3-2. 健康診断

 宙に浮かんだ虹色のしゃぼんがぱちりと弾け、沈んでいた意識が急激に引っ張り上げられる。

 目を開けて映ったのはいつものなんてことはない木の天井で、カーテンの隙間からは既に光が差し込んでいた。

 じっとりと汗ばんだ寝間着を胸の辺りでぎゅっと握り締め、何度か深呼吸。心臓がばくばくと早いリズムで音を刻んでいる。

 夢なんて見たのは、何年ぶりだろう。

 アッシュは独り言ちる。

 まだここへ来たばかりの頃、何度も見た夢だ。

 イーリスに救われ、初めて得た自分のベッド、自分の服、そして、自分へと向けられる愛。それらを嘲笑うかの如く、悪夢は彼の眠りを食い荒らした。

『いいんだよ、大丈夫だよ、アッシュ。我慢しなくていいんだ。アンタは、誰かの為に自分を抑える必要なんてないんだよ。アンタの生きたいように生きていいんだ』

 毎晩叫び起こされる度に、イーリスはやって来て、アッシュを抱き締めそう言った。

 ここには恐れるものは何もないと、怯える必要はないのだと。

 彼女はただただ温かい手でアッシュを受け入れ、そして、「下手で恥ずかしいんだけどねぇ」と照れ恥ずかしそうに笑いながら、子守唄を歌ってくれたのだった。

 それなのに。

 いつの間にかボスは自分だけの存在ではなくなってしまっていて、いつの間にか側にいる時間も減っていってしまって。

 理解はすれど受け入れられない自分がそこにいた。

 地獄のような日々を経て、ようやく手に入れた聖域を侵されたような──。

 そこでアッシュは考えることをやめた。

 勢い良く身体を起こし、カーテンを開き、窓を開ける。二つの月は二十五度まで傾いていた。

 まだ冷たい空気を吸い込んで、アッシュはまず服を着替え、それから髪を整え始めた。長い、腰下まで伸びた紅茶色に少しずつ櫛を入れ、通りが良くなったところでまとめて縛る。

 最初は手間どっていたことも、存外慣れると大したこともなく──しかし、イーリスのように細かくは結べない──できるようになるものだと、鏡の奥の自分にほんの少し誇らしげに笑うと、鏡の奥で蜂蜜色が柔らかく溶けた。

 タオル片手に部屋を出て、階段。ランスロットとはすれ違わない。

 代わりに地下室から出てきたリチュエルと挨拶を交わした。

 洗面台に立ち、手袋を脱ぎ、水を汲んで、タオルを沈め、絞ったタオルで顔を拭く。なんら変わりないいつもの行動。

 タオルを籠に投げ入れて、二階へと登り。アッシュはいつもの通り、隣の部屋の扉を叩いた。

「おい、起きろ。朝だぞ」



 朝食はパンが一つ、腸詰めが二本、そして、リチュエルの淹れた珈琲だった。普段ならば、さらにサラダやら目玉焼きやらがつくのだが、ここ最近の食事といえばだいたいこんな様相である。

「足んねぇ……」

 ぱたりと、向かい側に座ったアーサーが腹を鳴らしながらテーブルに突っ伏した。

「あーさー、おぎょうぎ、わるい」

 隣からそう注意するラグナも、物足りなさそうにお腹──ただし、刃のない部分──をさすっている。

 アレスター商会による経済制裁の影響は、ダイレクトに食卓へと響いた。パンはミスルトー、食材はサイファーから横流しをしてもらってはいるものの、五十二人分を賄えるほどではなく、こうして辛うじておかずをつけられる程度に留まっている。

