2-4. 亀裂

「いいですか、ツィアさん。ここをこうやって持って、ここに通すんです」

「……こう、ですか?」

「お、上手です上手です! それで、次にこちらを。……うん、とってもベリーグッドです」

 アッシュがもやもやとした気持ちを抱えながら食堂に行くと、ルクレツィアとリチュエルが何やら糸を前に格闘していた。

「……何やってるの」

 はぁと大きくため息をついて、アッシュがリチュエルの隣に座る。

 テーブルには色とりどりのビーズが広がっており、どうやらそれでブレスレットを作っているようだった。

「先日、見かけて買ってきてたんですが、なかなかやる暇がなかったので」

 ふふふ、と笑いながらリチュエル。その向かいではルクレツィアが真剣な表情で小さな穴に糸を通している。

「……でき、ました!」

 最後の一個を通したルクレツィアが、まだ端を結んでいないビーズの紐を嬉しそうに掲げた。

「おー、お見事です。じゃあ、これ、結んじゃいましょう」

 ひょいとそれを受け取り、リチュエルが器用にビーズの輪を作る。そして、目を輝かせるルクレツィアの腕にそっとはめた。

「見てください、初めての自作アクセサリーです!」

 自慢げにリチュエルが言った。

「……くっだらな」

「そういうこと言っちゃだめでーす。アッシュさん、罰として今晩のおかず一品抜きです!」

「なんでだよ!」

 リチュエルが立ち上がり、こつんとアッシュの額を人差し指でつつく。

「アッシュさんはもう少し乙女心を学びましょうね?」

「必要ないよ」

「ほらー、そういうとこです、そういうとこ!」

「……リチュまでそういうこと言うのやめてよ」

「私だから言うんですよ。ところでアッシュさん」

 そう言って、リチュエルが突然ルクレツィアを立たせた。

 ルクレツィアの服が、丈の長いルーヴのおさがりから淡い黄色のワンピースに変わっている。

「どうです? 可愛いでしょう?」

 リチュエルに背を押され、ルクレツィアがアッシュの前に立つ。

「どれがいいって聞いたんですけど、選べないようだったので私の方で勝手に選んじゃいました」

「……そう」

 少女の色素の薄い紅の瞳がまっすぐにアッシュを見つめる。リチュエルの言葉にやはりちり、と違和感を覚えていると、食堂の扉が突然開き数人が雪崩れ込んできた。

「もー! 最悪!」

 その先頭に立つのはルーヴだ。彼女は乱暴に足音を鳴らしながら、すぐ近くのテーブルについて顔を伏せた。

「待てルーヴ。そんなに怒らなくても……」

 後に続くのは困り顔のランスロットと、

「るーゔ、ぷんぷん。こわい」

 ドーナツを片手におどおどしているラグナだった。

「そんな怒ることなの! あんのストーカー男、ほんっと気持ち悪い!」

「ルーヴ姉、どうかしたんですか?」

 憤慨するルーヴにリチュエルが声をかけた。すると、ルーヴはぱっと立ち上がり思い切りリチュエルの手を握り締める。

「聞いてよ、エルぅ。この前のナンパ男、またいたのよぉ」

「えっ、あのイケメンだけどなんか生理的に受け付けないって言ってたあのナンパ男さんですか?」

「そう、そいつ!」

「……容赦ない物言いだな」

 わかりあう二人をよそに、アッシュとランスロットが思わず同時にぼやいた。

 ルーヴの長い長い愚痴を要約するとこうだ。

 約ひと月前から、ルーヴが買い物に出ると毎回声をかけてくる男がいた。最初の数回は偶然かと思っていたが、どうやら最近は見計らったようなタイミングで出会うらしく、さすがにストーカー地味て気持ちが悪いとのことだった。

