第3章

3-1. 夢か現か

 自分は、孤児院にいるにはあまりにも大人すぎる子供だった。

 それは比喩でもなんでもなく、ただただ事実だ。

 同い年の連中は、一五になる前にとっくに院を追い出されていて、自分だけが浮いた存在として取り残されていた。

 金もなければ身分もない。

 魔界の端の小国の、さらに端にある小さな孤児院に捨てられた自分には、孤児院の口添えがなければ、どこにも勤めることができなかった。

 唯一の趣味は、近くの街の図書館で本を読むことだった。

 幸い働くのに必要だからと字だけは教えてもらっていた為、本の虫になるのに時間はかからなかったように思う。

 数日に一回、近くの町の図書館に出かけて本を読むことが唯一の楽しみだった。本を読めるなら何でもよくて、とにかく色々な読んだ。

 絵本、伝記、歴史書、建築書──難しくてわからないものも多かったが、それでも色んな知識に触れられるのが嬉しくて仕方なかった。そんな中、特に没頭したのは魔術書だった。


『魔族は障気に適応する為に魔力を犠牲にしてきた。』

『魔族で魔法を操れるのは、ごく一部の選ばれし者だけである。』


 初めて手に取った魔術の入門書にあった、冒頭の二文。

 この二行が、人生を変えたと言っても言い過ぎではないと思う。

 まだほんの十年ぽっちしか生きていなかった自分にとって、選ばれし者という言葉はあまりにも魅力的で、甘美な響きであり、そして、救世主のようでもあった。

 それこそ、自分をこの生活から救い上げてくれるような魔法の言葉のように思えた。

 初めて魔法を使ったのは、十一歳の時だ。枯れ葉に火を付けるだけの簡単な魔法だったが、自分に才があると自惚れるには十分だった。

 炎、水、風、雷──図書館からこっそりと本を持ち出しては様々な魔法を試した。自分は選ばれし者なのだと、信じて疑わなかった。

 ある日、いつものように隠れて魔法の練習をしていたところを院長先生に見つかった。

 怒られると思ったが、院長先生は喜んでくれた。

 十二になったばかりの頃。

 思えばこれが、始まりだった。



 十五が近くなり、歳の近い連中が次へ次へと仕事を決めて出ていく中、自分だけは働き先をもらうことができなかった。

 「働き口を下さい」と聞けば、院長はにこやかに「君にはもっといい場所がある」と躱(かわ)されるだけで一向に話が進まない。

 その頃には魔法も一人前で、その辺の大人よりもずっと役に立てるという自信もあったし、読み書きだって他の連中よりもずっとできたつもりだ。

 孤児院だって裕福ではない。

 小国の果ての小さな孤児院では、衣服も食料も足りていない。事実、食事や衣服等も年齢の低い子が優先で、年上の自分は何かと我慢を強いられることの方が多かった。

 そんな状況にあればなおさら出るべきだと思うわけで。

 それでも、院長は「まだだよ」と微笑むだけだった。



「あっしゅにい、あしょぼ」

「あっしゅにい、まだねむくない」

「あっしゅにい、ごほんよんで」

 十八を迎えた日のことだ。

 おめでとうの一つもなく、いつも通り子供達と遊んで、いつも通り本を読んで──とにかく、その日は何一つ変わらないいつも通りの日だった。

「だーめ。今日はもう寝る時間」

 ぱたんと今しがた読み終えたばかりの絵本を閉じて、床に寝転がった子供達に笑えば、

「ええー! あっしゅにい、いじわる!」

 と、まるで示し合わせたかのように意地悪の大合唱。

「だめなものはだめ。また明日違うの読んでやるからさ。ほら、火、消すよ」

 ふっと息で窓辺に置いた蝋燭の火を吹き消すと、部屋はあっという間に静かになった。

 ベッドなんてない小さな部屋に、それぞれ毛布を持ち込んでの雑魚寝だ。すっかり大きくなった自分には横になるスペースなんてなくて、いつも窓付近の壁に寄りかかって眠っている。

 ぼんやりと顔を上げて窓の外を見れば、光の欠片すらない一面の漆黒。

 地上では夜になれば月が空を照らすらしいと、この前読んだ本に書いてあったことを思い出す。

 魔界もそうであるなら、月明りで本を読むこともできただろうに。

「一体いつまで俺はここにいるんだろう」

 ほとんど無意識に漏れた言葉だった。

 子供達の為、なんて綺麗ごとを言う気はない。

 選ばれし者の自分なら、どこへ行ってもきっと歓迎されるはずで、今の生活なんて比較にならない良い生活ができるはずなんだ。なのに、何で──。

「あっしゅにい、いなくなっちゃ、や……」

 出口のない思考の迷路に片足を踏み入れたちょうどその時。

 もぞりと、自分の膝を枕にしていた子がそう言って寝返りを打った。頭をぶつけないよう手を添え、そろりと床に下ろす。

 お世辞にもきれいとは言えない、くせ毛交じりの髪を撫でながら、

「……でも俺は、出たいんだよ」

 ぽつりと呟いた。



 時計の秒針の音を子守歌代わりに、うつらうつらと頭が揺れる。

 遠くの方で足音がバタバタと響いている。院長先生だけじゃない。聞いたことのない足音。

 ──こんな時間に?

