楠公と呼ばれなかった男

@trhttmnr

第0話 悪いことではあるまい

「和平は、成るか」


書状の文字を一文字ずつ確かめるようにして読み終えると、男はそう呟いて瞑目した。

若い頃から戦場で鍛えられ、齢60にも届かぬその肉体は未だ壮健であった。

しかしながら


(精気が、すっかり失われてしまった)


傍らに控え、男の姿を見守っていた息子の目には、父の衰えが――否、死期が近づいていることがはっきりと見て取れた。


室町殿むろまちどのが、和平にご尽力くださるとのことだ」


男はかつて見た、室町殿こと足利義満あしかがよしみつの若さと自信に溢れた顔を思い浮かべた。


「あの御方がお約束くださるのであれば、まあ間違いあるまいよ。まだ多少の時は要するだろうがな」



息子の心中を知ってか知らずか、男はそう言って書状を差し出した。

恭しく書状を受け取り読み始める息子を片目に見つつ、男は考える。


己の一生は、いったい何だったのか。

物心つく前にあった父親の死が、男の人生を決めたと言って良い。

求められるままに戦い、敵を屠り、味方を殺し、気が付くと足元は屍で埋め尽くされていた。

多くの者たちが流血に酔う中、しかし男だけは正気を失うことができなかった。


敵も味方も、いったいなんのために戦っているのか。

戦って、勝って、あるいは負けて、いったい何になるというのか。

そうした疑問を抱く一方で――あるいは、抱いていたからこそだろうか? 男は誰よりも効果的に敵を打ち倒す術を見出し、それによって英雄となった。

しかし男は最後まで、父や兄たちのような忠義の心を、あるいは打ち倒してきた敵たちのような名誉を求める心を、その胸に宿すことができなかった。


(まったく、武士としては出来損ないだ)


男は自嘲する。


己はまもなく彼岸に旅立つであろう。

先に逝った父や兄たちは、己を見て何と言うだろうか。

成すべきことは成したが、成すべきでないことも随分と成してきた。

手放しで褒めてもらえるとは思えない。それを思うと、少し気が滅入る。


しかし、和平は成るのだ。多くの者が、殺し殺されることなく暮らすことができる。そんな世の中が、もう手の届くところまできている。であるならば


「悪いことではあるまい」


嘆息に混じった男の呟きは、誰の耳にも届くことなく宙に消えた。


それからほどなくして、男は静かに息を引き取った。

男の名は、楠木正儀くすのき まさのりといった。

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