第一章

1-1. テオドールの朝

 彼は目を覚ますと、いつも初めにカーテンを開ける。

 窓の外に浮かぶ月はきっちり二十度。寸分違わず正確な目覚めを確信し、彼はしたり顔で窓を開けた。夜が明けすっかり瘴気が薄くなった空気は、ひんやりと喉を通り抜けて行く。

 長い紅茶色をした髪を片手で払い、彼は寝間着のままタオルを片手に部屋を出た。

「アッシュ、おはよう」

「おはよ」

 階段ですれ違うランスロットとの挨拶が、毎朝彼──アッシュの第一声だった。日課のトレーニングでもしてきたのだろう。ランスロットの鋼鉄の肌には汗が滴っていた。

 階段を下りて左手奥、洗面所。

 テオドールは、個人の部屋以外基本的に全て共有だ。その為、少しでも寝坊しようものならメンバーでごった返し、落ち着いて顔を洗うことすらままならない。

 アッシュはいつも、一分一秒違わずこの時間に洗面所に立つ。神経質な彼にとっては、少しの睡眠時間よりも優先すべき事柄だった。

 大きな樽から水を汲み、持ってきたタオルを桶に投げ入れる。タオルが徐々に沈んでいく様を見つめながら、アッシュはそっと手袋を外した。

 一日の大半をはめて過ごしている黒い手袋から出てくるのは、色の白い細い手指と──口、だった。彼の両手のひらからギザギザとした鋭い歯と、飲み込まれそうなほど真っ黒な深淵が覗いており、存在の異質さを放っている。

 アッシュは手のひらを見つめ、何度か手を開いたり閉じたりを繰り返してからため息をついた。

 この口との付き合いが始まってからかなりの年数が経つが、何度見ても慣れることはなく、実生活においてもとりわけ水を使うことには不便が多い。

 ちゃぽんと指の先を水に差し入れ、二つの口を閉じる。桶の底に沈んだタオルを拾い上げながら、もう少し浅くしておくべきだったと数分前の自分へ心の中で苦言を呈した。

 ぎゅっとタオルを絞り、顔を拭く。普通の口と比べ、手のひらの口は泡がつくと若干面倒だ。風呂は致し方なしだが、朝はこうしてタオルで済ませる。長年の付き合いで至った結論である。

 顔を拭いたタオルをもう一度洗い、洗濯籠に投げ入れる。

 手袋をはめなおしたところで、誰かが洗面所を横切った。アッシュはその誰かが反対側にある食堂へと入るまで待ち、扉が閉まってから部屋へと戻る。

 そこでようやく寝間着を脱ぎ、昨日洗濯したばかりの服へと袖を通すのだ。ハイネック、ズボン、ジャケット。順番はいつもこの通り。例外はない。

 最後に靴を履き替え、彼は鏡の前に立った。

 鏡に映る彼の左頬には魔族特有の刻印が描かれ、細長い耳は紅茶色の髪に隠れている。同じく紅茶色をした睫毛は長く、整った顔は見目麗しい。

「よし」

 服に乱れがないことを確認し、アッシュは棚に置いてあった籠を手に再び部屋を出た。向かう先は隣──イーリスの部屋だ。

「ボス、おはようございます」

 ノックは二回。右手の甲で軽く、しかし音は響くように。

 おいで、と奥から招かれ、アッシュは失礼しますと頬を緩めて扉を開いた。

「おはよう、アッシュ」

 煙草独特の甘い香りの漂う部屋では、イーリスが欠伸をしながらアッシュを出迎えた。しゃっと勢いよくカーテンが開き、真正面から月の光が差し込む。

 アッシュは思わず目を細め、ぼんやりとした視界でイーリスの姿を追った。彼女がソファに腰を掛ける頃には目も慣れてきて、改めて確認するように煙草に火をつけるボスを見つめる。