 心地よいまどろみのしゃぼんが突然壊れた。

 いつもなら気にも留めないはずの音が妙に気になって、俺は子供達を踏まないようにそろりと部屋を抜け出した。

 この時間になれば廊下も火は消えて真っ暗だ。目を凝らして音のする方へと歩いて行くと、一番奥──院長室から光が漏れているのが見えた。

 そういえば、院長室には入ったことないな。

 そんなことを考えながら足音を殺し、さながら泥棒のように扉へと近づいた。

「──は、本当に優秀なのかね?」

「えぇ、もちろん。今まで何度も見せてもらいましたが、そりゃもう立派な魔導師です」

 聞き覚えのない男の声と、院長先生の声。明確に名前は聞こえていないが、自分のことを話していることはすぐにわかった。

 どこかの国のお偉いさんだろうか? それとも、研究員? 教授?

 院長先生がまだだと言ったのは、この為だったんだ!

 自分のことを選ばれし者と信じ切っていた俺は、すぐにそう思った。

 そして、魔法を見せたときの優しい驚きを思い出しながら、すっかり舞い上がり、何の躊躇いもなく扉を開けた。

「院長先生! 俺、いつだって行けますよ!」

 予定ではそこで、院長先生はいつもの優しい驚きを浮かべていて、「こらこらアッシュ、こんな時間まで起きていてはいけないよ」なんて困った顔で言ってくれるはず、だった。

 ようやく見つけた出口を目の前に無邪気に喜べるほどに俺は子供で、隠された悪意に気が付けるほど、大人じゃなかったんだ。

 そう知ったのは、心の隅においてあったはずの僅かな違和感に気がついた時だった。

「──え?」

 一歩、部屋に踏み込んで目に映った光景は、あまりにも残酷であまりにも汚い現実だった。

 俺達が使っているものよりもずっといいソファとテーブル。

 その上に積み上がっているのは──金だ。しかも、見たことがない程の巨額の大金である。

 一体これが何の為の金なのか、頭は咄嗟に理解を拒否した。

 孤児院にこんな大金があるはずがない。となれば、答えは一つだ。

 ──売られるのだ。

 ぐらりと頭が揺れた。

「こらこらアッシュ。こんな時間まで起きていてはいけないよ」

 予定と寸分違わず、院長はすっかり固まってしまった俺に向かって優しく微笑んだ。

 違うのは俺の心で、積み上げられた現実で。

 これは一体どういうことですか?

 ただ、そう聞けばいいのだ。

 ただそれだけのことなのに、言葉が喉をつかえて出てこない。

 聞けば否定してもらえるかもしれないのに、それと同じ──否、それ以上に肯定されることが恐ろしかった。

「君が、アッシュ君かい?」

 沈黙を破ったのは、先程まで院長先生と話していた男だった。

 黄土色の目をした紳士。

 それが、第一印象だった。

 彼はゆっくりと柔らかそうなソファから立ち上がると、眼鏡の奥で目を細め、俺のことをじっくりと上から下へと、下から上へと何度も確認するように視線を動かした。

 視線が動く度、背筋にぞっと虫が這う。何度も数を増やして、逃げられないように。気づけば身体中に虫が這いまわっていた。

「そう、です」

 ようやく絞り出した声はほとんど掠れ切っていて、身体は見えない虫に捕らえられ、俺はただ茫然と目の前の紳士を見つめることしかできなかった。

「ふむ、なるほどなるほど」

 紳士は俺を見て納得したようにそう頷くと、乾いた靴音を鳴らし、近づいてくる。

 品のいいスーツに、品のいい革靴。きっちり纏め上げられた髪と髭は清潔感があり、決して不快になるものではない。

 妙に鮮烈に映ったのは、額の刻印だ。

 魔族の証でもある顔の刻印。

 形は違えど、多くは頬に刻まれるはずの紳士のそれは、額にあった。

 例えるならば、ダイヤの花のような、そんな模様。

 紳士の歩みは、目の前で止まった。

 背はさほど変わらない。黄土色の瞳が優しく、しかし粘着質に俺を見つめる。

「これは期待以上だよ、院長」

「そうでしょうとも。魔族でこれほど優秀な素養がある者も早々いないはずです」

「全くいやはや、ここまでとは思っていなかった。この額では足りんな、とっておきたまえ」

 紳士は胸ポケットから何か紙を取り出すと、ペンでさらりといくつかの丸を書いて院長先生へと投げ渡す。ひらひらと舞ったそれに、院長先生は見たこともないような ──欲望にまみれた顔をして飛びついた。

「あの、これは、どういう」

 無数の虫が、体中を這い上がってくる。

「アッシュ、君は優しい子だ。優しくて、優秀な子だ」

 うっとりとした表情で一枚の紙を眺めながら、院長先生が言った。

「そうじゃ、なくて」

 一歩、二歩と後ずされば、目の前の紳士もまた、一歩二歩と近づいてくる。

 三歩、四歩、五歩目はなくて、背中に扉がぶつかった。

「私は優秀な子が大好きだ。君はいい検体になる」

「検体って!」

 紳士の口から飛び出た単語に、俺はないはずの五歩目を必死に踏もうと背中を扉に押し付ける。

 縋るように院長先生を見れば、いつものあの優しい笑顔で、

「君は優しい子だ」

 と繰り返すだけだった。

 いやだ。いやだいやだいやだいやだ。

「何で、俺が……!」

 紳士の腕が顔に伸び、頬をかすめる。

「仕方がないんだよ、アッシュ。この孤児院には、金がないんだ」

 じゃあ、この立派な院長室はなんだ。

「みんなの為なんだ、アッシュ」

 みんなの為に、何で俺が我慢しなきゃならないんだ。

「君は優しい子だ」

 なんで俺だけが。なんでなんでなんで──。

「感謝しているよ、アッシュ」

 虫を振り払おうと腕を上げるも手遅れで、最後に見たダイヤの花だけが妙に記憶に残っていた。

 十八になった日。

 俺を迎えに来たのは、黄土色の目をしたダイヤの花の紳士だった。

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