 アッシュは物足りなさそうにしている二人を他所に、皿の上の腸詰めにぷつりとフォークを突き刺した。

 隣ではルクレツィアがじっと目の前に置かれた黒い液体を見つめている。

 少女の真白なおさげからは、何本かぴょいと毛が飛び出していた。縛ったのは自分だ。

 最初の頃と比べればだいぶ上手くなったとアッシュは隣の少女の頭を眺め、目を細める。

 元々イーリスとの時間を作らせるのが嫌で始めたのだが、上達するとなかなか気分がいいもので、何だかんだで毎朝のルーチンの中にあっさりと組み込まれてしまった。

 ──もう少し髪の分け方を意識すればもう少しきれいに結べそうだな。

 そんなことをぼんやりと思いながら腸詰めを口の中へと押し込むと、肉汁がじゅわりと広がる。

 数少ない朝食の味をしっかり噛み締めてから、アッシュは珈琲カップを手に取り、ちらりと右斜めに視線だけを動かした。

「そんなこと言ったって仕方ないだろ。──最も」

 一口。肉汁が苦味に上書きされる。

「どっかの誰かさんがさっさと解決してくれれば別だけどね」

 右斜めで同じくコーヒーを口に含んでいたはずのランスロットが、動きを止めた。

空気が凍りつき、真正面の二人が顔を強張らせる。

 かちゃりとカップを皿に置き、ランスロットがやはり視線だけをアッシュに向け、言った。

「まるで自分ならすぐに解決できるような物言いだな」

 アッシュが鼻を鳴らす。

「俺ならもっと早く解決できる」

「子守もできないのにか?」

 冷たい蜂蜜色と濃紺が、テーブルの上でばちりと火花を散らす。

 がたりとアッシュが立ち上がった。

「それとこれは別問題だろ!」

 ランスロットも立ち上がる。

「お前こそ、今回の任務に関わっていないくせに、簡単に口を挟んでくるな!」

「好きで関わってないわけじゃない!」

「やめな、アンタたち!」

 硬く凍りついた氷を、イーリスの鋭い声が叩き割る。二人の視線が外れ、ラグナたちが小さく息をついた。

「朝からそんなことで喧嘩しないどくれ。せっかくの食事がまずくなるだろう」

 そう言って珈琲を飲み干したイーリスは、立ち上がってから全員に向かって声を張り上げた。

「今日は健康診断だからね。みんなちゃんと準備しとくんだよ」

「はーい、ボス」

 食堂中の返事を確認し、イーリスはもう一度だけアッシュとランスロットを一瞥すると、食堂から出て行った。

「あの、アッシュさん」

 空気が硬直したテーブルで、ルクレツィアがちょんとアッシュのジャケットを引っ張った。アッシュが視線だけ少女へと向ける。

「苦かった、です」

 わずかに涙を浮かべながら、人生初の珈琲への感想を述べるルクレツィアを気を留めることなく、アッシュはいつぞやの商人の言葉を思い出してため息をついた。



 魔族でありながら魔族非ざる姿、魔族非ざる力を持った者達──テオドール。

 そんな特異な集団である彼等もまた、他の魔族と同じように風邪を引く。病気もする。当然、ケガもする。

 しかし、裏に潜む彼等を診てくれる医者となれば、決して多くはない。まして、今の状況ならなおさらだ。

 〈サイファーのため息〉〈ミスルトー〉などの普段屋敷にいないメンバーも含め、全部で五十二人。

 その全員の診察を終えた彼女は、赤いドレスからすらりとした長い脚を持ち上げて、ソファに深く腰を掛けた。

 きつく引かれたアイラインと赤みの強いルージュ、開いた胸元は自信の表れか──辛うじて肩にかけられた白衣が、彼女が医者であることを示している。

 彼女は鞄から使い古した上質なキセルを取り出すと、火を入れた。ゆっくりと煙を肺に入れ、天井をぼんやりと見つめながら煙を吐く。

「随分と香りが甘くなったじゃあないか」

 そう言ったのは、対面に腰を掛けるこの屋敷の主イーリスだ。ぎょろりと向いた真紅の瞳からほんのりと好奇の色を感じ取り、女は呆れたようにため息をつく。

「たまに味を変えただけでいちいち詮索されたらたまらないわね」

「はっは、そりゃあ悪かったねぇ」

 からからと笑い飛ばし、イーリスも煙草に火をつける。いつもと変わらない、甘く包み込むような香り。

 ほんのり苦みの混じるキセルの煙と甘い煙草の煙が上空で混ざり、溶けた。

 二、三度煙を吸って吐いてを繰り返し、イーリスが口を開いた。

「しかし、アンタもよくこんな状況で来てくれたもんだねぇ」

 感心したような、呆れたような、そんな声音で言われ、女は肩を竦める。そして、まだ暖かい珈琲カップをテーブルから手に取り、口をつける前に言葉を返す。

「私は医者よ。患者がいるなら来るわ」