「なぁにやってんだい、早くおいで」

 イーリスが煙を吐き出しそう言うと、アッシュは蜂蜜色の瞳を甘くとろけさせた。そして、彼女の元へと走り寄り、籠から取り出したブラシを手渡す。

「全く。いい加減に切っちまったらどうだい? こんなに長いと邪魔だろうに」

 煙草を灰皿で捻り消し、イーリスが呆れたように口を開いた。机を軽く押し間を作ると、アッシュがそこに座る。長い長い紅茶色の髪の毛が、床いっぱいに広がった。

 イーリスはさらさらと流れる紅茶色のそれを片手で掬い、ブラシで丁寧に梳かし始める。

「嫌です。髪の毛が短かったら、ボスにこうやって髪縛ってもらえないじゃないですか」

 背後から漂う甘い香りに身を委ね、アッシュは口を尖らせた。

 毎朝、ぴったりこの時間。彼にとっては大好きなボスを独占できる唯一の時間だった。

 それは五十人近くいるテオドールの中で彼だけが得られる特権であり、その事実は何よりも重要な項目である。いくらイーリスの頼みであっても、当然答えはノーだ。

「……アンタ、自分が一体いくつになったと思ってんだい? いつまでも甘えてるばかりじゃいけないよ」

 五六歳──人間でいえば、二七歳。つまり、立派な大人である。

 自分の膝にもたれかかってくる大きな子供へ向かって、イーリスは呆れたように言った。籠から細いリボンを取り出し、アッシュの首元で一つ結ぶ。

「いいじゃないですか。このおかげで俺は毎日頑張れるんです」

 イーリスの苦言もどこ吹く風。まるで子供のように言い訳をすると、アッシュは立てた膝に顔を埋め、うっとりとした表情で目を閉じる。

「こんなことしなくたってアンタは頑張れるだろう?」

 手元を下げて二つ目。彼はほんの少しむっとして、振り返った。

「だって、ボス。ボスが俺に構ってくれるの、朝だけじゃないですか」

「当たり前だろう。テオドールはアンタだけじゃあないんだ」

「ほら、そうやって」

 不満げに眉を寄せ、顔を再び膝に埋める。

 三つ、四つと、イーリスが次々髪を結んでいく。

「アンタの手には、アタシしかいないのかい? そうじゃないだろう」

「ボスだけです」

 きっぱりと言った。

 イーリスが背後で小さくため息をついて頭を振ったが、アッシュは気づかないフリを通した。

 結び目が七つできたところで、イーリスは籠から大きな桜色のリボンを取り出した。

「アッシュ。覚えておいとくれ。アンタが思うよりもずっと、アンタが手に抱えているモノはたくさんあって、重たいんだ」

 リボンを一番下で結び、ピンと指で形を整える。そして、優しく言い聞かせるように、彼女はアッシュの頭を撫でた。

「俺にはボスしかないんです」

 アッシュはイーリスの手に頭をすり寄せながら、やはりきっぱりとそう言った。

「アッシュ」

 イーリスが険しい顔で名前を呼んだ、ちょうどその時。

 コンコンと、やや重たいノック音が響いた。アッシュが眉根を寄せる。

「ボス、おはようございます。今よろしいですか」

 扉の向こうから聞こえるのはランスロットの声だ。

「入りな」

 イーリスに促され、鈍色の肌をした大男が扉をくぐる。

 ひとっ風呂でも浴びたのか、先程の汗はすっかり流されており、肌とは対照的に光を吸い込む黒色の髪は、きっちりとまとめ上げられていた。

 ランスロットは、イーリスの足元から飛んでくるじっとりとした蜂蜜色の視線に苦笑いしてから、一礼し口を開く。

「朝早くすみません。朝の散歩の途中、気になる噂を耳にしたので、早めにボスにご連絡をと思いまして」

「おはよう、ランスロット。言ってごらん」

 膝でアッシュの背をつつき、立たせる。

「ボス、二月ほど前から、ラーデン街道で立て続けに商隊が襲われているのはご存知ですか?」

「あぁ、もちろん聞いてるよ。随分と派手にやられてるらしいじゃあないか」

 ラーデン街道は、ここラクーナと隣国エリュシオンを繋ぐ大きな街道である。毎日多くの人々や物資が行き交い、商業的にも国交的にも重要な役割を果たしている。

 街道に関し二国間で様々な取り決めが成されているが、とりわけ安全には注意が払われており、人々が魔獣や野盗に襲われぬよう一定間隔ごとに兵が配置されるなど、大々的な対策が取られている場所でもある。

