誰も傷つけたくなかっただけなんだ。傷つけあっても何も解決しな。そう、思って」

「その結果、お前は敵にテオドールの情報を流し、フォッグは狙われて死んだ」

 淡々とそう口にしたアッシュに、ランスロットは口を噤(つぐ)んだ。

「俺は何回も忠告したはずだ。お前のその考えは優しいんじゃなくて甘いんだって」

 今回の件に始まったことではない。今まで何年もかけて、アッシュはそう伝えてきた。

 彼の甘さはいつか誰かを傷つけるだろうと。そして、そうなれば彼自身も傷つくであろうと。

 彼が何故そうまでも他者を傷つけることを嫌い、守ろうとするのかを知っているからこそ、アッシュはずっと言い続けてきたつもりだった。

 そして、今回、それは最悪の形で現れた。

「思い上がるなよ、ランスロット」

「俺は思い上がってなんて! ただ、俺は、皆を守りたいと」

「それが思い上がってるって言うんだよ! いいか、この前も言ったけど、お前の身体は万能じゃないし、お前は一人しかいない。──お前のその手で、守れるものは限られてるんだ」

 ランスロットは、馬鹿であるが心の優しい男である。

 ゆえに、彼は他者を守る為に自分を犠牲にする。

「アッシュ」

 ランスロットがアッシュに顔を向けた。

 二メートルを超えるガタイのいい体格とはまるで正反対の縋るような眼をして、彼は震える声を絞り出す。

「頼む、罪滅ぼしをさせてくれ。俺が責任を取らなきゃいけないんだ」

 助けてくれと、彼が罪悪感の檻から叫ぶ。

「だめなんだ。守れない俺じゃ、だめなんだ、アッシュ。守れない俺じゃ、存在価値がないんだ」

「これが」

 アッシュがナイフを差し出した。先程、フォッグを眠らせたナイフである。

「これが、お前の楔だ」

 ランスロットは、アッシュの顔とナイフを交互に見てから恐る恐るそれを受け取る。

 アッシュはまっすぐにランスロットを見つめ、続けた。

「誰も罪滅ぼしなんて求めてない。お前の犠牲も望んでない。それに」

 しばらく間が空いて。アッシュは少しためらう様子を見せた。

「……俺は、お前の価値をそんなところに求めてない」

 ではどこに求めているのかと言えば、それは言葉にし得ないところにあって。

 ランスロットの瞳に続きを求める色を感じ、アッシュは強引に話を逸らす。

「とにかく、お前が本当に申し訳ないと思うなら、勝手な判断も勝手な行動もするな。お前の罪滅ぼしの場くらい、俺が作る」

「……アッシュ」

 ランスロットが湿っぽい声で名前を呼んだ。

 こういうのははっきり言って苦手だ。次に何を言うかも想像ができてしまうがゆえに、アッシュはぐっと眉間に皺を寄せて。

「貸せよ!」

 と、ランスロットの煙草をぶん捕った。そして、箱から一本取り出し口に咥え──思い切り咽る。

「ボスもお前もなんでこんなの吸うわけ?」

「そう思うなら吸わなきゃいいだろうに……」

「いいの! たまには!」

 ふんと鼻を鳴らし、アッシュはそっぽを向く。すっかり上手くなった一本縛りの髪が、ばさりとランスロットの顔面を直撃し、ランスロットが呻いた。

 いくら身体が鋼で出来ているとはいえど、眼球や口の中は普通の魔族と変わらない。ランスロットは目を若干涙ぐませながら眉根を寄せる。

「アッシュ、俺はお前は髪を切った方がいいと思う」

「絶対いや」

「お前はそういうところがだな」

「お前の説教は聞かないからな!」

 夜に響く軽口がいかにも彼等らしく。久々に二人は対面したまま一息をついた。

 これでいいのだとアッシュは思う。ランスロットという存在を知るがゆえに、これでいいのだと。

「あーあ、無駄に夜更かしした」

 いつの間にかルーヴのピアノも聴こえなくなっていた。そろそろ皆も寝静まった頃だろう。

