第4章

4-1. 二人の時間

 花が、咲いていた。

 二つの月の下で根を張るように、清らかに毒々しく、大きな切り株の上に咲いていた。

 彼はまだか。

 今日は来ないのだろうか。

 花は人であろうと必死に菜の花色の瞳を開いた。

 近頃は妙に眠たくて、時折自分が人であることを忘れそうになる。

 ──人でなくては。

 美しく咲き誇る花ではなくて、人でなくてはならない。

 そう、他の誰でもない彼と話す為には──。

「ぴゅーる」

 うつらうつらと。例えるなら何か別の意識が介入してくるような、そんな強い眠気の中から、その声は突如少女の意識を引っ張り上げた。

 ぱちりと目を瞬かせると、目の前には空色の髪をした少年が不安そうな顔で自分の顔を覗き込んでいるではないか。

 数秒。かつてないほどの近い距離に思考が止まり。

 やがて、顔に火が付いた。

「ラ、ラグ!」

 魔鉱石が埋まった、既にないはずの心臓が跳ね上がるような気がした。慌てて顔を上げ身体を引くと、少年はほっとした顔で微笑む。

「よかった。よんでもおきないから、しんぱいしたの」

 そう言って、彼はいつものように刃の触れないぎりぎりの距離に腰をかける。そして、改めて少女を見つめると、ふわふわと目を細めた。

「きょうも、あえた」

「うん、会えたね。嬉しい」

 時間も日も何一つ決めない、再び会うという約束。

 それが今日も果たされたことを、二人は互いに喜び合った。

 大きな切り株に腰を掛け、指先を触れ合わせる。見上げる月はもう少しで一つに重なるところだ。

 ラグナは話した。家族が増えたことを、家族がケガをしたことを、家族が喧嘩していることを。

 ピュールも話した。家族が家出してしまったことを、みんなで捜していることを。

 二人は考えた。どうしたら仲直りできるだろうか。どうしたら見つかるだろうか。

 けれど、最後は「むずかし」と揃って首を傾げるのだった。

「ラグの家族は、たくさんいるのね」

 ひとしきり話し終えた後、ピュールが言った。

「そうなの、たくさん。こーはいも、いるの」

 得意げな顔をして、ラグナが返す。

「後輩?」

「そう、せんぱいはね、こーはいのめんどうを、みねばならないの」

 たいへんなの、とわざとらしくため息をつくラグナに、ピュールがくすくすと笑う。

「なんで、わらうの」

 ラグナがむうと口を尖らせた。

「楽しそうだなぁって」

「ぴゅーるは、かぞくといっしょ、たのしくない?」

 ピュールはうーんと考えてから、きょとんと首を傾げるラグナに苦笑を返す。

「私ね、おうちに帰ったら、寝ちゃうの」

「ねむねむ?」

「うん、すっごく眠たくて、気づいたら朝。だから、みんなとはあんまりお話しできないの」

 家族といるよりも、ラグに会いたくて。

 そんなことを口に出せるはずもなく、ピュールは月を見上げる。いつの間にか邂逅を果たしていた月は、既に別れを告げ背を向けていた。

「もう、こんな時間」

 ピュールがしょんぼりと肩を落とす。彼女に咲いた花も同時に萎れてしまうように見えて、ラグナは慌てて触れた彼女の指先に力を込めた。

 唯一とも言える彼女の温もりを感じながら、ラグナは反対の手でごそごそとポケットから何かを取り出す。

「あのね、ぴゅーる」

 ピュールが突然ソワソワし始めたラグナを見て、不思議そうに菜の花色の瞳を瞬かせた。

「ぴゅーるがね、げんきになる、おまもり」

 そう言ってラグナが取り出したのは、菫色、緑、黄色のビーズでできたブレスレットだった。月の光に照らされてきらきらと輝くそれは、まるで本物の花のように彼の手の中で咲いている。

