ヂーニ・ニーヂスタンの憂鬱

 その日、ヴェヌイの人々の生活は一変した。

 隣の港湾都市カイリュウ港が謎の黒壁に覆われた日から、すでにおかしな状況ははじまりつつあった。でも、ヴェヌイ自体に何かしらの異変があったわけではない。


 直接の被害がなければ、すぐ近くに理解を越えた現象が起きようと、平静を保っていられるものなのだ。ただし、大人しくしていた異常という名の隣人が、突然、自分たちの領域にまで侵攻してきた場合は、その限りではない。


 荘厳なるオリーヴァ・ノトス大聖堂が崩壊し、ヴェヌイの日常も崩れた。

 

 人々は明日への不安を抱えた。

 矮小な人間の手にはおえない何かが起こっていると知っていても、それに対してなにかアクションを起こせるわけでもない。


 大事件の翌日。

 人々は力強く営みをおくっていた。

 突然の混乱、都市のだれもが明日への不安を抱くなか、それでも今日を生きるため、労働に従事し、生産活動に精をださなくてはいけないのだ。


 なにがあろうと生活は続いていく。

 街が荒れ果てても、陽はまた昇るのだから。


 為政者も同じことだ。

 街角の酒場でエールが振舞われたり、釜戸でパンが焼かれたり、労働者が瓦礫を運んだり、冒険者が朝から組合に顔をだしたりするように、混乱に対処し、道を示し、都市を切り盛りするのが、権力を持つ者の務めだ。


 水の都市ヴェヌイ最高の権力者、聖火司教ヂーニ・ニーヂスタンは、崩壊した大聖堂の、それでもなお、かろうじて残っていた西側の応接間にいた。


 そこを臨時の執務室とし、この混乱収束の指揮をとっているのだ。


 老人は椅子に深く腰掛けて、おでこを抱えて沈黙する。

 かたわらにいるのはオリーヴァ・ノトス大聖堂の剣『竜騎士』ルブレスだ。

 

 カイリュウ港とヴェヌイを巻き込んだ連日のイベントのせいで、現場で忙しい身のルブレスがここにいるのは、体裁を保つためだ。客人を迎えるための体裁を。


 コンコン。


 ドアがノックされる。

 ヂーニとルブレスは顔を見合わせる。


「入れ」


 ヂーニの厳かな声が告げた。

 聖火司教の臨時執務室にやってきたのは2名だ。

 どちらも若い女、しかし、威風を双肩に宿す英傑である。


 片方は腰や肩にスリットのはいった白い修道服を着こんでいた。赤熱の輝きが浮かぶ黒髪は短く、燃える瞳は夜のなかで熱と明るさを放っていそうだ。凛とした顔立ちには清廉さと覚悟がうかがえる。

 

 この少女の名は”火剣のリナ”。炎竜皇国聖火司教を代々世襲する家柄をもち、特別な剣士の称号『火剣』を継承している武人だ。武と知、品と格を持つ、果てしない才女は、代行者たちの実質的なリーダーであった。


 もうひとりは赤いローブの魔術師だ。こちらも綺麗な顔立ちをしているが、勇敢な戦士というよりは、艶めかしさと狡猾さを感じさせた。紫と金色の毛束が混ざった頭髪は、こだわりを感じさせる編み込みと装飾で煌びやかだ。


 この魔術師は”崩壊の炎テレジー”。

 エンダーオ炎竜皇国最高のルーン使いのひとりだ。


 リナとテレジーは軽く会釈をして入室すると、ヂーニとルブレスの前の椅子に腰かけた。応接机のうえに紙が散乱しているのをチラッと見るが、表情は変わらない。


 ヂーニの眼差しは、最初にリナへ、次にテレジーへ注がれた。

 聖火司教の眼力を受けようと、ふたりとも表情ひとつ変えない。


 ヂーニは沈黙して言葉を待った。辛抱強く。代行者たちの言葉を。謝意を。


 平時なら聖火司教をまえに、すこしでも申し訳なさそうにしないやつには、声を荒げる彼でであるが、ヂーニは代行者たちに対して激昂することはなかった。

 理由は2つあった。上位者たちに会ってからというもの、まだ同じくくりにいる人間には優しくなったこと。それと彼女たちもかなり疲れた顔をしていたことだ。


 ヂーニはここのところ胃痛に悩まされ、連日の睡眠不足、くわえて本日に限っては大聖堂の崩壊によって夜通しで対応に追われていたのだ。


 ゆえに今現在、太陽が高くのぼった時刻になるまで、一睡もしていない。

 だからこそ不機嫌にもなろうものだが……そんな自分と同じくらい憔悴している若い娘たちに、声を荒げるつもりにはならなかったのである。


「どうしてこんなことになったのだ……」


 ヂーニがしびれを切らして、重苦しい声でつぶやいた。

 その声には以前のような威厳や力強さはない。


 あるのは切実さ。

 自分の理解が及ばないことを知りたいという気持ち。

 

