第一回指男被害者の会

 ━━イカロニクの視点


 イカロニクは湿地帯を必死に駆けた。

 脳みそを掻きむしられるような強烈な不快感から逃げるために。

 本能の赴くままに、ただひたすらに危険から離れるために。


 やがて走り疲れて樹々の根元に腰をおろした。

 荒く息をつきながら、冷静に走ってきた道をふりかえる。

 暗く、濃い霧の湿地があるばかりだ。誰も追ってきてはいなかった。


「首枷は終わったな……」


 イカロニクは確信していた。

 現世にて都市伝説となった指男の畏怖、その根源であり、塊たる恐怖症候群に晒されたからこそ、彼には指男を侮る気持ちが一切なかった。


(たとえ教導師団でも、いや、いかなる強者の集団であろうとも、敵対すれば最後、滅ぼされるほかない。あいつは、あの震える瞳の教導師団を打倒したんだ。殲滅専門の部隊でもない首枷に生き残る手段はない)


「くそ、くそ、くそ……クソぉ!」


 拳を樹に叩きつける。幹に手甲がめりこみ、べきべきっと音をたてた。

 

(逃げた、逃げてしまった、私が最初に逃げた、フィンガーマンの恐ろしさを知っていたのに、あれの脅威を知っていたのに! 私が逃げなければ、首枷は全滅することはなかった。23人だぞ? 助けられたかもしれないのに)


「まさか同志を見捨てて、ひとり逃げ出してしまうなんて……許せ、許してくれ、私じゃあれには立ち向かえない、それに忠告したんだ、詳しく話す時間はなかったが、最善の努力はした……っ」


 自責の念が胸を締め付けた。同じ教導師団という暗部で活躍し、国家を支える柱だった。フィンガーマンの恐ろしさを知っていたのに、それを伝えることができなかった。それは悔しさであり、やるせなさだった。

 

 戻ることはできた。

 それを選ぶことはできなかった。

 同志を失うことよりも、再び指男のまえにたつことのほうが嫌だった。

 シンプルに恐怖が勝っていたのである。


「フードを被っていたから、顔は見られていないはずだ……私は大丈夫だ、大丈夫なはずだ。フィンガーマンと会うことはもうないんだ」


 震える足に力をいれて立ちあがる。

 イカロニクは時間をかけて、フラストパールまで引き返した。


 数日が経ったある日のことだ。同志を見捨てて逃げてしまったことでトラウマを上塗りしたイカロニクのもとに、訪ねてくる者がいた。


 酒場の隅っこで、酒を飲んでいるところへやってきたのは、女であった。

 金色の髪にすらっと背が高い、美しい女だ。凛々しい顔立ちと佇まいだが、表情に覇気はなかった。

 イカロニクは唖然とした。なぜなら訪ねてきたその女は数日前に死んだはずのナイル・ヨセフスカだったからだ。


「まるでゴーストでも見たような顔ですね」

「大正解だ……。あんた、生きていたのか」

「結果としては、そうなります」


 ナイルはしょんぼりして口籠る。


「座っても?」


 イカロニクは「あぁ」と気の抜けた返事をする。


「あなたが何を恐れていたのか、完全に理解することができました」

「戦ったのか? あの恐るべきフィンガーマンと?」

「戦いとは言わないかもしれません。あれは、フィンガーマンは……ただ誇示していました。あるいは、試していたのかもしれない。私たちを。どのみちあれは戦いとは呼べないでしょう」


 イカロニクはどこか安心したように「そうか」と納得した声をだす。


(もしや戦い、生き延びたのかと思ったが、そんなことはなかったようだ。もしそうなら、私はこのナイル・ヨセフスカに拍手してやらねばいけなかった)


「あれはまったく違う段階の脅威。英雄という枠組みには収まりきらない」

「だから言っただろう、あれは別次元のバケモノだ。人の姿をしてはいるが、その真実の力は人間を遥かに超えた領域にある」


 ナイルはお腹を撫でる。腹パンされた鈍痛がまだ残っていた。


「お腹、殴られました……」

「その程度で済んでよかったと思うべきだ。消し炭になっていないだけ幸運だ。ところで、どうやって生き延びた」

「彼は、フィンガーマンは恐ろしい力の持ち主ですが……慈悲をもっているんです。お腹殴ってきますけど、人の子という感じです」

「慈悲、か。まあ、それ以外でやつから逃げ延びるのは難しいかもしれないな」

「フィンガーマンとは何者なのですか。イカロニク殿ならばご存じなのでしょう?」

「知らない。知りたくもない。あれについて興味を持っているのなら、あんたは救いようがない馬鹿だ。フィンガーマンには触れてはいけない。近づかないことだけが、自分の身を守る手段だ」

「わかっていますよ。だから、こんな格好をしているんです」


 ナイルは手を広げて見せる。

 