 ラグナが動かないピュールを見て、恐る恐るピュールの手を取った。

「これが、ぴゅーるのこと、まもってくれるの」

 彼女に巻き付いた茨に触れないように。自分の刃が彼女を傷つけないように。優しく、そっと、作ったブレスレットを少女の腕へと通していく。

 緊張しているのはラグナだけではなかった。ピュールもまた、彼を傷つけてはいけないと、ぴったりと固まったまま黙ってそれを受け入れている。

 茨をうまくすり抜けてブレスレットがピュールの手首に収まると、ほっと二人の間に安堵の息が漏れた。

「これ、ラグが作ったの?」

「そう、おれがつくった。あやうく、すみにおかれちゃうところだったの」

 恐る恐る手を持ち上げ空に翳すと、菫色と黄色が月の光に照らされきらめいた。

 彼の身体でこれを作ることがどれほど難しいのかは、想像に難くはない。

 それなのに、彼は、私の為に。

「ラグ、あの……」

 お礼を言わなければと、ピュールはラグナを向いた。

「あのね、私……その、ええと」

 嬉しい。とても、嬉しい。嬉しくて仕方がない。

 それなのに、言葉がうまく出てこないのだ。

 なんとか言葉にしようと頭を巡らせるが、出てくるのはあ、やら、う、やらばかりで。

 やがて、その様子を見守っていたラグナが、心配そうに顔を覗き込んだ。

「ぶれすれっと、だめ、だった?」

「ううん、違うの」

 顔が、いつになく近い。草原のような澄んだ緑の瞳がよく見えて、その瞳に見つめられるのが妙に恥ずかしくて。

 ピュールは慌てて距離を取り、ぶんぶんと首を振る。

「あの、すごく、嬉しくて。でも、その……わからなくて」

 ラグナが首を傾げた。

「ラグが、こんな……あ、あの、違うの。えっと……」

 弁解しなければと言葉を探すが、探せば探すほど頭の中がこんがらがって言葉にならない。どうしようと混乱だけが広がり、だんだんとうまく伝えられないことにぽろぽろと涙がこぼれてくる。

「ぴゅーる、かなし?」

 ラグナの問いに、ピュールは手のひらで涙を拭きながら再び首を振る。

「違うの、嬉しいの……」

「ぴゅーる、うれし。でも、なみだぽろぽろ。おれ、しんぱい」

「あのね、ラグ」

 風に揺られて空色──地上の空の色らしいと前に教えてもらった──の髪が揺れる。

「とっても、嬉しい。嬉しくて、何て言ったらいいか、わからないの」

 言葉が震えたような気がした。精いっぱいの素直な気持ちを何とか伝え、ピュールがきゅっと目をつむる。なぜだか、とても恥ずかしい。

「ぴゅーる」

 つん、と指先に温もりを感じ、ゆっくりと目を開ける。いつもよりも近い場所にいるラグナがふわふわと、しかし得意げに微笑む。

「おれ、ぴゅーるに、おしえる。うれしときはね、ありがとっていうの」

 何の嫌味もない、ただただ屈託のない言葉。

 ピュールは思わず、ふふっと噴き出した。

「わらった」

「だって、ラグったら」

「むぅ」

 不満そうに口を尖らせるラグナの頬に、ピュールはそっと手を近づけ、触れた。初めて触れた指以外の場所。

 ラグナは目を丸くするが、動いて傷つけるのが怖いのかすっかり固まってしまった。

 緊張したまま、そろそろと指で頬をなぞる。くすぐったそうにラグナが目を閉じた。

「ラグ」

 ラグナの草原色がまっすぐピュールを見つめる。

「ありがとう。わたし、とっても嬉しい。これ、大事にするね」

 そう伝えると、ラグナの表情から緊張がほどけた。釣られてピュールもほっと表情を緩ませ、二人揃ってにへっと微笑み合う。

 そして、ピュールは未だに距離が近いことに気がつき、

「ああっ、ラグ、ごめんなさい!」

 と慌てて離れた。

 まるで火が付いたように顔が熱いのは気のせいではないだろう。せめて、彼には気づかれていないことを願いながら、あわあわと自分の顔を抑える。やはり、熱い。

「だいじょぶ、おれ、けがしてない」

 しかし、そんなピュールの動揺をよそに、ラグナは通常運転だった。ふわふわと微笑みながら、大丈夫だと自分のほっぺをアピールしている。

 ほっとしたような、がっかりしたような。そんな不思議な気持ちを抱えながら、ピュールは一旦胸を撫でおろし、

「あ」

 声をあげた。

 先ほどまで重なっていた月が、もう少しで完全に分離してしまう。

「もう、おしまい……」

 別れの時間が近づいたことに気づき、ラグナががっかりしたように呟いた。

「ラグ、あの」

「ぴゅーる」

 二人の声が重なった。

 考えていることは同じだ。

「また、会える?」

 ピュールが聞いた。

 ラグナが答える。

「うん、やくそく」

 そして、二人はいつかと同じようにそっと指先を重ね、月を見上げた。

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