「代行者たちよ、お前たちならわかるのだろう、どうして大聖堂の7割が手の施しようがないほどに崩壊したのか。どうしてヴェヌイからカイリュウ港へいたる道のりがデコボコになっているのか。どうしてあの黒い壁が壊れたのかや、あとは……もうそのほか全部だ」


 老人は頭を抱えて、疲れ切った声で投げやりに訊いた。


「ニーヂスタン司教、申し訳ありません。どのようにすれば、私たちの経験したこと、見たこと、感じたこと、それらを誤解なく伝えることができるのか、今この瞬間まで悩んでいたのです」

 

 リナは誠実な声でそういう。

 ヂーニは口をへの字に曲げたまま、沈黙して言葉を待った。


「まず……そうですね、今回、動員された代行者を代表して言わせていただきます。我々ではカイリュウ港に住みついた黒き怪物たちを駆逐することは叶いません」

「代行者の力をもってしても、なのか?」


 リナは静かにうなづいた。

 

「御伽噺に出てくる神の軍勢……そんな言葉が正しくあてはまるように思います。あの黒い怪物の数は推定で2万以上。防具をもたない下位種1匹にすら、代行者複数人での対処が必要です」

「それが……2万以上……?」

「戦等級にしておそらくは340以上は固いでしょう。英雄の怪物……もしかしたら王の怪物に届きうるかもしれません」

「馬鹿な、そんなことが……! それでは一国の軍を編成したとしても勝てぬではないか!」

「ええ、ですから、勝てないでしょう。もし戦争になれば終わりです。エンダーオ炎竜皇国のすべてを賭けたところで、抗うことすら難しい」


 ヂーニは口元を押さえて、肩を震わせる。

 彼は思いだしていた。否、思い当たる節があった。

 リナの語る黒いものたちは、まるで上位者のような戦力ではないか──と。

 

(しかし、アーラー様や人間道様は、カイリュウ港の異変についてなにも知らない様子だった……まさか……上位者たちは一枚岩ではない、のか? アーラー様たちではない、別の勢力が、いるのか?)


「司教? 大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」


 リナは心配するように伺う。

 ヂーニは代行者のそんなさまを見て、薄く笑みを浮かべる。


「私は大丈夫だ。続けろ」

「……。彼らの一般的な武装である黒くねじれた槍はリオブザル鉱を上回る魔力鉱石で作られている可能性があり、『怪腕の恩寵』をもつバーチカルでさえ、破壊することができません」


 ヂーニとルブレスの口から驚愕の吐息が漏れる。


「黒い壁の内側へ侵入し、偵察をおこなったところより上位種と思われる白亜の鎧をまとった個体も確認しました。この白鎧の個体に関しては、代行者の総力をあげても単騎を撃破できるかどうか……防具なしは英雄の怪物あるいは王の怪物といいましたが、この白鎧の個体は、王の怪物であることは間違いないかと」

「……そうか。つまり戦等級400以上、となるわけか。それが複数体とな」

「目視で確認した限りでも、100体以上はいたかと」

「…………まさしく神の軍勢、だな。ははは……」


 リナの言葉にヂーニは乾いた笑みをもらす。

 力のない笑いが絶えたあと応接室に痛いほどの沈黙がおりてきた。


「もうひとつお耳にいれなくてはいけないことがあります」

「……まだなにか、あるのかね?」

「カイリュウ港では、いろいろなことがありまして。黒い怪物とは別の、そう、恐ろしい異形ではない、話の通じそうな人間がいたのです。驚くほどの力をもつ人間の英雄です。黒い壁を破壊したのはその者でした。彼の力は黒い怪物たちさえ比肩しない、常軌を逸した領域にあり、黄金の輝炎でもってカイリュウ港を更地に変えてしまったのです」

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