 砂糖も何も入っていない苦い液体を含む。どこでも飲めるものであるが、ここで飲む珈琲が一番美味しいと来る度に思う。

「そりゃあ大した志だし助かっちゃいるけど、アンタの旦那の件もあるんだ。見つかったら大問題だろう?」

 言われ、彼女はカップを皿に置いた。縁についたルージュを指でふき取ってから、心外そうな顔で今度はキセルを咥える。

 マルセル・アレスター。何を隠そうこの女医、あのアレスター商会の元締めゼラン・アレスターの妻である。

 昔からこうして隠れて面倒を診てくれてはいるが、見つかった場合のリスクは、今は平時とは比較にならない。下手をすればアレスター商会そのものが潰れかねないのだ。

「見つからなければいいのよ」

 ゆるりと煙を吐いて、彼女はそう言い放った。そして、顔は上を向いたまま視線だけ返し、口の端を上げる。

「潰れたらその時考えればいいわ」

「全く、そういうところは本当に変わんないねぇ」

 ひとしきり大笑いをしてから、イーリスが杖代わりの曲刀に顎を乗せ、声のトーンを落とした。

「それで、どうだったかい?」

 イーリスが尋ねたのは、つい先日入ったばかりの少女ルクレツィアのことだ。グリズラから話は聞いていたが、本当に陶器のように白い少女だった。

 診た限り多少平均より小柄ではあるものの発育は正常。何か病気を持っている気配もなかった。

「……身体は恐ろしく健康よ」

 言葉を選びながらマルセルが答え、それから、ただ、と付け加える。

「……そうね、心は健康とは言い難いわね。緩やかな虐待ってところかしら」

 彼女が気になったのは、若干一四歳の少女の張り付いた笑顔だった。確かにこのくらいの年になれば空気を読んだり、相手によって対応を変えることができるようになるが、彼女の笑顔はそれとは違う。あれは、おそらく防衛反応から生まれる笑顔だ。

「やっぱりそうかい。そうだろうとは思ってたんだよ」

 剣の柄に額を押し付け、イーリスが苦々しく息を吐く。マルセルはすっかり冷たくなった珈琲を一気に胃に流し込むと、沈痛な面持ちの彼女に問いかけた。

「なぜ、あの子をアッシュに任せたの?」

 テオドールとの付き合いが始まってから、かなりの年数が経つ。

 彼等がどのような経緯でここにたどり着いたかまでは知らないが、人と成りを知るには十分な時間は経過しており、とりわけ当初からいるアッシュについてはよく知っているつもりだ。

 ゆえに、イーリスに執着し排他的な性格をしているアッシュに、敢えて、この時期に、よりにもよってルクレツィアの面倒を見させているのが不思議だった。

「あの子は、本当は面倒見のいい優しい子なんだよ」

 イーリスが新しい煙草に火をつけながら言った。

「その面倒見の良さを悪い大人に利用されて、全てを奪われた。だから、あの子は自分のものを差し出さない。過剰に自分のものを守ろうとする。必死なのさ」

 吐き出された煙が宙を舞い、滞留する。甘さに混じる苦みは珈琲のものだろうか。

「でも、そのせいで誤解されっぱなしさ。あんまりだろう? アタシゃそれが辛抱ならなくてねぇ」

 心配を口にする彼女は、裏組織のボスからは程遠い──例えるならば、母親のような、愛おしさと厳しさを兼ねそろえた、そんな表情をしていた。これが裏のグランマと呼ばれる一端なのだろうと心の中で納得しつつ、マルセルは背もたれに背を預けたまま腕を組む。

「ねぇ、イーリス。貴方、アッシュにそれを伝えたこと、ある?」

「……そういえば、ないねぇ」

 しばし思案を巡らせてから、イーリスは首を横に振った。

「余計なお世話かもしれないけど」

 マルセルはおもむろに立ち上がりイーリスの側まで行くと、彼女の手から煙草を取り上げる。

 そして、まっすぐにイーリスの真紅を見つめ、言った。

「思ってることは口に出さないと伝わらないわよ。特に、ひねくれ者相手にはね」

 すると、イーリスはしばらく丸々と目を見開いてから、思い切り大口を開けて笑い始めた。

「あっはっはっは! アンタからそんなこと言われる日が来るとは思わなかったよ」

 そう腹を抱えて笑う様は不愉快極まりないものの、心当たりがあるせいで反論もできず、マルセルはただため息をついた。

 やがて、ひとしきり笑い終えたらしいイーリスが珈琲で喉を潤してから静かに息をつく。

「そうかも、しれないねぇ」

 ぼんやりと天井を見つめる真紅の瞳は、心なしかいつもより疲れた色をしていた。

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