 明日からは本格的に動き出さねばならないことがたくさんある。

 アッシュはくるりと身を翻した。

「アッシュ」

 そんな彼をランスロットが呼び止める。

 アッシュは振り返らず、足だけを止めた。

「……ありがとう」

 本当に、どこまでも律儀な男である。嘘の一つもつけない、馬鹿正直な男なのだ。

「しーらない」

 しかし、アッシュは最後まで振り返らず、屋敷へと戻って行った。

 ようやく、明日から忙しくなりそうだ。



 ランプの炎が揺らめき、部屋を静かに大小とさせる。

 色濃く壁に移りこむ影は、甘い煙を纏わせながらゆっくりと窓際へと移動して行った。

 窓際の隅に置いてある棚の上には、模様の入った石がいくつも並んでいた。

 これは、墓標だ。

 魔界では腐敗した死体が瘴気を集めてしまう為、死体は必ず火葬され、墓も建てない。

 その代わり、小さな石に故人の刻印を掘り、それを持ち歩いたり、こうして部屋に飾ることが弔いの証となっていた。

 全部で九つ。

 いずれも、過去にテオドールのメンバーだった者達の刻印が彫られていた。

 ある者は魔獣との戦いで、ある者は任務の途中で、ある者は病気で、ある者は自らの手で。

 皆理由はそれぞれであるが、このテオドールのボスであるイーリスにとっては、等しく愛おしい子供達であったことには違いない。

「……ここに増えるのは、アタシの刻印であるべきだってのに」

 イーリスは新たにもう一つ、小石を置いた。

 全部で十。二度と目を覚ますことのない墓標が、静かに佇んでいる。

「……リチュエル。アタシに教えちゃくれないかい? アタシはどこで一体間違っちまったんだろうねぇ」

 小石を一つずつ撫でながら、イーリスが自身に言い聞かせるように尋ねた。

 扉の前でじっと黙して立っていたリチュエルが、困った顔で首を傾げる。

 イーリスは足りない言葉を補うために、再度口を開いた。

「最初からアッシュに任せていればこうはならなかったかもしれないだろう? 誰も傷つかなかったかもしれない。アッシュも不必要にルクレツィアに当たる必要はなかった。アーサーは怪我をしなかったかもしれない。ランスロットだって、心を痛めることはなかったはずだよ。フォッグだってそうさ。こんな小さな石になる必要なんて──」

「ボス」

 煙草の香りとは正反対の、苦々しい吐露。

 リチュエルは音も立てず静かに歩み寄ると、そっとイーリスの手を取った。

「ボスは間違っていませんよ」

 優しく手の甲を撫で、あくまで穏やかに言葉を繋ぐ。

「あの時、アッシュさんはわがままでした。そりゃあ今でもわがままですけど。……ボスが一度ご自分から切り離したおかげで、大人になったと思います」

 リチュエルの目線は、第三者的だ。

「アーサーさんは、遅かれ早かれ同じことをする運命だったと思いますし、ランスロットさんがもし今回学ばなければ、この先もっと被害が出たかもしれません。フォッグさんは……確かに痛ましいことになってしまいましたが、でも、それはボスのせいではありません」

 過去、スパイとしてテオドールにやって来て捕まった後、彼女はアッシュの進言によりテオドールの使用人となった。

 改造済みの子供達が集まるこの場所において、彼女は臆することなく、メンバー達を見つめてくれている存在だった。

 だからこそ、聞いた。彼女なら、何か答えをくれるのではないかと考えたのだ。

 リチュエルもイーリスの問いの意図を察し、言葉を選びながら骨ばった手を握り締める。

「ボス、ここには、テオドールには、ボスに感謝はすれど、ボスを憎む人はいません。責める人もいません。みんな、一人残らず誰もが、ボスの愛を受けて、幸せで、……みんな、ボスのことを愛しています。だから」

