影差す夜明けの子守歌・上

藤宮ちかげ

序章

序章 テオドール

 赤い空が闇に染まり、二つの月は瘴気へ溶ける──一般的には夜と呼ばれ、もう少しで日も変わろうというその時刻。魔界。

 街より程離れた森の茂みに、四つの影がひっそりと身を潜めていた。男が二人、女が一人、そして、全身にフードを被った──シルエットから想定されるであろう性別は──男が一人。

 フードの男を除けば、いずれも年は二十代だろうか。眼前の建物を見つめる四つの双眸は、少年少女と呼ぶにはあまりにも大人びすぎている。

 この暗く陰湿な場所には似つかわしくない豪勢な屋敷の前には、数人の傭兵が緊張感と眠気の混じる表情で交代の時間を今かと待っている様子だった。

 しんと静まり返った森の中、

 ぱきり。

 突如、背後で小枝が音を立てた。

「遅い」

 腰下まで髪を伸ばした男が鋭く振り返る。習って他の三人も振り返るが、そこには誰もいない。

「わーりぃ、出てくんのに手間取っちまった」

 不意に、誰もいないはずの影が声を発した。間もなく何もなかったはずのそこへ、影を一枚ずつ裏返していくかのように、ひまわり色の髪の少年が咲いた。

「それで、報告」

 そんな不可思議な光景を前にしながらも、長髪の男は眉尾一つ動かさず問いかける。やや苛立ちを含んだ声音に、少年は肩を竦めて口を開いた。

「見張りはぐるっと十人。裏口はがら空きだけど、鍵がかかってる」

「経路は?」

「さっきメイドちゃんと一緒に屋敷に入った時に窓を開けといた。裏口に回っててくれりゃ、俺が鍵開けるぜ」

「そう」

 必要最低限の言葉のみが交わされ、自然と空気が緊張感を纏っていく。五人全員がそれぞれと視線を交わし、心得たと頷く。

 彼らのミッションは至極単純なものだ。この屋敷の中にあるであろう表沙汰にはできない証拠を入手すること。

 言葉にしてしまえばそれまでであるが、容易ではないことは彼らの表情からも一目瞭然である。

 長髪の男が、口を開いた。

「作戦は当初の予定通り。ルーヴが囮になっている間に、俺とランスロット、ラグナが裏口に回りこむ。アーサーはできるだけ早く裏口を開けて」

「わかった」

「りょーかい」

「了解」

「えぇ……またぁ? ねぇ、アッシュ」

 告げられた指示に各々が返事をする中、不満を漏らしたのは銀色の髪の少女──ルーヴだった。

 黒いワンピースを纏った彼女は、アッシュと呼んだ長髪の男に対し、いかにも不満ですという顔で片頬を膨らませている。

「図体のでかいお前じゃ、中に入っても役に立たないだろ」

 そんな彼女に、アッシュはくだらないと鼻を鳴らす。

「そうじゃなくてぇ」

「じゃあなんだよ」

 ルーヴが何か言いたげに地面とアッシュを交互に見るも、彼の圧のある物言いに、

「……なんでもなぁい」

 と、諦めのため息と共にそっぽを向いた。隣に立っていた大柄の男が、宥めるように彼女の背中を叩く。しかし、アッシュはそれを一切気にかけることはなかった。

 他の二人に同意を求めて視線を移すと、一連を眺めていたひまわり色の少年──アーサーと、フードの男が困ったように顔を見合わせる。アーサーが一瞬反論を口にしかけ、閉じた。

 じっとりとした蜂蜜色の視線が前方から突き刺さる。

「それじゃ、そういうことで」

 ほとんど強制の同意を得たアッシュが限局を示すと、全員が一呼吸おいて屋敷を向いた。

 数秒の、間。

「行くよ、迅速に終わらせる」

 その言葉を皮切りに、一斉に彼らは動き出す。

 漆黒に染まる魔界の夜に、狼の遠吠えが響き渡った。



「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って!」

 振り翳された剣を前に、アーサーはヒッと身体を縮こませた。頭の上ギリギリを剣閃が過ぎり、はらりと数本ひまわり色の髪が散る。間髪入れず、ナイフの男。距離を見計らい壁を蹴り登ると、襲い来る二人の男の反対側に着地する。