「どうせお前がまた余計なモーションかけたんじゃないの」

「してないわよぉ! あんな男、見たこともなければ話したこともないもの」

 アッシュが呆れてため息をつくと、ルーヴはバンっと机を叩いて主張する。端に座ったラグナが「こわい」と首を引っ込める。

「アッシュ。今回は本当にルーヴは……」

 ルーヴの悩みを一蹴するアッシュに対し、ランスロットがフォローを入れようとするが、

「出た、お人好し」

「……何?」

 アッシュが呟いた一言に、ランスロットがぴくりと反応する。

「あう。らんすろっと、あっしゅ、ぴりぴりだめ……」

 凍り付いた空気に、ラグナがおろおろと声をかけるも二人は睨み合ったまま動かない。

「お前はもう少し寄り添うべきだと何回言えばいい?」

「余計なお世話って言葉、お前の為にあるんじゃない?」

「え、何、どうしたの」

 先刻の事情を知らないルーヴが、顔を強張らせる。その後ろで、誰もいないはずの扉が開き、閉じた。

「俺は忠告してあげてるんだけど?」

「その言葉、そっくりそのままお前に返す」

「よく言うよ、頭も使えないくせに」

「俺は、お前みたいに頭でっかちじゃないだけだ」

「それを馬鹿って言うんだよ!」

「そうやってすぐ人を見下す。だからお前は──」

 食堂の扉が開いた。

「みんなから嫌われるんだ!」

 入ってきたイーリスが言葉を発する前に、ランスロットの言葉がアッシュを刺した。

「ランス……」

 その場にいる全員が、凍り付いた表情でアッシュを見つめる。

「あー、もう! やめ、やめ! ほらほら、もうすぐ飯の準備だし、一旦部屋戻ろうぜ!」

 イーリスと共にやってきたアーサーが、ランスロットとアッシュの背を叩いた。しかし、凍りついた刃は溶けることはない。

「随分と」

 アッシュが拳を震わせながら口を開いた。

「随分と偉くなったもんだね。よかったじゃないか、そうやって俺のこと引きずり降ろして満足? せいぜいリーダー頑張りなよ。俺なんかよりも成果出せるんだろうしね」

「アッシュ、ちが──」

 ランスロットが弁解しようとするも、アッシュの凍り付いた表情はそれを許さない。

「せいぜい好きにやればいいさ。俺も、好きにさせてもらう」

「アッシュ!」

 アッシュはランスロットの制止を振り切り、食堂から飛び出した。その後を追って、ルクレツィアが駆け出す。

「ああっ、ダメです!」

 リチュエルが腕をとろうと手を伸ばすが、少女の腕はするりと抜けてあっという間に姿を消してしまった。

「……い、今のは仕方ないよ」

 すっかり青ざめた顔をしたランスロットの腕を、ルーヴが慰めるようにとる。

 藍色に落ちた空気が、重く食堂を漂っていた。



 ランスロットは嘘をつけない男である。

 嘘をつく為には練習が必要なくらいには正直で、疑いようのない清々しい馬鹿である。

 長年の付き合いがある彼のことを、アッシュはそう評した。

 すっかり人も疎らになったグルッグ通りを抜けて、アッシュは今、ラクーナの中心に位置するマルク広場にいた。

 二つの月もそろそろ沈む頃だ。調光師が街灯へ、ひとつひとつ魔法の火を灯して回っている。

 灯ったオレンジ色の光をぼんやりと眺めながら、アッシュはベンチに腰を掛けた。胸中はざわめいていて、時折ずきりずきりと残った破片が心に刺さる。

「なんだよ、みんなって」

 吐き捨てるように呟く。

 ランスロットとこうして口論になるのは今に始まったことではない。

 アッシュのやり方が気に食わなければ、彼は必ず食って掛かってくる。そして、アッシュもまた、ランスロットの言い分が気に食わなければ言い返す。

