2-2. 読めない心
花が、咲いていた。
その花は、少女の形をしていた。胸元に色とりどりの花が咲き乱れ、左胸にはひときわ大きな赤紫の花が、花芯に輝く真紅の宝石を守るように咲いていた。
小さな森の大きな切り株の上にちょこんと咲いた花は、何者も触れられないようにと、白い肌に棘を纏っていた。
花は、空を見上げていた。
切り株の周りには木々はなく、赤い空がよく見えた。
東西から登る二つの月は、もうじき一つに重なるだろう。
花の傍らには、大きな蕾が鎌首をもたげ沈黙している。
花は、菜の花色の瞳をそっと閉じ、耳を澄ませた。遠くから足音が聞こえる。足音はどんどん近づいてきている。息を乱して、駆け足で近づいてくる。
花は、胸を高鳴らせた。
この足音は、彼に違いない。
閉じていた目を開き、花はその方向をじっと見つめた。
もう少し、あとちょっと。近づいてくる足音。
鬱蒼と茂る木々の合間を抜けて彼が姿を見せた時、花は顔を輝かせ、叫んだ。
「ラグ!」
花は、少女になった。
短く切りそろえられた菫色の髪を揺らし、同じく顔を綻ばせた空色の髪の少年へと駆けて行く。
「ぴゅーる!」
少年は、纏っていたフードを脱ぎ捨て少女の名を呼んだ。
露わになった彼の上半身は、刃で覆われていた。肩に、胸に、腕に、脇腹に、背中に。鋭い刃はひんやりとした光を放ち、まるで周囲を拒絶しているかのようだった。
「よかった、また、あえた」
少女の前にやってきた少年は、そう言ってふわふわと微笑む。
「わたしも、会えてよかった」
少女もその笑顔にホッとして微笑みを返した。
そして、二人はお互いの存在を確かめるように軽く指先を触れ合わせ、人一人分のスペースを開けて切り株へと腰を掛けた。
二つの月が一つに重なる。魔界で最も明るい時間だ。
「あのね、ぴゅーる」
「なぁに、ラグ」
少年が、二人の間に紙袋を置いた。甘い香りが漂うそれに、少女は不思議そうに小首を傾げる。
「きょうはね、どーなつもってきたの」
「どーなつ?」
「うん、あまくて、おいしいの」
そう言って、少年は紙袋の中から穴の開いた円形の菓子を取り出した。
「いっしょに、たべよ」
差し出されたドーナツを受け取り、少女が穴を覗く。
「これ、食べ物なんだ」
少女の記憶にはない食べ物だった。
ようやく地上の食事が広まり始めたとはいえ、まだまだ魔族の食事は魔獣の肉やら魔界の植物の実やら、しかも数日に一回が当たり前である。まして菓子ともなれば、口にしたことどころか見たことすらない者の方が多い。
少女は初めて見る菓子をあらゆる角度から眺め、やがて恐る恐るに噛り付いた。
「あ」
少女が二、三度瞬いた。
甘くて香ばしい、今まで味わったことのないふわふわの食感。
なんて、美味しいのだろう。
少女は夢中でドーナツを頬張り、少年の方を向いた。すると、少年は実に嬉しそうな表情でにこにこと微笑んでいる。
「あのね」
「うん」
「どーなつのあなは、あいなの」
「……愛?」
「そう、あい」
少年が紙袋からもう一つドーナツを取り出し、少女へと差し出す。
「どーなつはね、あながあるからどーなつなの。だからね、あいとおんなじ」
「んー」
少女は、ドーナツを片手に首を傾げた。
「みえないけど、あなは、ある。だから」
なんとか伝えようと、少年が言葉を足すが、だんだん自分でもわからなくなってきたのか、最終的に「むずかし」と言いながら彼はドーナツを食べ始めた。
「うーん、つまり」
少女はドーナツの穴から少年を覗き込み、くすくすと笑う。
「このドーナツは、ラグの愛なのね」
少年が目をぱちりと瞬かせる。そして、大きく頷くとふわふわと甘く微笑んだ。
「そう、このどーなつは、おれのあい。おれのあい、ぴゅーるにあげるの」
「うん、ラグの愛、もらった」
ラグナとピュール。二人が出会ったのはほんの数か月前のことである。
同じ時間、同じ場所で、たまたま散歩をしていたラグナが、切り株で昼寝をしていたピュールを見つけたのがきっかけだった。
花を纏って眠る少女の姿に、ラグナは大層驚いた。こんな場所で、自分と同じ存在と出会うなんて夢にも思っていなかったのだ。
それは、ピュールも同じだった。一目見てわかる明らかな人体改造。そして、触れられない身体。
二人がお互いを理解するのに時間はかからなかった。
二人は何度も出会った。約束をしたわけでも示し合わせたわけでもなく、同じ時間同じ場所でこうして人一人分の隙間を空けながら、ただ話をした。
「ぴゅーるは、どこにすんでるの」
ふと、思いついたようにラグナが尋ねた。
