ヴォールの濃霧
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件名:期待を込めて★1
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猫タクシー派遣会社ノルウェーキャットさまへ。貴社のフワリさんは大変に親切な運転手です。優れたホスピタリティを発揮し、乗客をひとりも振り落とさずに見事にアブラザ湖からヴォール湖に送ってくれました。ありがとうございます。
しかし、よくないところもありました。私以外の乗客たちがやたら精神的な試練を仕掛けてくるのです。もふもふで乗り心地は最高なのに、あれではまるで心休まりませんでした。心頭滅却ならずです。鋼の精神がなければ今頃、私が異世界で築いて来た威厳が揺らいでいることでしょう。ですので、心苦しいですが−★4です。
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「次はより快適な運転を期待します……っと」
「にゃあ〜っ!(訳:害悪レビュアーだにゃあ〜!)」
ヴォールゲート魔導魔術学校のあったアブラザ湖沿岸の街から西へ、深い森を猫タクシーで駆けると、半日と経たずして湿地帯にたどり着いた。しとしと降るのは静かな雨。空を見上げれば曇天が広がっている。いまだに地下世界にいることを忘れてしまいそうだ。
視線をしたへおろせば深い霧と泥。ねじくり曲がったどこかグロテスクな様相をもつ黒い木々がそこかしこに生えていて、およそ道らしいものが見当たらない。あるいはあるのかもしれないがパッとみわからない。もしかしたら俺たちがここにくる道中、街道を外れて道に迷ったせいで獣道を進んできてしまったのやも。
鼻につく怪しげな露の香りは、この湿地帯特有のものだろうか。この場に長居するだけで髪の毛は濡れ、服はじっとり重たくなりそうだ。
というわけでやって来た、ヴォール湖。古くは繁栄の都があったとの話だが……なるほど、きっと年月を数えるのも愚かしいほどの昔の話なのだろう。まったく人の気配がないし、視界不良がひどいし、もうこの先に進みたくない感じがすごい。理性でも進みたくないし、本能でも進みたくない。
準備は万端だ。ヴォール湖が湿地帯なのは顔の怖いステラや錬金術商会のニッケらから情報を仕入れて知っていた。ゆえにブーツを新調してきた。これで濡れ濡れな嫌な感じの湿地を進むこともできる。
新調したのはブーツだけではない。異世界に来てそこそこ過ごしてきたおかげで、俺の服も汚れが目立って来ていた。適当に見繕って着れそうな衣服を購入。壊れたニッケの商会への若干の申し訳なさもあったので、わりと大量に『超捕獲家』のストレージに突っ込んでおいた。うえから汚れに強い厚手のマントを羽織れば俺も立派な異世界の住民だ。
冷静になって考えれば、いままでの俺はやや異国風な格好をしすぎていた。白いシャツに黒のデニム。カジュアルと質素、無個性の両立。現代では地味な大学生を気取れても、この世界ではちがう。
ちなみにクゥラとエリーも湿地は寒かろうとマントを羽織っている。いままでちょっと肌出し過ぎな気がしたのでこれで俺の心も安寧を得たというものだ。
フワリから飛び降りる。ばしゃ。水が跳ねる。水深は10cm程度。メタルトラップルーム内と似たような足の取られ方だ。
「にゃあ〜……」
フワリさんはちょっとテンション下がり気味。
沼地じゃ毛並みが汚れちゃうもんね。
「師匠、方角的にはあっちかと」
セイラムの声が聞こえるフードがもそっと動き、邪悪な湿地の一方角を示す。手には地図と方位磁針を持っている。俺には扱えないアイテムだ。とても助かる。
「進みましょう。クゥラはちゃんとフワリのそばに」
「にゃあ」
「よろしく頼む」
「フワリさん、お姉ちゃんをお願いします……」
皆で視界不良の霧のなかを進んでいく。ばしゃばしゃ。
「私たちがいるのはたぶんヴォール湖の周辺の湿地、”ヴォールの濃霧”という沼地です。見ての通りすごい迷いやすいらしくて……でも、今日は一段と濃霧が出ているのかもです。これじゃあ、手を伸ばして歩かないと危険ですよ」
「たしかにこれでは転んでしまいますね」
濃い霧のなかを進むのは危険である。
かつてを思い出す。あれは小学校低学年の頃だったか。赤木家で山キャンプに出かけた。場所は覚えていない。夜、コテージを出て肝試しをした。山の夜は空気の冷え込みが激しく、高度もあいまってほとんど雲の中にいるような光景を体験できることがある。俺は肝試し中に迷ったのだ。濃霧のなか、知らない土地でひとりぼっち。生きて下山できないと子供ながらに覚悟を決めたものだ。
「おお、英雄、こんなところにいたのかよ」
「兄貴……っ、なにも見えないよ」
「はは、安心しろって」
「兄貴……っ!」
「俺もなんも見えねえ。帰り道もわからねえ」
「兄貴ぃぃ…………っ!」
兄は小さい頃から頼りになる存在ではなかった。だが、あの時の経験がこうして今になって俺の役立とうとしているのだから人生とはわからない。
「フワリみんなを」
「にゃあー!」
赤木家流霧払い。
俺は拳を弾き絞り、空を殴りつけた。手応えを感じる。高速で動く物体が空気の壁を破ることで発生するソニックブーム現象。これを利用すれば誰であろうと視界を遮る濃霧を吹き飛ばすことができるのだ。
「見ろ英雄、こうやって暴れまわればソニックブームで霧が吹き飛ぶんだぜ」
「すげえ、兄貴……!」
もちろんそんなこと出来るはずもなく、俺たちは暴れるだけ暴れまわって疲れ果ててしまっただけなのだが。
不毛な回想から意識が戻ってくる。
吹き荒れる風を感じながら、俺は突き出した拳をそっと戻す。
突き出した拳のさき、木々がへし折れ、地面がえぐれている。
湖周辺に広がるという湿地帯”ヴォールの濃霧”は、我が霧払いによってずっと向こうに押しやられて、遠目に見れば濃い雲壁のようであった。
おかげですっかり視界は晴れ渡った。
これで迷うこともあるまい。ありがとう、兄貴。
ふりかえると、フワリの毛並みのなかに姿を隠していた3者がぽかんとした顔でこちらを見つめて来ていた。
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