 それは、出会ってから何年も、何度も繰り返されたことであり、今更気に留めるようなものではなかったはずである。

 ──みんな。

 アッシュが引っかかったのはこの言葉だった。

 まっすぐに自分の意見のみをぶつけてきたはずの彼が、今回初めて他人の言葉を借りたのだ。

 そして、正直な彼のことだ。きっと本当のことなのだろう。

「俺だって、何も考えてないわけじゃない」

 思いの外ダメージを受けている自分に苛立ちを覚え、ベンチの背に顔を伏せてもたれかかる。乱暴に結ばれた長い紅茶色の髪が、通り過ぎる風で吹き上がった。

 ──ボスに結んでもらえばこうはならないのに。

 心の中でそんなことを思いながら顔を上げると、ふと視界に自分のものではない足が映った。

 やや動転気味であったとはいえ、ここまで近寄られるまで気配に気づかないとは。

アッシュは慌てて顔を上げると手袋に指をかけ──目を丸くした。

 男が立っていた。痩せた男だ。右目を覆い隠すほど長い灰緑色の前髪に、窪んだ赤紫の瞳。

 アッシュはこの男のことを知っていた。記憶の糸を手繰り寄せ、目の前に立っているかつての友人の名前を思い出す。

「……ソル!」

 アッシュが歓喜の色を混ぜて名を呼んだ。すると、ソルと呼ばれた青年はほっとしたように顔を綻ばせる。

「よかった。もしかして忘れられてるんじゃないかと思った」

「まさか! 忘れるわけないだろ」

 興奮気味に立ち上がり、アッシュは青年の手を取った。骨ばっている手は、昔のまま変わらない。

 ソル。本名ソリテール。彼はかつて、人体改造の研究所で出会ったアッシュの友人である。

 あらゆる権利をはく奪され、明日の身体は自分のものではないかもしれない恐怖の中で得た、ただ一つの光明。アッシュにとってソリテールは、そんな存在だった。

 変わり果てた自分達の姿に絶望をしながらも、辛うじて命を繋いだ者同士。檻の中、二人はいつかの為の夢を語り合った。

 そのいつかは、研究所の崩壊と共に消え去り、互いの生死もわからぬまま存在を別つことになってしまったのだが。

「……無事でよかった」

「君もさ、アッシュ。こうしてまた会えるなんて思いもしなかった」

 握った手からお互いの無事を確認し、嬉しそうに笑い合う。アッシュが首を傾げた。

「でも、よく俺のことわかったね」

「君は僕と違って目立つから。すごい怒った顔で通り過ぎてくからさ、追いかけてきちゃったんだ」

 ベンチに並んで腰を掛けると、ソリテールが少し意地の悪い表情を浮かべて言った。

「……やだな、それ見られてたのか」

 アッシュは思わず目を反らし、バツが悪そうに頬を掻く。

 ソリテールがくすくすと微笑んで、アッシュの顔を覗き込んだ。

「それで、何に怒ってたんだい?」

 柔らかい赤紫の瞳は昔のままで、ほんの少し昔に戻ったような気がした。アッシュは胸を撫でおろし、口を尖らせる。

「喧嘩してさ。くっだらないやつ」

「へぇ、君が? 珍しい」

「それがそうでもなくてさ」

「君が喧嘩ってあんまり思い浮かばないんだけど、どんな内容で喧嘩するんだい?」

 問われ、アッシュが一度口を閉じた。そして、ややしばらく考えてから声のトーンを一つ落とし、再び口を開く。

「……俺、今、テオドールにいるんだけど」

 その様子を黙って見ていたソリテールが、眉間に皺を寄せた。

「テオドールって、あの?」

「……そう、あの」

 今やテオドールの存在は、人体改造を受けた者ならば知らぬ者はいない。行き場を失った改造済みの者達の受け皿として、自ら加入を求めてやってくる者も多く、ボスであるイーリスは愛情深い存在であると──そう、親しみを込めて裏のグランマと呼ぶ者もいるくらいだ。