「ねぇねぇねぇ、もうちょっと話ししようぜ。俺痛いの嫌いな……ひえっ!」

 言い終わるよりも早く第二撃。身を翻してなんとか躱すも、気づけばいつの間にやら増えた三人の傭兵に囲まれ、アーサーは思わず両手を上げた。

「もう、だから俺嫌だって言ったのに!」

 精いっぱいの恨み言を叫び、数瞬。

「あーさー、さがって」

 アーサーの目の前を黒いフードが舞い、それが床に落ちるよりも早く傭兵達の悲鳴が響いた。

「ラグナ、ナイスタイミーング!」

 落ちたフードを拾い上げ、アーサーが空色の髪を踊らせる少年に親指を立てて見せると、

「あーさーも、ぐっじょぶ」

 ラグナと呼ばれた少年もまた、同じように親指を立てて頷く。

「いたぞ! ……ひっ」

 侵入者を排除するべく階段を下りてきた傭兵達が、ラグナを見て思わず息を飲んだ。

 壁の炎に照らされて、ラグナの上半身が鋭い光を放つ。決して鎧の輝きではない。彼の肩、腕、背中、果ては肋骨まで、上半身のありとあらゆる部位からよく研ぎ澄まされた刃が生え、それがぎらりと彼らを威嚇するように輝いているのだ。

 明確に自分へと向けられる怯えと恐怖に、ラグナはむぅと口を尖らせる。

 取り囲む傭兵の数はいつの間にか十を超えていた。彼らはじりじりと距離をとりながら、攻撃のタイミングを見計らっている。

「どこにいたのよ、あんたら……」

 アーサーが顔を引き攣らせてぼやくとほぼ同時。傭兵達が一斉に石畳を蹴った。

「だいじょぶ、おれに、まかせて!」

 ラグナが両腕に埋め込まれた一際大きい刃を構え、傭兵達に飛び込む。まずは一人。先陣を切った細身の男の剣を右腕の刃で受け流し、すれ違い様に肩の刃で切り伏せる。左腕の刃で二人目の剣を受け止め、隙ができたと寄ってきた三人目四人目は、背中から羽のように伸びる鎌で、近寄らせる間もなく腕を刎ねた。

「さっすがー!」

 次々と敵を切り倒していくラグナを見ながら、アーサーが喜々としてその場で跳んだ。

 刹那。彼の背後で火柱が上がった。

 慌てて振り返ると、いつの間にか忍び寄った大柄の傭兵が火だるまと化している。燃え盛る傭兵の腕には大きな斧が振り上げられており、それが自分を狙っていたことに気づいて唾を飲んだ。

 冷や汗を一粒たらし、火元を探そうと振り返ると、階段の奥から見慣れた長髪の男が下りてくるのが見えた。

「調子に乗るなよ、大して役に立たないくせに」

「その役立たずに囮させといてよく言うぜ」

 火元──アッシュの言葉は敵の刃よりも遥かに鋭く、アーサーがうええと舌を出す。

 すると、ちょうど最後の一人を切り伏せたラグナが二人の間に飛び降り、頬を膨らませた。

「あっしゅ! あーさー、がんばった!」

 しかし、アッシュはアーサーを庇うラグナには目もくれず、興味深そうに辺りを見回している。ラグナが、むぅと小さく呻いた。

「地下倉庫とは恐れ入ったよ。よくもまぁ、こんな場所にこんなものを……」

 彼らは今、屋敷に隠されていた地下倉庫にいる。豪勢な屋敷の様相から一転し、地下倉庫は石壁に囲まれた陰湿な空間だった。

 床に転がる死体を避けながら周囲に視線を巡らせると、屋敷の人数には不釣り合いな大量の食糧が何かを隠すように不自然に積まれている。最も、その隠されていたはずものはすっかり銀色の姿を顕わにし、壁に佇んでいるのであるが。

 いかにも、といった銀の扉を見つめ、アッシュは小脇に抱えていた書類をパラパラと捲る。

「ランスロットは?」

「指示通り奥で例のモノ物色してる。……んで、そちらさんは目的のものは見つかったの」

「これ見てわからない?」

 アーサーの嫌味にわざと目の前で書類をちらつかせ、アッシュは気怠げに階段へと振り返った。

 上の階から怒声と絶叫が雪崩れるように階段を駆け下り、間もなく階下へと姿を現す。

「やあ、こんにちは。ご機嫌はいかが?」

 数十名ほどの一団の先頭の男を見て、アッシュは丁寧に挨拶を投げかけた。

 勢いよく駆け降りたせいで尻餅をついた長衣を着た男が、目の前に立ちはだかるアッシュを見上げ、目を剥いた。慌てて逃げようにも、どうやら腰が抜けて立ち上がれないらしい。ひゅっと喉を鳴らしながら、身体を強張らせている。