二人はお互いのことについて名前以上のことは知らなかった。知る必要がなかったといえば嘘になるが、彼らにとってはそんな情報は些細なことだったのだ。
「わたしは、もうちょっと南に住んでるの。ほら、こんな身体だから、お父さんがいないといけないの」
「おとうさん……」
「うん、お父さんがね、お薬くれるの。そしたらね、怖いことなくなるんだ」
「こわいこと?」
ラグナが心配そうにピュールを見つめる。
「うん。そうじゃないと、花が起きちゃうんだって」
そう言って、ピュールは自分の胸から生える大きな蕾に手を触れた。
魔妖花。魔界に棲まう者ならば誰でも見たことのある食肉植物。主に森の中に生息し、通りがかった魔獣や魔族を喰らう恐怖の植物が、彼女の身体に寄生していた。
「おきたら、どうなるの」
「花が、わたしのこと食べちゃうの。そしたら、わたしがわたしじゃなくなるって」
「そんな……」
ピュールが困惑と心配を織り交ぜた表情のラグナに、優しく微笑んだ。
「大丈夫。だから、お薬飲んでるんだもの」
「そっか、よかった」
「それに」
じっとラグナを見つめ、ピュールが少し言い淀む。
「ぴゅーる?」
「あのね」
まっすぐ向けられるラグナの草原色の瞳から一度目を反らし、ピュールははにかみながら小さく笑った。
「ラグが、いるから」
「……おれ?」
「うん。ラグと一緒にいるととっても楽しいから、わたし、大丈夫」
ほんの少し。頬を染めて笑うピュールに、ラグナは形容しがたい感情を抱いた。しかし、それを理解するより前に喜びが勝った。
「おれも、ぴゅーるといっしょ、ぽかぽかする」
二人が照れくさそうに笑い合った直後。一つに重なっていた月が、位置を逆転させて再び二つに別れ始めた。完全に月が分離すれば、別れの時間だ。
「あ、もう時間」
落胆した呟きがピュールの口から漏れた。
「そう……」
ラグナも残念そうに月を見上げる。
重なると同時に出会い、そして別れていく。別たれた月はまるで二人を表しているようだった。
「ラグ、また会える?」
ピュールが聞いた。
「うん、ぜったい。やくそく」
ラグナが答える。
「うん、約束」
お互い身を寄せることは叶わないが、ほんの少しだけ位置をずらしてそっと指を絡ませる。そして、月が離れるまでの間、二人で空を眺めるのだった。
ラクーナのメインストリートであるグルック通りは、人でごった返していた。
今日は他国からの行商達がマーケットを開いているらしく、街の中央広場に向かって人波ができている。
アッシュは、この波をちょうど逆行する形で進んでいた。人波を掻き分けてなんとか大通りから脱出し、握っていた小さな手を離す。
「わー、すごい人でしたねぇ」
と、言うのはルクレツィアだ。彼女はどうやら初めて見たらしい街というものに興味津々で、道中絶え間無くアッシュのジャケットを引っ張っては、質問を繰り返した。
「アッシュさん、あれはなんですか?」
「アッシュさん、お買い物ってどうやってするんですか?」
「アッシュさん、人がたくさんいます。みんな何をしてるんですか?」
何を見ても出てくるのは疑問ばかりで、それこそ最初は答えてはいたものの、質問の数が二桁までいった時点で、アッシュはだんまりを決め込んだ。
可能なら人混みついでに迷子にでもしてやろうかと思ったくらいだが、そんなことになればイーリスに何を言われるかわかったものではない。仕方なしに少女の手を引いてようやく今ここにたどり着いたところだった。
石造りの建物が立ち並ぶこの通りは、パブロフ通りと呼ばれており、小さな宿の密集地区である。
アッシュは、大通りに後ろ髪を引かれているルクレツィアを無理矢理引っ張り、目的地を目指す。
角から数えて、一件、二件、三件……ちょうど一〇件目。〈ミスルトー〉と書かれた赤い屋根の小さな宿を見つけ、アッシュはすぐにドアを開いた。
宿に入ると美味しそうなパンの香りが二人を出迎える。左手の台帳の乗ったカウンターには誰もおらず、二階の方からバタバタと慌ただしい足音が聞こえていた。
アッシュはやれやれと首を振ると、カウンターに置いてあるベルを鳴らす。
ちりんちりん。
鳴らした鈴の音が転がり、二階へと駆けて行く。
「あー、ちょい待ちぃやー!」
届いた鈴の音はより一層慌ただしさを増し、やがて二階から女の声だけが返ってきた。
どたんばたんと、まるで魔獣でも飼っているかの如き音に気をとられていると、すっと音もなく、カウンターの奥から色黒の男が現れた。
「やあ、ゾーイ」
アッシュが口元を革製のマスクで覆ったその男に声をかける。ゾーイと呼ばれた彼は、ルクレツィアをじっと見つめると、何も言わずアッシュに頷いて見せた。