「そういえば、騎士服を着ていないな」

「辞めました。教導師団を壊滅させた責任を負いきれないので」


 呆気からんという彼女に、イカロニクは逡巡し「なるほど」とかえす。


「首枷の教導師団は実質的に解散しました。生き残った皆で決めたことです。すでに任務に失敗していた手前、たったひとりに壊滅させられたとあっては、とてもメンツが保てない。私のメンツという意味でもですが、魔導教団という意味でも、です。きっと教団はフィンガーマンを許さない。そうすれば、次に動員されるのはやはり教導師団でしょう。そしたらまた犠牲者が増える。あれには近づいてはいけないのです。私も魔導教の教えに従ってきた身です。首を支えてきた英雄がこれ以上、あの恐るべきフィンガーマンの指先で灰燼となることを望みません」

「存外、優しいんだな、あんた」

「優しくなど、ありませんよ。私たち首枷の生き残りがフィンガーマンと再び戦わされるかもしれない。再びあれに立ち向かうのを御免被りたいだけです」


 ナイルは疲れた笑みを浮かべる。


(ナイルは自分と、教団に仕える者のためにフィンガーマンの秘密を持って、教導師団を抜け、姿をくらませるつもりか。彼女の部下たち━━首枷の仲間たちも同じ思いなんだ。たしかにそれが一番いいかもしれない。教団がフィンガーマンを敵にすれば、犠牲者はどれだけ増えるかわからない)


「私についてきた部下をこの遠征で20名近く死なせた……私が不甲斐ないばかりに……ああ、どうしてあの時、滅びの火まで手に入れようなどと……っ」


 己の失態を取り戻すために、犠牲になった者たちがいた。

 優等生を貫いてきたナイルにとって、失敗の上塗りをするのは恥ずべきことであり、仲間を失ったショックは耐え難いものだった。申し訳さで潰されそうになるほどに。


 イカロニクは逡巡したように机のうえで視線を泳がせ、肴の豆を手に取り、口に運び、ぽりぽりと小気味良い音を鳴らした。


「あんたには救われたやつもちゃんといる」

「それがあなただと?」

「ああ」

「私はあなたを救ってなどいませんよ」

「あんたが顔を見せてくれてよかった。おかげで私は気が楽になった」

「どういう意味ですか」

「あんたと同じさ。自責の念ってやつだ」

「先に逃げてしまったから、ですか。無理もない。相手があのフィンガーマンなら、それは賢明な判断であって、臆病にはなりえないですよ、イカロニク殿」

「そう言ってくれるとやはり救われるな」


 イカロニクとナイルは静かに木杯をぶつけあわせた。

 ともに異次元の化け物を知る者同士、共有する秘密が心の距離を縮めた。

 ふたりの間に細やかな友情が芽生えつつあった。


「だが、首枷を勝手に抜けることは教団の捜索を受けることを意味するが」

「確実にそうでしょうね。国宝もひとつ紛失してしまっていますし、このまま姿をくらませれば、国宝を盗み出した罪人になりさがります。教団に捕まれば怒られる、では済まないでしょうね。あぁ、本当に憂鬱です。名誉のためなら命など惜しくないと思ってのに。フィンガーマンに会ってからというもの、死にたくないと強く思っていて……こんなにも死が恐ろしいだなんて」

「自然なことだ。で、どうしてそのことを俺に」

「あのまま死んだことになって、姿を隠してもよかったのですが……忠告をしようとしてくれたあなたには、事の顛末を伝えておこうと思いまして」

「律儀なことだな」

「あとは、もし私が罪人扱いされ拘束されてしまった時に、助けてもらおうと思いまして。私は失敗しましたが、私利私欲や悪意で、首枷を壊滅させたり『魔導傀儡』をマーロリから失わせたりしたわけではないと、あなたに分かってもらっていれば、あるいは九死に一生を得られることもあるかもしれないでしょう?」

「抜け目がないな。私は計算高い女はあんまり好きじゃないが、まあそんな機会があれば、多少は考えておこう」


(私もそれまで教団に身を置いているかはわからないがな)

 

 その後、ナイルとイカロニクはフィンガーマンの恐ろしさについて語った。

 互いの傷心を舐め合い、慰めあう。そうして只人は困難を乗り越える。

 しばらく後、ナイルは最後の一杯を飲み干し「もう行きます」と腰をあげた。


「恐怖を刻まれました。手の震えが止まらない。はやく遠くに行きたいんです。ありがとうございました、イカロニク殿。あなたがいてくれてよかったです」

「どこにいく」

「決まってはないです。ただ、遠くへ。教団にも、フィンガーマンにも、もう関わらなくていいような土地に旅にでます」

「そうか」


 ナイルの返事は予想できたものだった。

 彼女の旅装束と、まとめられた荷物、話を聞いているなかでイカロニクには察することができた。だからさして驚くこともなく旅を祝うのだ。

 

「達者でな」

「ええ、そちらも。もう会うこともないでしょうが……ご壮健で」


 酒場を出ていくナイルの背中を、イカロニクは静かに見送った。願わくば彼女が、そして自分も二度とフィンガーマンと遭遇しないことを祈りつつ━━。

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