「よりにもよって、何故テオドールが……」

「それは、お前が一番よくわかってるんじゃないの? この趣味の悪い館の主さん?」

 お約束のような悪言を吐く長衣の男に、アッシュは鼻を鳴らして笑った。その拍子に手元でちらついた紙束を見て、男は更に目をひん剥く。

「貴様、どこで、それを……」

「上の隠し部屋で。無用心に机の上に置いてあったから捜す手間が省けたよ。あと」

 アッシュが、ジャケットの内ポケットから黒い粉の入った小袋を取り出す。

「これ、どこで使うつもりだったのかな。まさか自分で使うわけじゃあないだろうし」

「あ、ば……」

 袋を目の前で振ると、男は目を白黒させ、今にも気絶しそうな表情で青ざめた。

 そうしているうちに、突然、倉庫奥の銀の扉が開いた。

「そっちはもう終わったのか?」

 と、やや気の抜けた声で扉をくぐるのは、悠に二メートルはあろう大柄の男である。彼は両手に大きな麻袋を抱え、アッシュ達を見ながら目をぱちくりさせた。

「この状況見てどこが終わってると思ったのか、教えてくれない?」

「らんすろっと、たくさん」

 呆れた表情でアッシュがため息をつき、その後ろでラグナがぐっと親指を立てる。

男──ランスロットが抱えているものを見るなり、腰を抜かしていた長衣の男が立ち上がった。

「あれをっ! あれを急いで取り戻せ!」

 傭兵達が主人にせっつかれ、弾かれるようにランスロットへ走り寄って行く。

「あれで何とかなると思ってるの?」

 アッシュの冷たい呟きは、彼らに届くことはない。傭兵達は次々と武器を抜くと、一直線にランスロットに向かって振り翳す。

「少しくらい!」

 ランスロットが麻袋を捨て、放たれた剣閃を屈んで避ける。

「手伝って!」

 そのまま懐に入りみぞおちに一発。軽々と先頭を沈めると、今度は後ろで斧を振り下ろす男の顔面に肘撃ちを食らわせる。鼻の骨が砕ける音と共に二人目が倒れ、間髪入れず槍を持った男が彼の背中目掛けて突きを放った。

「くれても! ……あっ」

 背中の中心に向けて放たれた一撃は、ランスロットを捉えた。が。

「刺さ……刺さら、ない?」

 槍を持った傭兵が、呆然と呟いた。力いっぱい何度も突くが、ランスロットの服に穴が空くのみで一向に皮膚を貫く感触は得られない。突きの回数が十を超えた頃、ついにランスロットを貫くはずだった槍が、砕けた。

「な、なんで!」

 見事に折れた穂先とランスロットを交互に見比べながら、傭兵が後ずさる。

 破れた服の隙間から見えるのは、肌色──ではなかった。ランプに照らされて輝くそれは、例えるのなら金属である。否、金属そのものだった。ランスロットの身体は、顔から指の先まで全て鈍色をしており、ひんやりとした光を纏っている。

