第2章
2-1. 戦力外通告
「これから、任務の指揮はランスロットに全部任せるよ」
朝、テオドール食堂。
いつもより遅めの朝食を終え、ちょうど食事のコーヒーが配られた時だった。
イーリスから発せられた言葉に、アッシュは言葉を失った。
突然降ってきた戦力外通告。まさに昨日、任務を完璧にこなして帰ってきたはずの彼にとっては、月が夜に登るような衝撃だった。
咄嗟に何を言われたのかわからず、カップを持ったまま硬直していたアッシュは、隣で心得たように返答するアーサーとランスロットを見て、ワンテンポ遅れて口を開いた。
「ボス、どういう、ことですか」
すっかり青ざめた表情で、いつもより一つ離れた席から問う。
イーリスはコーヒーを飲み干すと、やれやれと首を振った。
「そんなことも説明しなきゃわからないかい?」
「だって、おかしいじゃないですか!」
「何がおかしいって言うんだい? 与えられた仕事が満足にできないって言うなら、優先してもらいたい仕事に集中させるのは筋だろう?」
そう言って、イーリスが隣の席──ちょうど二人の間──に視線を送る。そこには、頭一つ分は小さいであろう少女が、色素の薄い紅の瞳をぱちくりさせて二人の顔を交互に見つめている。
アッシュは少女を一瞥すると、心の中で小さく舌打ちをした。苛立つ理由を上げていけばキリはないが、この少女が大多数を占めていることは間違いない。
中でも二つに結われた少女の髪は、アッシュにとって何よりも許しがたいものだった。
丁寧に編まれた少女の髪とは対照的に、今日のアッシュの髪は首の後ろで一つ縛っただけだ。しかも、リボンの結び目も逆さで、慣れていない者が縛ったのだと一目でわかる有様だった。
「やらないなんて一言も言ってないです!」
「なら、なんで今朝ルクレツィアを迎えに行かなかったんだい」
「それは」
イーリスに咎められ、アッシュは思わず返答に窮した。
決して忘れていたわけではないが、意図して行かなかったのも事実だ。ここで面倒を見なければ、世話役は他の四人に移るだろうとタカをくくったのだ。
しかし、いざ蓋を開けてみればどうだ。指揮権を奪われるどころか、自分だけの特権すら奪われたではないか。
「いいかいアッシュ。アンタの仕事は、この子の面倒を見ることだ。それがきちんと できるようになるまでは、アンタは他の任務から外れてもらうよ」
「ボス!」
アッシュの悲痛な訴えを受け流し、イーリスは奥に座ったランスロットとアーサーの二人に視線を移す。
「アンタたち二人は、後でアタシの部屋に来ておくれ。頼みたい仕事があるからね」
「はい、ボス」
二人は声を揃えて頷いた。同じテーブルについていた全員がコーヒーを飲み終えたのを確認し、イーリスが立ち上がる。
「アッシュはちゃあんとルクレツィアのことを案内してやるんだよ。いいね、これは命令だよ」
「……はい、ボス」
去り際に念押しされて、アッシュは辛うじて言葉を返した。そして、隣でやはりきょとんと座っている少女に冷たい蜂蜜色を向ける。
「俺は、お前のこと認めてないからな」
「はい、わかりました」
そう答える少女の表情には、不気味なほどに静かな微笑みが漂っていた。
ティラン地区といえば、商業国ラクーナに住む者達にとってはテオドールの代名詞である。富裕層の住宅街だったのも今は昔。魔族であって魔族非ざる者が住んでいるとなれば、そこから出てくる者達に警戒をするのは当然の摂理と言える。
ゆえに、テオドールの者達もまた、このティラン地区から出ていく際には細心の注意を払う必要があった。
ラクーナのメインストリートであるグルッグ通りに、〈サイファーのため息〉という食堂がある。
所狭しと大きな店が立ち並ぶ中に、ややこじんまりと佇む青い屋根の木造の店だ。昼時になれば、魔界では珍しい地上の料理が食べられると、そこそこの賑わいを見せる。
ここ〈サイファーのため息〉こそが、テオドールにとってテリトリーと街を繋ぐ勝手口であることは、ごく一部を除いて知られざる事実であった。
ボスであるイーリスから直々に店を預かっているのは、アーヴァインという男だ。テオドールの中でイーリスを除いて一、二を争う料理上手の彼は、今朝届いたばかりの食材の下ごしらえを終え、帳簿とにらめっこをしていた。
裏組織とはいえ後暗い収入のないテオドールにとって、食堂の経営は貴重な収入源だ。物珍しさから客足は絶えないものの、毎日の食事が一般化していない魔界では、食材は高くつく。今のところ赤字は免れているものの、ライバル店が増えてきた今、何かと戦略が必要になってくるところだ。
「とはいえ、そーんな簡単じゃあないんすよねぇ」
はぁと大きくため息をついて伸びをすると、からりと鈴が乾いた音を立て、入口とは真逆の扉が開いたことを知らせる。
アーヴァインはトレードマークのムーングラスをかけ直し、裏口からの訪問者を迎え入れた。
「お、新顔さんっすね」
入ってきたのは次期ボスと噂されるアッシュと、昨晩テオドールに入ったらしい少女だった。何も言わずにカウンターの前に腰掛けたアッシュはどこからどう見ても不機嫌で、アーヴァインは思わず苦笑した。一方、少女はというとアーヴァインと椅子を交互に見ながら小さく首を傾げている。