 そんな国を挙げて守られている地で、長期間に渡り事件が起きているのだ。耳に入ってこないはずがない。

「それが……その、噂、なんですが」

 ランスロットが言いにくそうに視線を反らし、しばらく沈黙した。

「早く言えよ」

 イーリスの隣に立ったアッシュが、ふんと鼻を鳴らす。ランスロットが顔をしかめて頭を掻いた。

「……実は、その一連、テオドールがやったことになってるそうで」

「なあんだってぇ?」

 イーリスが思わず素っ頓狂な声をあげた。

「俺も最初まさかとは思ったんですが、アーヴァインやエルも含め、数人が既に耳にしており、だいぶ確信めいた噂になっているそうです」

「何だよそれ、完全に濡れ衣じゃないか」

 アッシュも信じられないといった表情である。

「なあんか、妙な噂だねぇ」

 イーリスが腹に手を乗せ、唸った。

 テオドールは所謂裏の組織であるが、基本的に目的以外のことで動くことはない。その商隊がよっぽど黒で、タイミングがそれ以外ないとなれば別だが、人目も兵も多い、まして一般人が使うような場所で彼らが仕事に当たることはまずあり得ないことだった。

 もちろん、裏組織というだけで疑われることは今までも度々あった。しかし、大抵はテオドールであるという確固たる要素もなくすぐに立ち消える程度のものであり、今回のように確信めいたものになるのは事実上初めてである。

「探らせますか?」

 ランスロットが尋ねると、イーリスはしばらく考えてから頭を振った。

「いいや、まずは情報の方から来てもらおうじゃあないか。こっちから探るのはその後だよ」

「ということは」

「あぁ、ランスロット。悪いけど後でアレスターんとこの坊やに連絡入れておいてもらえるかい」

「はい、ボス」

 さて、とイーリスが腰を上げた。

 アッシュが隣から杖代わりの曲刀を差し出し、彼女はそれを受け取る。

「まずは朝飯だよ。みんな起きてきたみたいだからね」

 いつの間にか、階下からはがやがやと賑わう声が響いていた。洗面所のラッシュ時間である。

 扉へと向かうイーリスの後を追い、ふとアッシュとランスロットが同時に口を開いた。

「食事の準備、手伝いましょうか」

 至極真面目な顔をした二人へ、イーリスは、

「アンタ達に手伝わせたら、アタシが大ブーイングになるからやめとくれよ」

 と、心底嫌そうな顔で返す。

「そこまで言わなくてもいいじゃないですか」

「アッシュ、何で俺達は食事当番外されてるんだ?」

 頬を膨らませるアッシュに対し、いまいちピンと来ていないランスロットが首を傾げた。

「お前の場合は、その理由が自分でわからないから外されるんだよ!」

 いつも通りのやり取りを聞きながら、イーリスがからからと笑って部屋から出て行く。

「あ、ボスおはようございまーす!」

 部屋を出ると、階段下で洗面所待ちをしていたアーサーが手を振った。すると、並んでいたメンバーが一斉に、おはようございますと階段を見上げる。

「あぁ、おはよう」

 洗面所の方からは、早くしろだの化粧品がどうだなど言葉が飛び交っていた。朝の一番忙しい時間帯だ。喧嘩になることも少なくない。

 そういう時は、決まってイーリスがとんと曲刀で床を打ち鳴らすのだ。

「お前たち、喧嘩すんじゃないよ!」

「はぁい、ボス」

 ボスの一声には皆従順だ。素直な返事が廊下いっぱいに響き渡る。

 顔を洗い終わると、皆はいつも順にイーリスの元へ駆け寄って行く。さながら教師と生徒といったところだろうか。あっという間にできた小さな人だかりの中央で、イーリスは一人一人に相槌を打っている。

「……俺の、ボスなのに」

 その光景を見下ろしながら、アッシュは小さく溢した。つい先ほどまで自分を見ていたはずのボスの視線が、すっかり自分以外を向いている。どうにも胸のおさまりが悪く、ぎゅっと彼はジャケットの端を掴んだ。

 不意に、ぽんと背を叩かれた。

 アッシュが思わずかっとなって振り返ると、ランスロットが心外そうな顔で肩を竦める。

「余計なお世話!」

「何も言ってないだろ!」

「そういうとこがお節介なの!」

 言い合いながら階段を駆け下りる二人に、イーリスが叫んだ。

「朝っぱらから何やってんだい、アンタたちは!」

「俺は悪くない!」

「俺だって悪くない! そもそもお前が……」

「やめないかって言ってんだよ! それとも、朝飯抜かれたいのかい?」

「……すみません」

 ごんと先程よりも強く曲刀をつかれ、アッシュとランスロットは揃って頭を下げる。どっと後ろで笑い声が沸いた。

 そうして、いつもと何一つ変わらない、ほんの少しだけ不機嫌なテオドールの一日が幕を開けるのだった。

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