悠に百九十はあるであろうゾーイをルクレツィアはぽかんと見上げ、そして疑問を口にする。
「喋らないんですか?」
今朝、挨拶はきちんとしろと教えられたばかりの彼女には、視線と頷きで全てを済ませたゾーイは不自然に映ったようだった。アッシュが舌打ちした直後、階段からばたばたという足音と共に女の声が降ってくる。
「ごめんなぁ、ゾイちゃん喋られへんねん」
独特の訛りで話すのは、エプロン姿に大きな眼鏡をかけた女だった。女は悠に十人分はあるであろうシーツとふとんを片手に抱え、にかっと笑う。
「ルクレツィアちゃんやろ、話聞いとるで」
どさりと入口前に布団を下ろし、女はルクレツィアに目線を合わせる。
「ポポロや。ポポロねーさんって呼んでな」
「ぽぽろ、ねーさん」
「ほんで、あっちがゾーイ。うちはゾイちゃんって呼んどる」
ポポロが指を指すと、ゾーイがぬっと音もなくカウンターからやってくる。
ポポロとゾーイは、アーヴァインと同じく一般市民に紛れて商売を行うテオドールのメンバーだ。二人の経営するこの〈ミスルトー〉という宿は、小さいながらもパンが美味いと評判で、部屋はいつでも満室だった。
「喋れ、ないんですね」
並べば顔一つ分以上差のある二人を見上げ、ルクレツィアが言った。
ゾーイは彼女の前で膝をついて頷くと、そっと右手を差し出す。ツィアは不思議そうにその手を眺め、アッシュに視線を移した。
「握手」
「あくしゅ?」
「お前、そんなこともわからないの?」
アッシュが呆れ、眉間に皺を寄せる。すると、ポポロがルクレツィアの手をとり、
「ツィアちゃん、あんな、こうやって手と手を握り合ってな」
握手をして見せる。軽く手を上下に振られ、少女はふふっとくすぐったげに笑った。
「いい笑顔や。ほら、ゾイちゃんにも」
ポポロに押されて手を差し出すと、ゾーイの大きな手が少女の小さな手をすっぽりと覆った。
ゾーイは目を細め、しばし手を取ったまままっすぐ少女の目を見下ろした。その間数分。
ルクレツィアがなんとなく居心地の悪さを覚え、「あの」と口を開いたところで、ゾーイはゆっくりと手を離した。
「……」
ゆるりと息を吐き、ゾーイの視線がアッシュと交う。アッシュのどこか期待を帯びた眼差しに、ゾーイは静かに首を横に振った。
「……そんなはずない!」
突如、アッシュが声を荒げた。
ゾーイとポポロが視線を交わし、ポポロがルクレツィアの肩にぽんと手を置く。
「嘘やないで。ゾイちゃんは、ちゃんと仕事してはる」
相棒の代わりに口となったポポロが、アッシュにはっきりと告げた。アッシュは信じられないと怒りと焦燥の表情を浮かべ、状況を飲み込めていないルクレツィアを睨みつける。
「どうして……」
アッシュは怒りの形相のまま、肩を上下させた。
ゾーイは触れた者の心を読むことができる。触れただけで感情が濁流のように頭へと流れ込んでくる為、精神的負担が大きく、イーリスからも極力使わないようにと指示されている能力だった。
しかし、ごく稀にアッシュがこうして新メンバーの心を試す為に、彼の元へと訪れることがあった。もちろん、それにより危機を脱したことも過去にあるにはあるのだが、特に相棒のポポロは良く思っていない。
ポポロは未だ現状を受け入れられていないアッシュの腕を掴むと、強い語調で言った。
「ゾイちゃんはやることやった。さっさと帰りや。商売の迷惑や!」
ふんと鋭く息を吐き出し、腕を掴んだ手に力を込める。
「痛い! ……わかったよ、帰ればいいんだろ!」
ポポロの力はテオドール一だ。
アッシュは悲鳴をあげて後ずさると、ルクレツィアを睨みつけ、
「行くよ、早く!」
と、戸惑う少女を連れて出て行った。
「まったく、ほんっと用心深いやっちゃなぁ」
扉が閉じ、窓の外からアッシュが怒りの形相で去って行くのを見送ってから、ポポロがすっかり呆れて呟いた。
「……」
「なんかあった?」
普段からあまり表情を動かさない相棒が神妙な顔をしているのを見て、ポポロは首を傾げた。じっと、ゾーイの視線が彼女に向かって何かを訴えている。
ややしばらく間が空いて、ポポロが驚いた声をあげた。
「そんなこと、ある?」
筆談すら交わすことなく自分の言葉を解した相棒に向かって、ゾーイはゆっくりと頷いた。
ポポロはもう一度アッシュ達の立ち去った窓の外を見つめながら首を振る。
「何も、読めないって……聞いたことあらへん」
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