「また服がダメになってしまった……」

 鋼の肉体を前に、傭兵達が怯えた表情のまま動きを止めるが、当の本人はといえば穴の開いてしまった服の方が気になるようだった。

「ば、化け物どもめ」

 その様子を眺めていた長衣の男が、吐き捨てる。

 すると、いつの間にか隣に立っていたアッシュが、突如、男を壁に思い切り叩きつけた。壁に縫い付けるように片腕を押さえ、冷たい微笑を寄せる。

「その化け物に見下される気分はどう? 俺は知りたくもないけど」

「……っ!」

 男が恐怖に顔を歪め、声にならない叫びをあげる。

 直後、倉庫の真上からまた別の悲鳴が響いた。狼の唸り声と共に、木の崩れる音が響いている。

「派手にやり過ぎだろ!」

 音の原因が何かを察したアッシュが、思わず上に向かって叫ぶも声は届かない。

 一方で、勝ち目がないと悟った傭兵達は、ランスロットから距離をとりながら顔を見合わせていた。そして、一斉に武器を捨て、絶叫しながら階段上へと駆けて行く。

「貴様ら、何をしている! はや、早く私を、たすけ……」

 長衣の男が、アッシュに押さえ付けられたままぎゃあぎゃあと喚くが、傭兵達は既に如何にして生き延びるかでそれどころではないようだった。しかし。

「あーあ、上行っちゃったよ……」

 一部始終を黙って眺めていたアーサーが顔を引き攣らせながら彼らを見送り、間もなく。

 獣の咆哮と共に断末魔があがった。屋敷の一部が崩れ落ちる音と、何かが叩きつけられる音の後、最後に狼の遠吠えが何かを告げるように鳴り響く。

 突如、耳をつんざくような静寂が舞い降りた。

「……さて」

 血にまみれた石畳を、壁のランプがゆらりと照らす。

 長衣の男はすっかり抵抗する気が失せてしまったらしい。アッシュが手を放すと、ずるずると魂が抜けた表情でその場にへたり込む。

「……なんでテオドールなんかに」

 ここへ降りてきた時の姿は見る影もなくすっかり疲れ果てた顔の男は、縋るようにアッシュへと手を伸ばした。アッシュは冷たく彼を見下ろし、一歩後ろに下がる。男の伸ばした手は虚空を掴み、宙を泳いだ。

「行くよ。用は済んだ」

 アッシュは彼に一瞥をくれることもなく階段を登り去って行き、長衣を羽織った館の主は一人地下室へと残された。

「こんな、はずじゃ……」

 真紅に染まった地下倉庫をただただ茫然と見つめ、男はやがて静かに目を閉じるのだった。



 漆黒の夜の中にあって、屋敷だったその場所は煌々と輝いていた。

 燃え盛る炎がぱちりぱちりと弾け、黒い煙が徐々に闇へと溶けていく。

「よし、任務完了」

 黒い手袋をはめなおし、アッシュは大きく息をついた。ようやく終わりを迎える夜に、先程合流したルーヴも含め、皆ほっとした顔で揺らめく炎を眺めている。

 多少予定外の出来事はあったが、概ね想定通りにいった。証拠となる書類の奪取と、人々を蝕む瘴気の粉ブラックの焼却。屋敷の全焼を以って、この二つはどちらも達成される見込みだ。

 館の主は、さてこの炎の中生き延びられるだろうか。運が良ければ燃えずに済むかもしれない。

 しかし、アッシュは、彼の生死に興味はなかった。ここで果てようが生き延びようが、あの男に待ち受けるのは地獄であることに相違ないのだ。強いて言うのならば、最後に見た顔が最高に傑作だったことだろうか。望みを託して伸ばした手が、虚空を掴んだ時の絶望の満ち溢れた表情はしばらく酒の肴としては使えるかもしれない。

 あと残されているのは住み慣れた我が家への帰還と、敬愛してやまないボスへの報告である。

 この結果を持ち帰ればボスはさぞかし喜ぶであろうと、アッシュは自然と口の端を緩めた。

「アッシュ」

 そんな彼へ、疲れた声が飛んできた。

「なんだよ」

 せっかく勝利に酔いしれていたのにと、アッシュは不機嫌さを隠すことなく声の持ち主へと振り返り、睨みつける。

 声をかけたのはランスロットだった。彼はルーヴの傷の手当てをしながら、困ったような表情でアッシュを見上げている。

「……お前の策が効率いいのは、よくわかるんだが」

 ランスロットが、そっぽを向いたルーヴに一度視線を移す。

 一人外で戦っていたルーヴは、身体の至る所に怪我をしていた。特に口と腕回りは血まみれで、合流した時にアッシュを除く三人がぎょっとする程だった。幸い致命傷はないものの、決して看過できるものではない。

