解放者

 身体を丸めて爆風から身を守る。

 激しさが収まって、顔を上げるとセイラムは息を呑んだ。

 夜空の星々のようだった。光が砕け散って金色の粒が降っている。

 一見して儚さすら覚える淡い粒の向こう側、闘技場の一方へ燻る炎で赤く熱せられていた。途方もない熱量に粗い砂はガラスに変わり、壁は砕け、溶けていた。


 指男は手を下ろしてリンゴをかじる。

 目を細め、背骨を伸ばし、首を傾ける。まるで薬物中毒患者が雀の涙ほどの白い粉を存分に堪能するかのように、あるいはワインソムリエが舌の上で葡萄の深みを調べるように、深く眉をひそめ「ああ……」と感嘆のため息をついた。


 恐るべき怪物クリムゾンオーガがどうなったのか、セイラムは聞こうと思ったが、すぐに愚問だなと開きかけた口を閉じた。衝撃の一幕と残された破壊痕を前にして、結末を想像できないわけがなかったからだ。


 衝撃の一幕を見ていたのはセイラムだけではなかった。

 地下闘技場にいた者たちが、崩落した天井の穴と降ってきた青年、闘技場の処刑者を無慈悲に破壊した爆発を、地下闘技場に来ていた野蛮な伝統に興じる貴族たちみんなが目撃していた。


「なんだ、今のは」

「何が起こったというのだ」

「黄金が破裂した……?」

「あの男が指を鳴らしたから?」

「あり得ない! あのクリムゾンオーガを、奴は指を鳴らすだけで壊してみたというのか……!?」


 ざわめきが大きくなっていく。

 貴族たちはクリムゾンオーガの脅威を知っていた。

 クリムゾンオーガは賢く、武器の扱いに長ける。戦闘という分野に関して言えば、正しく鍛えられたクリムゾンオーガは最大の脅威となり得る。

 人間の戦士では敵わない。生物として生まれ持った肉体が違いすぎる上に、戦闘技能まで修められれば、もはや人間の持つ優位性は失われる。ゆえに身体能力を押し付ける闘争術を収めていたクリムゾンオーガ・クリフは最強であった。


 そのことは貴族たちの間では周知の事実であった。

 クリフの主人にとっては、揺るがない自信と権威の象徴そのものだった。


 地下闘技場の特等席から一部始終を目撃していたギムレットは、訪れるはずのなかったクリフの死に動揺を隠せなかった。


(ど、ど、どういうことだ! 何ひとつ頭に入ってこない! なんで天井はいきなり崩れたんだ、なんでそこから妙な男が入ってくる、なんでこんなにタイミングがいいんだ、あとちょっとであの蒼い髪の生意気な娘を死に咲かせてやれたのに! なんでクリフは死んでる、なんでいきなり意味不明の爆発が起きた!? なんでクリフは死んでる、なんでクリフが!)


 ギムレットは頭を抱え「訳がわからん……!」と震えた声で言った。

 

「何がどうして、どういう過程を得て、今、私はこんな気分にさせられているんだ……!」

「ごく単純なことですよ」

「なんだと……?」


 ギムレットの隣にいたイカロニクは目をガン開きにして、闘技場の乱入者を凝視していた。イカロニクの心中にあったのはその圧巻の力への興味だ。


(あの男、指を鳴らした? 今の黄金の爆発がギムレットのクリフを粉々にしてしまった。凄まじいな。クリムゾンオーガを一撃で屠る能力だって? 英雄の位に近い。あ類は英雄なのか。超一級のマジックアイテム使い、あるいは高度なルーンの使い手なのは間違いなさそうだね。天井に穴を空けたのも彼かな)


「あの男が闘技場にやってきて、クリムゾンオーガを屠った。それだけが事実ですよ、ギムレット殿」

「そんなことは言われずともわかる! あの男は何者なのかわからないんだろうが!」


(確かに不明だ。何者なんだろうか)


 イカロニクは注意深く指男を見下ろす。


(蒼い髪の少女と話をしているようだ。知り合い? どういう関係だ。いや、そんなことはどうでもいいか。あの謎の男が蒼い髪の少女に友好的だとするならば、私の敵対者になる可能性がある。厄介なことだ。危険なことはしたくはないな)


 そんなことを思っていると、ふと、指男と目が合った。

 イカロニクは眉を顰め、さっと身を陰に隠す。


「ギムレット殿、あの男、こっち見ていますよ」

「なんだと!?」


 ギムレットはガバッと闘技場を見下ろす。

 指男はじーっと見上げてきている。視線を外し、セイラムと何かを話すと、彼女を半歩後ろに従えて、エリーの元で膝を折った。


 指男は注射器を取り出し、それを高速で使用した。

 速すぎて遠目に見ている者たちには見えていなかった。

 蒼い火に焼かれて以来ぐったりしていたエリーは、息を吹き返したように起き上がり、状況を把握できていない様子であたりをキョロキョロした。


「エリー、よかった! 生き返ったんだ!」

「セイラム……私は、なんでまだ生きて……」

「蒼い血の反動はなし、か」


 セイラムがエリーに元気よく抱きつくのを見届け、指男は指を鳴らして注射器をスキルで異次元に収納する。

 