「あぁ、わかってる。わかってるよ、リチュエル。痛いほどに、それはわかってるんだ」

 淀みのない真直ぐな言葉は、イーリスの胸に一つずつ突き刺さっていく。

 片手をリチュエルに預けたまま、イーリスはもう片方の手を棚について、

「……リチュエル、あの子は何をしてたんだい?」

 ぽつりと尋ねた。

 リチュエルはそっとイーリスの手を離れ、イーリスと同じく並んだ小石を見つめる。

「……アッシュさんは、ツィアちゃんを寝せて、ランスロットさんと話し、……ちゃんとフォッグさんにもお別れに来ました」

「……思ったよりもずっと、しっかりやってるんだねぇ」

 複雑な笑みを湛えて、イーリスが呟いた。

 すっかり年老いた女の横顔は、誰よりもアッシュのことを想い、心配し、成長を願う母親の姿そのものだ。

 リチュエルはしばし考えた後、少し意地の悪い笑みを浮かべて言った。

「ボス、知ってますか?」

「何をだい?」

「アッシュさんって、いつもツンツンしてて、他人なんて知ったこっちゃねー! って素振りしてますけど、昔からとってもみんなのことよく見てて、大事にしてるんですよ」

 いつもの通り明るく淀みのない声でリチュエルは話す。そして、彼女は声のトーンを一つ落とした。

「アッシュさんのお部屋の引き出しの中には、ボスと同じように十個、石が入っています」

 イーリスにとって、これが一つの答えになるであろうとほとんど確信しての言葉だった。

「あぁ」

 イーリスが呆然と呟いた。

 嬉しいはずの事実がどこか寂しくて、イーリスは声を震わせる。

「……困ったねぇ」

 もう片方の手も棚につき、まるで嘆くかのように。

「ボス?」

 リチュエルはその表情を覗き込もうとして──やめた。

 いつも豪快で、堂々としているテオドールのボスの背が、見たこともないほど縮こまっていた。

「アタシよりもずっと、アンタの方があの子のこと見てるんじゃあないか」

「そりゃあそうですよ、見る目線が違いますから」

 すっぱりと。リチュエルは鼻息荒く胸を張る。

「はっきり言うじゃあないか」

 一切の躊躇いのないリチュエルに、イーリスは思わず鼻で笑う。

 その様子に少しだけ安心をして、リチュエルは続けた。

「私は、ボスではありませんから、ボスのようにアッシュさんとはお話しません。ボスのようにアッシュさんを見ません。……私の見るアッシュさんと、ボスの見るアッシュさんは違うんです。人がいれば、それだけアッシュさんの見え方があります。ルーヴ姉の見るアッシュさんとか相当悪い男に見えてると思いますよ」

 うんうんと腕を組みながら言う彼女の眼には、いつもの大喧嘩が見えているようだった。

「……あの子らはもう少し仲良くしてもらいたいもんだよ」

 やれやれというイーリスのため息。

「ふふふ。まぁ、つまりですよ、ボス。ボスにしか見えないアッシュさんがいるんです。私が見たくても見れないアッシュさんです。そうですね、ちょっとそれは、羨ましいです」

 あくまで自分は使用人であると。言葉にはない含みを感じ取り、イーリスは苦笑した。

「アンタは本当に素直な子だね」

「お褒め頂恐縮ですっ! あ、それでそれで、私が言いたいのはですね、アッシュさんは、大丈夫ですってことです。……大丈夫です。こんなとこで折れるほど、か弱くないっていうか、つまるところ図太いって言うような気がするんですけど。あっ、これ本人に言わないでくださいね! 内緒です、しーっ!」

 息継ぎもなく一気にまくし立て、しまったと人差し指を口に当てる。この素直な騒がしさにきっとアッシュも心を開いてるのだろう。

 イーリスは眉尻を下げ、肩を竦める。

「どうかねぇ、アタシも最近年だから、約束も忘れちまいそうだよ」

 すると、彼女はあからさまに慌て、

「あぁ、もう、ボスったら! ……今も昔もボスのことが大好きです。ボスが守ろうとしているものも一生懸命守ろうとしています。だから、ボスはこう、なんというか、いつも通りボスらしくいてあげてください。ここでボスがしなしなしちゃったら、誰があのわがままさんを止められるんですか! 私はご遠慮願いたいですし!」

 やはり一気に言葉をまくし立てるのだった。

「そこは自分が止めるっていいなよ……全く」

「いーやーでーすー! ここで私がやっちゃったら、ボスがボケちゃうかもしれないじゃないですか! 介護はまだ早いですよ」

「そうさねぇ……」

 考えておくよ、と付け加え、イーリスは先程よりは落ち着いた表情でリチュエルを向いた。

「ありがとうね、リチュエル。……アッシュのこと、これからも頼むよ」

「はい、ボス」

 任されましたと彼女は明るく微笑んだ。ふと、リチュエルが窓辺に視線を移す。

「もうこんな時間ですね。空が赤くなってきました」

 そっとカーテンを捲ると、既に月の気配が濃くなっている。いつもなら、ランスロットが起きて、トレーニングを始める時間だ。

「今から寝るのも気が引けるけど、年寄りにゃ徹夜はちょいと厳しいねぇ。昼前ぐらいに起こしてくれるかい? アンタが起きてからでいいよ」

 わざとらしく腰を叩きながら、ため息をつく。

「わかりました。……今日はみんなお寝坊さんな気がしますから」

 そんなイーリスをやや案じた表情で見つめ、リチュエルが頷く。

「おやすみなさい、ボス」

「あぁ、おやすみ」

 ぱたんと扉が締まり、ぱたぱた階段を下る音が響いた。

 やがて訪れた静寂の中、イーリスは赤らんだ空をぼんやりと見つめる。

「誰もアタシを責めない、か……」

 いつの間にか甘い香りは消え、苦みだけが見えないままに立ち昇って行った。

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