「お前のやり方は、ルーヴに負担がかかりすぎる。せめて、囮にするのなら、もう一人つけるとか、別の方法を……」

「建物壊せなんて、俺言ってないけど」

 ランスロットの訴えを一切無視し、アッシュは不機嫌に鼻を鳴らす。ルーヴは相変わらず反対を向いていてアッシュを見ようとはしない。

「文句があるなら策通りに動いてから言ってくれない?」

「アッシュ、そういう言い方は」

「どうせほとんど返り血だろ。そんなことより、早くボスのところに帰らなくちゃ」

「アッシュ!」

 くるりと背を向けたアッシュに対し、ランスロットが懇願するように叫ぶ。しかし、彼は一度も振り返ることなく、腰下まで伸びる髪を揺らしながら去って行く。

「ランスぅ、もういいよ……」

 諦めた表情で、ルーヴがぽつりと呟いた。少し離れたところで座っていたアーサーとラグナがため息を漏らし、ランスロットも項垂れるように首を振る。

「ま、俺らも帰りますかね。腹も減ったし」

 アーサーがやれやれと、重い身体を持ち上げる。

「るーゔ、いてて、だいじょぶ?」

 ラグナが心配そうに首を傾げると、ルーヴは少し疲れた顔で笑った。

 ランスロットから差し出された手をとり、

「うん、平気。ありがとね、ラグ。ランスも」

 そう告げ立ち上がると、大きく息を吐く。

 そして、一人先行するアッシュの背を眺め、四人は複雑な胸中でその後を追った。



 テオドール。魔界一の商業国ラクーナで暗躍する組織の名を、人々はそう呼んだ。

 魔族でありながら、魔族非ざる姿を持ち、魔族非ざる力を持つ者達の集まりであるというのが、一般的に周囲が持ち得る知識であり、果たしてその実態はといえば、概ね真実と言っても差し支えないだろう。しかし、彼らの生業を知っている者となると、極めて狭い範囲に絞られる。

 ラクーナのメインストリートであるグルック通りから西の外れ──ティラン地区。噴水広場を取り囲み、見事な邸宅が立ち並ぶ一見して貴族の住宅街であるこの場所が、彼らテオドールのテリトリーだ。

 かつては香水商パルファンを中心に栄え、所謂金持ちが住まう地域だったが、とある事件がきっかけでパルファンが凋落し一転。ティラン地区は裏商人や密売人達が蔓延る危険地域と化し、その華やかな歴史に幕を閉じた。

 そして、それから約八十年後──今から、一八年前。好き勝手に住していた密売人達が、たった一人の女の手によって住処を追われることとなる。

女は大きな曲刀一本で、何百という密売人達を相手に立ち回り、彼らをティラン地区の外へと放り出した。

 単独で密売人達を追い出したという女の噂は、瞬く間に国中に広まった。

 ──新たな裏組織が、ティラン地区を占拠した、という形で。



「さてと、まずはご苦労さんだったね」

 元パルファン邸の一室。大きな曲刀を杖代わりに手を乗せ、赤いソファに腰を掛けた老婆が口を開いた。老婆は桜を散らした白髪を一つに束ね、燃えるような緋色の瞳をぎょろりと眼前の五人へと向ける。

 彼女の名はイーリス。またの名を、裏のグランマ。

 このティラン地区を縄張りに、ラクーナの裏を牛耳る組織テオドールのボスだ。一見してただの老婦であるが、裏の世界で彼女を知らぬ者はいない。

「それで、どうだったんだい? 聞かせとくれ」

 テーブルを一つ挟んだ先には、今しがた任務を終えて帰って来たばかりの少年少女──というには、歳を取っているが──が、横一列に並んで立っている。

 イーリスの問い掛けにいち早く反応したのは、紅茶色の髪の男──アッシュだった。彼の女性を思わせるほど長く伸ばした髪の毛は一本に纏められており、ばらつかないように途中で何か所も結ばれている。

 彼はイーリスと視線が合うと、凍り付いていた蜂蜜色の瞳を甘く溶かし、目を細めた。

「全て予定の内に。ブラック取引の証拠となる書類の入手と、保管してあったブラックの焼却。どちらも無事に達成されています」

 アッシュは一歩前へ出て、自信たっぷりな表情でそう言った。

 彼らが口にするブラックとは、高濃度の瘴気を粉末にした違法薬物のことである。依存性が強く、摂取すると著しい理性の低下や幻覚幻聴を引き起こし、最悪の場合死に至る危険な代物だ。

 前王フェルゼンの時代、ラクーナでこのブラックが大流行したことは記憶に新しい。

 現在は、国の主導の下に大方の流通ルートは一掃。製造に必要不可欠である〈瘴気の吹き溜まり〉の廃止など大々的に対策が打たれ、表にブラックが出てくることはなくなった。

 しかし、それでも密売人達はどこからともなく抜け穴を見つけ、光の差さぬ場所でひっそりと蠢いているのが現実だった。

 そんな内側から国を食い破ろうとする害虫共を潰して回っているのが、彼らテオドールの秘された目的の一つである。

「よくやったじゃあないか」

 イーリスがソファにもたれかかり、ニヤリと笑った。他の誰でもないボスからの誉め言葉に、アッシュは思わず口の端を上げ、それからすぐに眉根を寄せる。

「なんだい、心配事でもあったのかい?」

 険しい顔で書類を捲る彼に、イーリスが身を乗り出した。

「いえ、手に入れた書類があまり芳しくなくて」

 どれ、とイーリスが書類を受け取り目を通す。

「……こりゃあ、随分と綿密に考えられたルートだねぇ」

 書類には、取引に関わったであろう商人、密売人達の名前が書かれている。大概多くても十もいかないくらいの数しかないのだが、今回記載された名前の数は悠にその倍以上だ。その上、何か所も消しては枝分かれをしている為、結局どこが結びついているのか明確ではない。

