ヂーニ・ニーヂスタンの胃痛
ヂーニ・ニーヂスタン。
それはエンダーオ炎竜皇国東における最大の都市ヴェヌイをおさめる火教の聖火司教の名前だ。
老齢ながら声に力があり、威厳あるふるまいを忘れていない。もうずっと火教の重鎮である彼は、自分より身分の高い人間などこの世界には存在しないと考えている。ゆえに傲慢であった。
若い聖職者たちに恐れられる彼だが、すこし前から態度が柔らかくなったと大聖堂のなかではひそかを噂をされていた。
いったいどんな出来事があれば、あの傲慢で恐ろしい聖火司教がいまさらになって丸くなるというのか。老いてなお厳しかった彼が、どんなことを知れば、優しさをもつようになるというのか。
ヂーニの護衛であり、右腕を務める大聖堂の守護者『竜騎士』ルブレスはそのわけを知っていた。本人から直接聞いたわけではない。というより、彼もヂーニと同じ経験をしたために、彼が優しくなった理由を知っているのだ。
彼らは、この世界のなによりも恐ろしいものに出会ったのだ。
聖火司教という世界屈指の立場をもってしても、それを知ったからには「あぁ、なんとちっぽけなことか……」と、つつましくならざるを得ない。
それどこか、他人に優しさを向けたくなりさえする。
「ルブレス、あのお方がいらっしゃる。お迎えにいくぞ」
「はい」
ルブレスは緊張の声で返事をする。
聖火司教みずからが出迎えにいく相手など、同じく聖火司教か、あるいは火教そのものたる竜皇の来訪くらいなものだ。
だが、本日大聖堂はそのどちらも迎える予定ではない。
ヂーニとルブレスの2名が迎える来賓は、このふたり以外、大聖堂のだれもその来訪を認知していない人物なのだ。
数か月前からヂーニが命じ、大聖堂の上層北側はだれも足を踏み入れないよう、この大聖堂にいるすべての聖職者の立ち入りが禁じられている。
ふたりが向かったのは、そんな北側の大聖堂のなかでももっとも豪華な部屋。
ここは最上級の来賓を迎える時にだけ使われている部屋だ。
ヂーニとルブレスは直立の姿勢で部屋のまんなかで待つ。
ノックもなく扉が開いた。
入ってきたのは男と少女。それと怪物が2匹。
男の背はすらりと高く、白いサラサラの髪からのぞく瞳は燃える赤色だ。白衣を着ており、片手にジュラルミンケースを持っている。
少女は美しい顔立ちをしており、桃色のつややかな髪をしていた。だぼだぼのパーカーに、大きなスニーカーを履き、デニム生地のホットパンツからは健康的な足が伸びている。
2匹の怪物は身長も体の厚さも人間のそれではなく、黒いトレンチコートをぴちぴちにして着こんでいた。表情は真っ青。口元も目元も縫われ閉じられ、痛々しい。
「アーラー様、ようこそいらっしゃいました!」
「あぁそういうのはいらない」
ヂーニは視線を桃色髪の少女へ向ける。
「あの、そちらの方は?」
ヂーニもルブレスも、眼前の白髪の男アーラーと怪物たちのことは知っていた。出会うときはいつもこの3名のセットだったからだ。
しかし、桃色髪の少女は本日はじめて会う。ヂーニもルブレスも、彼女がアーラーという絶対の上位者の連れであることから侮ることなぞ決してしない。だが、それでもこんな可憐な少女がいっしょにいることは、不思議に思えてならなかった。
「彼女は人間道。彼女ひとりで三大国を更地にできる戦力だ。失礼のないように」
「そ、それはもちろんですとも!」
「では、報告を聞きましょう」
人間道はひょいっとソファに腰をおろし、アーラーは静かに座る。
ヂーニは対面のソファに慎重に腰をおろし、緊張のせいで胃酸が逆流しそうになるほどのストレスを感じながら、必要なことを報告した。
いまヂーニの目の前にいるものたちこそ、彼が優しくなった理由そのものだ。
数か月前に突然姿をあらわし、エンダーオ炎竜皇国の重鎮であるヂーニを恐怖で完全に支配し、『ダンジョン財団』なる勢力に属するものを探させている張本人たちである。