 しかし、それも平時での話。今のテオドールは商隊を襲う無法者の扱いなのだ。ソリテールが怪訝な顔をするのも無理はない。

「一応弁解するけど、俺らはやってない」

 ひとつ前置きをして、アッシュは組んだ手に額をつける。

「……まぁ、そういう事態だからさ。さっさと解決したいのに、ボスも周りもそうさせてくれなくて。今は子守してる」

「子守?」

「そ。俺は認めてないんだけど、一人メンバーが増えてその世話さ。何が悲しくて、使えない宝石作る子供の面倒を見なきゃならないんだか」

 はぁと大きなため息をついたアッシュの隣で、ソリテールが僅かに眉を動かした。

「……へぇ、大変だね。認めてもらえないのは辛いや」

「なんか居場所なくなったみたいで、嫌になっちゃったよ。ところで」

 アッシュがパッと顔を上げると、ソリテールは笑顔を作り直す。

「今、どこで何してるんだい?」

 彼がラクーナに住んでいないだろうことは、今まで出会わなかったことが証明していた。品のいい服装からも、そう悪い生活をしていないことも窺がえる。

 ソリテールは、アッシュの問いに目を細めて笑った。

「あの後、奇跡的に生き残ってしばらく色んなところ転々としてたんだけど、今はある人に拾ってもらって、いい暮らしさせてもらってるよ」

「なんか似てる」

 自分がかつてイーリスに拾われ一命を取り留めたことを思い出し、アッシュもまた目を細める。

「仕事は、うーん……何でも屋、みたいな?」

「何でも屋って?」

「本当に何でもさ。護衛もするし、配達もするし……最近だと、人探しとか」

「へぇ」

 ソリテールの表情は穏やかで、充実しているように見えた。彼は自分とは随分違う──光ある場所で生活をしているのだろうと、羨ましさが心をかすめる。

「でも、よかったよ」

 アッシュが一息ついた。隣でソリテールが、宝石のような瞳を瞬かせる。

「よかった?」

「うん、ソルが生きてて。……あの時、自分だけ生き残って、ソルのこと見殺しにしたんじゃないかってずっと思ってたから」

 思い出すのは、研究所が崩壊した時のことだ。

 積み重なる瓦礫の下で、一体何人が犠牲になったのか。遠のく意識の中で、最後まで自分の名を呼んでいた友人。目を覚ました時、ただ一人自分だけが助かったという事実は、アッシュの心に数年に渡り影を落としていた。

「なんだ、そんなこと」

 そんなアッシュの罪悪感を吹き飛ばすかのように、ソリテールはくすくすと笑う。

「僕だって同じさ。自分だけが今幸せなんじゃないかって思ってた」

 ずきり。

 幸せという言葉に、アッシュは咄嗟に反応しきれず胸を押さえた。

「……ねぇ、アッシュ」

 それを見ていたソリテールが、声のトーンを一つ落として言った。

 はっと顔を上げると、そこには困り顔の友人の姿。彼はアッシュと目が合うと、昔と変わらない気の弱そうな笑顔で言葉を繋ぐ。

「僕と、一緒に来ない?」

「えっ?」

 言葉の意味が分からず、アッシュは思わず声をあげた。ソリテールはアッシュに顔を近づけると、真剣な表情で続ける。

「僕のお父さん。……あぁ、そうやって呼んでるんだけど、その人、ものすごい優しい人でさ。よく言うんだ。ソル、お前が助けたいと思う仲間がいたら、いつでも連れてきなさいって」

「おとう、さん」

「アッシュのことも、お父さん、きっと僕と同じように愛してくれると思うんだ。……もちろん、僕もまたアッシュと暮らせるなら嬉しいし」

 ソリテールの誘いは、アッシュにとって十分魅力的なものだった。孤児のアッシュにとって、父親と呼べる存在はどれほど羨ましいか。

「どう、かな?」

 控えめに自分を覗き込む友人の瞳に、アッシュはしばらく考えてから困ったように笑う。

「考えておくよ。まだ、やらなきゃならないこともたくさんあるし」

 そう言いながら過(よ)ぎるのは、イーリスの存在だった。

 ――自分を救い、愛してくれる人。

 アッシュにとって彼女は、離れがたい何よりも大切な存在である。

 アッシュの返答にソリテールは少しがっかりしたようだったが、立ち上がると笑みを戻した。

「気が変わったら言って。僕もしばらく仕事でこっちに来る用が多いから、また会えると思うし」

「また、会えるかい?」

 アッシュが聞いた。

「もちろんさ。僕の能力、まさか忘れたのかい?」

 そう言って、ソリテールは髪で隠れていた右目を見せた。本来右目のあろう場所には、金色の義眼が埋め込まれている。それは、〈魔眼〉と呼ばれる人体改造によって得たものだった。