「契約書にも一切取引先の情報が書かれておらず、供給元が割り出せません。それと……」

「それと、なんだい?」

 イーリスが聞き返すと、アッシュが黒い粉末の入った小袋を取り出し、机に置いた。

「なんだい、ブラックじゃあないか。これがどうしたんだい?」

「いいえ、見てもらいたいのはこっちです」

 そう言ってアッシュが指差したのは、袋に括られた紙の方だった。

 紙には、〈新製法による〉と小さな文字で書かれており、イーリスは思わず顔をしかめる。

「障気の吹き溜まりがセオドア様の手によって封鎖されている以上、あとは今あるブラックを全て処理すれば、と考えてましたが……」

 アッシュが腕を組み、右の人差し指でトントンと肘を叩く。

「吹きだまりを使わない製法が確立されたとなれば、またブラックの総量が増える、か。……随分と厄介な話じゃあないか」

 やれやれとイーリスが頭を振った。ちょうど、後ろで退屈そうに欠伸をしていたアーサーと目が合い、ふっと表情を緩める。

 イーリスはおもむろに机の上に置いておいた煙草を一本取り、火をつけた。たっぷりと煙を吸い込み吐き出すと、部屋中に甘い香りが広がる。

「まぁ、仮説は置いておいて、今日はここまでにしよう。アンタ達、よくやってくれたね。まずはゆっくり休みな。夜が明けちまうよ」

 皆が一斉に窓の方へと顔を向けた。カーテンの隙間からは既に赤い光が零れている。ヴェリタの月とリューゲの月が、魔界に朝を告げようとゆっくり空へと傾いで登り始めていた。

「今日はもうお眠り」

 イーリスの声は甘く心地よく彼らの耳を揺さぶり、子守歌のように響く。

「はい、ボス」

 五人は口を揃えて、いつも通り素直に返事をした。イーリスに一礼し、眠い目を擦りながら扉へと向かって行く。

 おやすみなさい、と口々に告げて出て行く背中を見送り、

「ルーヴ」

 ふと、イーリスは銀色の髪の少女に声をかけた。ルーヴは突然呼ばれた理由がわからず、目を瞬かせながら首を傾げる。

「どうかしましたぁ?」

 気が抜ける返事に苦笑を返し、イーリスは小さく手招いた。扉が閉まる間際、廊下の奥でアッシュが睨んでいるのが見えたが、彼女は気づかないフリをして側に来たルーヴの頭をぽんと叩く。

「まただいぶ派手にケガしたねぇ、アンタは」

 ルーヴは体中至る所に包帯を巻いていた。大事ないと聞いてはいるものの、その姿はどうしても痛々しく映る。ケガの原因を聞いていればなおのことだ。

「さすがにもう慣れちゃいました」

 くすぐったそうに頭を揺らし、ルーヴはケロリとそう答えた。そして、一度考え込んでから、

「……文句は言ったんですよ」

 と、声を潜めて付け加える。声音にやや非難めいたものが混じっているのは、気のせいではないだろう。

 イーリスは髪から顔へと撫で下ろし、ルーヴを労わるように見つめる。

「困ったもんだねぇ、ほんとに」

「えへへ、でも、ボスが心配してくれたから帳消しです! ボス、あたしもう寝ますね」

 心配と呆れをちょうど半分にしたような表情のイーリスをよそに、ルーヴはパッと立ち上がるとくるりと一回転して見せる。黒いワンピースの裾が綺麗な弧を描いて舞った。

「あぁ、おやすみ」

「おやすみなさい、ボス」

 ルーヴが出て行き、再び扉が閉じる。

 イーリスはもう一度煙草を吸い込んでから、思い切りソファにもたれかかった。

「いい加減に、なんとかしなくちゃいけなさそうだねぇ」

 煙と共に苦々しく吐き出された独り言は、甘い香りを纏いながら消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る