(この者たちの探しているダンジョン財団とやらは、超常的な存在という。異常な出来事があれば、すぐに報告するようにまえまえより言われていた。これまでなんの報告もあげられていなかったが、ようやくこうしてひとつ手柄をたてることができそうだ)
ヂーニはひどい顔色でアーラーと人間道に報告を終えた。
「混血の軛くん、なんかさ、ダンジョン財団っぽくなくない?」
「たしかに。海から黒い怪物たちがやってくる……すこし変な感じがあるが」
「は、はは、はい、そうなのです、それも、接触した兵士からの話によれば、とても手強い怪物たちでして、この世のものとは思えないような……驚異的な怪物らしいです、それゆえ、オリーヴァ海最大の港街は、その黒い怪物たちに占領されてしまっているようでして、こんなこと私が生きてきて、はじめてのことです、異常です」
「まあいい。せっかく来たんだ。現物を見て判断すればいいと思うが……どう思います」
アーラーは人間道をちらっとうかがう。
「うん、いいよ。いってみよ」
アーラーと人間道は内々でいくらか相談をし、ヂーニに軽く礼をいうと、さっさと部屋をでていってしまった。巨漢の怪物たちもそのあとをついて出て行った。
彼らがいなくなると、ヂーニもルブレスも深くため息をつき、胃をおさえた。
「どうにか、乗り切ったな……」
「ニーヂスタン様、お疲れさまでした。大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫だ。案ずるな……お前こそ、ひどい顔色だぞ」
「それは当然でございます。あの恐るべき怪物たち……もし仮にニージスタン様が襲われでもしたら、私が命を懸けようと、この場から逃がすことさえできなかったでしょうから……」
「バカ者が。あの日のことを忘れたわけではあるまい」
ヂーニの脳裏に浮かんでいるのは、恐怖を植え付けられたあの日だ。
アーラーなる男によって誘拐され、謁見をさせられた顔のない王。
あの怪人は、ヂーニとルブレスを裂き、そしてくっつけてみせた。4本の腕と、4本の足と、2つの頭と2つの胴体をもつ化け物につくりかえられ、発狂しかけたところで、彼らは分解され、そしてもとに戻された。
そうして学んだのだ。上位者の存在を。
別の世界からやってきて、この世界でなにかをしようとたくらんでいる巨悪の影を。
優しくもなろうというものだ。
せめて隣人には、同じ世界のものには。
まだ考えていることがわかる同族くらいには。
「やつらがその気になれば、私たちなど、とっくに悪夢のなかで窒息してる。あのお方たちが死ねというのなら、私たちは無抵抗で死ぬべきだ。それが一番幸せなんだ。抵抗しようなんて考えただけで……」
再びこみ上げる嘔吐に、ヂーニは口元をおさえた。
ふたりが執務室に戻ろうとすると、ちょうど部屋のまえで女に会った。
黒い髪に、紅色のメッシュのはいった綺麗な顔の女だ。
黒い刺繍の入った白い服を着ており、腰や肩のあたりにスリットが入っている。
聖職者としてあまり褒められたものではないそんな恰好をできるのは、火教のなかでも特に不良なことで有名な代行者くらいである。
ヂーニはもともと気分が悪かったため歪んでいた表情を、さらに不機嫌にゆがませた。
「イグニス・ファトゥス……? 今更になって召喚に応じたか」
「大変遅れてしまう申し訳ございません」
「言葉遣いだけ丁寧なクズが……いい、入れ」
「ありがとうございます」
イグニスは事務的にそんなことを言い、ヂーニとルブレスとともに執務室にはいった。
「さっそくなんですが、戦線の情報を話してもらえますか」
「本当にさっそくだな、貴様。お前以外の行動可能な代行者は1週間以上前に集結しているというのに」
「すこし急ぎの用事がありまして。迅速に召喚に応じれず申し訳ありません」
「チッ……」
ヂーニは不快さを隠そうとしない。
でも、目の前の女の力はいまこそ必要だ。
「オリーヴァ海より、黒い軍団があらわれた」
ヂーニはしぶしぶ話し始めた。
奇しくも先ほど上位者たちに話したものと同じ内容を。
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