「まさか」

 アッシュは心外そうに肩を竦める。

「うん、だから。君を見つけえさえすれば、追いかけるのは容易い」

 目を再び髪で隠し、ソリテールは楽しげに言った。ゲームを楽しむかのような口調だった。

「それは、楽しみだな」

「うん、楽しみにしてて。……それじゃあ」

 アッシュも立ち上がり、向かい合う。

「うん。それじゃあ、また」



 久々の友人との再会に上機嫌だったアッシュの気分は、すぐにドン底まで落ちた。

 背には、〈サイファーのため息〉から引き取ってきたルクレツィアがおぶさったまますやすやと眠っている。

 聞けば、彼女はあの後自分を追って来ていたらしいではないか。

なんとかアーヴァインによって街に出るのは阻止されたものの、何も知らない彼女がテリトリーの外に出てしまったことを考えるとぞっとする。

 おかげで店も開けられず、アーヴァインも困り顔だった。

「ボスに側にいろって言われたからって、本当意味わかんない」

 ぼそりと彼女が追いかけてきた理由を呟いて、アッシュは屋敷の扉を開く。

「あらら、寝ちゃったんですね」

 アッシュを出迎えたのはリチュエルだった。ちょうど湯あみが終わった後らしく、髪はまだ濡れたままだ。

「サイファーで寝こけてたよ。全く、寝るくらいなら屋敷にいればいいのに」

 やれやれと肩を竦めるアッシュの隣で、リチュエルが眠る少女の頬をつんつんとつつく。少女はくすぐったがりはしたものの、むにゃむにゃ言うだけで起きる気配はない。

「……ランスロットは?」

「先程、ラグナさん、アーサーさん、ルーヴ姐、あとは……フォッグ君連れて出ていきました」

「随分と豪華なメンバーで」

 階段を登りながらアッシュが呆れた声をあげる。先に階段を登り切ったリチュエルは、くるりと振り返ると困った風に眉尻を下げた。

「初めてだから心配なんですよ、ランスロットさんも」

「どうだかね」

 リチュエルが開いた扉をくぐり、ルクレツィアの部屋に入る。長年使われていなかった部屋は、必要最低限の家具しか置いておらず、がらんとしていた。きれいに整えられたベッドに少女を下ろし一つため息。

 すると、布団をかけながらリチュエルがぽつりと呟いた。

「帰ってこないんじゃないかと、少しだけ心配しました」

 まるで先程の会話を聞かれていたのではないかと疑うような言葉に、アッシュは一瞬顔を強張らせた。彼女は眠る少女の頭を撫でており、こちらを見てはいない。

「……ボスがいるのに、そんなことするわけないだろ」

 動揺を押し殺してそう答え、アッシュはリチュエルの焦げ茶色の髪に手を伸ばした。まだ乾ききっていない髪からはほんのりと甘い香りが漂っており、そこに顔を埋める。

 リチュエルがそっとアッシュの頭に頬を寄せ、口元だけで笑った。

「私のこと、置いていかないでくださいね?」

「どんくさすぎて放っておけない」

 テオドールの中で、リチュエルは特異な存在だ。

 単に普通の魔族であるということだけではない。彼女は唯一、アッシュがテオドールに引き入れた人物だった。そして、リチュエルもまた、イーリスではなくアッシュに従っている。

「ひどいです。これでもだいぶ立派になったと思うんですけど」

「もの壊す回数が減ったら考えるよ」

 かつて彼女がスパイとしてやって来た日のことを思い出して、アッシュは噴き出した。まさかあの大根役者がこうしてテオドールの一員として側にいるのだから笑ってしまう。

「う……」

 と、眠るルクレツィアが声をあげた。二人はそっと身を離し、息を潜める。

「おかあ、さん……」

 少女の瞑ったままの瞳から、小さな涙を一筋流れた。アッシュがその様子に眉根を寄せ、手で涙を拭ってやると、少女の身体から力が抜ける。

 そして、彼は黙って部屋を出た。

「まだ、ご両親が恋しい年頃ですね」

 ぱたりと扉を閉めて、リチュエルが言った。

「それでも俺は、信用できない」

 きっぱりと、アッシュはリチュエルの薄墨を見つめて返す。

 彼女は否定も肯定もせず、ただ頷いた。

「夕飯、どうされますか? ……だいぶ、目減りしましたが」

「今日はいい。もう寝るよ」

 そう言って隣の自分の部屋の扉に手をかけると、突然リチュエルがアッシュの腕を引いた。

「あっ、ちょっと!」

 咄嗟のことにバランスを崩し、しりもちをつく。抗議の為に上を向くと、ちょうどリチュエルの額とアッシュの額がこつんとぶつかった。湿った焦げ茶色がアッシュの頬をくすぐる。

 リチュエルが言った。

「私は、アッシュさんの味方です」

 アッシュが少し間を空けてから、答える。

「知ってる」

 その回答に満足したのか、リチュエルは離れるとおやすみなさいと階段を下りて行った。

 揺れるこげ茶色を見送りながら、アッシュはずきりと胸が痛むのを感じた。

 自室に戻りベッドに身体を投げ出すと、睡魔がすぐに侵食を始める。

 今日は一日、あまりにも色々なことがあり過ぎた。

 今頃、ランスロットは現場で指揮を執っているのだろうか。早くこの件について片付けなきゃいけないのに。ボスは、俺のことどう思って──。

 止めどなく流れる感情の波に揺られながら、意識が徐々に濁り落ちていく。

『――ねぇ、アッシュ。僕と、一緒に来ない?』

 ただ一つ。かつての友の言葉だけが、アッシュの頭で何度も語りかけてくるのだった。

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