「ええと」
「さっさと座れよ」
アーヴァインが少女の行動を不思議そうに見ていると、アッシュが苛立って声をかける。すると少女は素直にはい、とようやく椅子に腰をかけた。
「本当に宝石ちゃん白いっすねぇ」
カウンターからぴょこんと顔を出した少女をまじまじと見ながら、アーヴァインが感心したように言った。少女の浮き出るような真白の髪と肌は、一日に何百人も接客している彼にとっても珍しいようだった。
「おい」
「ルクレツィアです」
宝石ちゃん、という呼び方にアッシュが難色を示したのとほぼ同時。少女が妙にきっぱりと自分の名を口にした。その反応に、アーヴァインがしまったと頭を掻く。
「あー……すんません、ルクレツィア、さん? んー……姉さん、はちょっと違いますよねぇ」
何と呼ぶべきか考えていると、少女がぱっとカウンターに身を乗り出した。
「ツィアって呼ばれることになりました」
アッシュに乗り出した手を払われ、ルクレツィアは慌てて椅子に座り直す。
ツィアというのは、朝食時、自己紹介の際にルーヴから提案された呼び方だった。
「ツィアちゃんっすね、リョーカイっす。……しっかし、アッシュさんが世話役って珍しいっすね」
それぞれに飲み物を出しながら、アーヴァインがケラケラと笑った。
テオドールでは、朝からこの話で持ち切りだった。
あのアッシュが世話役になった、とひそひそと──相手によっては面と向かって──何度も言われ、アッシュはまたかと蜂蜜色の目を吊り上げる。
「俺だって好きで引き受けたわけじゃない」
そう言って珈琲に口をつけると、彼はやれやれとため息をついた。そして、隣で不思議そうな顔でオレンジ色の液体の入ったグラスを見つめるルクレツィアに、飲めと顎で促す。
「なんで俺なんだか」
「ボスのことだから何か俺らにゃわからない考えがあるんだと思いますけどねぇ。……これから、どこへ?」
「ミスルトー」
からんと隣でグラスの中の氷が音を立てた。
アーヴァインが顔を引き攣らせてアッシュを見る。
「え、それって、もしかして」
「当たり前だろ。俺は認めてない。それなら確認するだけだ」
ふんと鼻を鳴らしたアッシュは、ルクレツィアがジュースを全部飲み干す前に立ち上がった。
「行くよ」
「はい」
ルクレツィアも席を立ち、入口へと向かうアッシュを追いかける。
「ツィアさんツィアさん」
と、カウンターから出てきたアーヴァインが扉に手をかけ、自分を見つめる小さな少女と目線を合わせ屈み込んだ。彼はルクレツィアの顔をまっすぐ見ると、声のトーンを落とし、
「ここから先は、俺らにとっては魅力的で、そして危険な場所っす。くれぐれも、気をつけて、見つからないように」
ムーングラスを外してそう言った。
ルクレツィアはいまいちぴんと来てない表情ではあったが、すぐに「はい」と頷く。
「それじゃ、アッシュさんも、どうぞいってらっしゃい」
再びムーングラスをかけ直し、アーヴァインが扉を開いた。
出ていった二人の背は、雑踏へと紛れていく。
「うーん……不思議な子っすねぇ?」
そう呟くアーヴァインのムーングラスの下からは、昆虫のような緑の瞳が覗いていた。
アッシュ達が店から出てしばらく経った頃、再び裏口のベルがからりと音を立てた。
「あれっ、お出かけですかラグナの兄さん」
アーヴァインが声をかけたのは、紙袋を大事そうに手にぶら下げ、全身フードを被ったラグナだった。彼は上半身から刃が生えている関係上、表に出る時はこうして特殊な生地で作られたフードで全身を覆っている。
「うん、おさんぽ」
頭のフードだけ下ろし、ラグナはにっこり頷いた。癖のある空色の髪が、歩く度にふわふわと舞い踊る。
「そうでしたか。お気をつけて」
もうじき開店時間だ。店内をぐるりと見まわし、アーヴァインは最終チェックを行う。
すると、入り口付近に置いてある鏡で念入りにフードを確認していたラグナが、突然ハッと振り返った。
「どうしました?」
「あーばいん、ごくろーさま!」
唐突に吹いたたどたどしい先輩風に、アーヴァインが失笑した。
ラグナとアーヴァインは、年はアーヴァインの方が上だがラグナの方がテオドールに入ったのは早い。テオドールの中で一人だけ年が離れているラグナは、どうやら先輩というものに憧れを抱いているらしく、たまにこうして先輩ぶった態度をとるのだ。
「なんで、わらうの」
特に勝手口の門番であるアーヴァインは先輩風の餌食になりやすく、毎回噴き出しては先輩からのお説教を食らう羽目になるのだった。
「すんません、ラグナの兄さん。えぇと、外で今、人がこけて」
アーヴァインは、ぷうと頬を膨らませたラグナへ慌てて弁解し、扉を開いた。
「ころぶといててだから、わらっちゃ、めっ」
「はい、すんません」
頭を下げたアーヴァインの横を、甘い香りと共にラグナが通り過ぎていく。
「あんなにたくさんのドーナツ、どこに持ってくんすかね……?」
アッシュ達とは真逆の方向へ走って行ったラグナの背を見送りながら、アーヴァインは本日二度目の疑問を口にした。
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