 指男は先ほど、セイラムから地下闘技場で行われている非人道的な遊戯のことを聞かされていた。彼女がそれを許せないと思っていることも。彼女がそれに立ち向かったためにボロボロになっていたことも。

 指男はすべてを聞いていた。


「セイはとてもは勇敢だったんですね」

「師匠?」

「俺も勇敢でありたいと常々思ってるんです」

「師匠はいつでも勇敢ですよ、誰かを助けるために戦っているじゃないですか」


 指男は言葉を返さなかった。

 彼は魔導のアルコンダンジョンに足を踏み入れて以来、勝てる戦いだけを選んできた。

 自分にとって脅威にはなり得ない敵だとわかったから攻撃を行っているのだ。

 同時に異世界の面倒そうなことに関わらないようにしていた。

 セイラムは違った。勝てるとか面倒じゃないとか、シンプルなマインドの指男を凌ぐシンプルマインドによって彼女の正義を実行したのだ。


 指男はセイラムに眩しさを感じた。

 彼女の純粋さと自分は違うと認識していた。

 だから指男はセイラムの真っ直ぐな勇気に敬意を示したかった。


「そこの悪党、降りてこい。俺が相手をしてやる」


 声をやや大きくして指男はギムレットへ声をかけた。

 特等席で傍観を決め込んでいたギムレットはギョッとする。


 応じないわけにはいかなかった。ここには大勢の貴族の姿がある。貴族は舐められればおしまいだ。見くびられればおしまいだ。

 敵対的な存在に対しても、優雅に余裕を持って、優位性を渡さずに見事に対応して見せなければ求心力を失ってしまう。逃げることはできない。

 権威の象徴であるクリムゾンオーガのクリフが死んだ今、ギムレットはなおのこと厳格で堂々たる姿勢が求められた。


 ギムレットは破裂しそうな心臓を押さえ、噴き出る冷や汗を拭って、何から何まで未知数な青年へ向き直った。

 

「悪党だと? ずいぶんな口を聞くではないかね、馬の骨」

「降りてこい」

「貴様、誰に向かって口を聞いている。身の程を弁えろよ、無礼者」

「地下闘技場は今日で営業停止だ。エリーは俺が引き取る。すべての剣闘士を解放して、お前は……そうだな、死んでしまへ」

「めちゃくちゃ言うんじゃないッ!」

「あんたの弟だろう。話をつけろ」


 指男は指を鳴らす。

 ギムレットその他、その場にいた全員がビクッとして身構える。

 虚空から肥えた男が排出された。


「兄者!?」


 指男によってしまっちゃうおじさんされていたベルモットは、周囲をキョロキョロとし、ここが弟の管轄する地下闘技場であることを認識した。


「ベルモット、俺には願いを叶える権利があったはずだよなあ」

「そ、そうだな、第21回ミズカドレカ拳闘大会の王者はお前だ……」

「その願いを使おう。闘技場を終わらせろ。剣闘士をすべて解放しろ」

「い、いや、それは……! しかし、お前は最強、絶頂だ、強者こそ意見を通す道理があるのもまた事実! くっ! 私はどうすれば!」


 ベルモットは困った風に後退り、弟の方を見上げる。

 ギムレットは状況を察し、いくつかの思案を重ねた上で、ひとつ決断した。


「デンジャラスイヌ」


 ギムレットがつぶやくと闘技場の第3の扉である鉄門が音を立てて、噛み合わせの悪そうな鎖の機構で持ち上げられる、

 暗闇から黒い筋肉を誇る四足獣たちが姿を現した。

 隆起した筋繊維の筋すら見えるほどのバルクを誇る犬である。獰猛に牙を剥き出して、今にも襲いかかってきそうだ。


 全部で12匹おり、指男とセイラム、エリー、ついでにベルモットを包囲する形で取り囲んだ。


「ギムレット!?」

「兄者はくだらない性癖に逆らうことはできないでしょう。貴族の誇りとたかだか大会の優勝者。どちらが大事かも即断をできない」

「愚か者が! 悩むに決まっている! お前は強者絶頂原理主義のなんたるかをまだ理解できていなかったのか!」

「理解している者などいませんよ。兄者以外は」

「だにい!?」


 ベルモットは闘技場に遊びにきている貴族みんな同じ性癖を持っていると勘違いしていた。実の弟でさえ、普通に少女主義なだけだとも知らなかった。


「皆様、私は貴族の誇りを守ります! 愚鈍な兄と無礼な侵入者たちの処刑ショーとまいりましょう! さあゆけ、デンジャラスイヌどもよ!」


 戦闘特化犬種が一斉に襲い掛かる。


 ベルモットは喉をひきつらせ、悲鳴をあげた。デンジャラスイヌの恐ろしさを知っていたからだ。戦等級100をくだらない集団で狩りをするハンターだ。クリムゾンオーガであろうと、12匹もの群れを相手にすれば勝機はない。


 エリーもまたデンジャラスイヌを知っていた。

 何度も噛まれ、体に穴を開けられた経験があったからだ。

 怯えて、思わずセイラムに抱きついていた。


 セイラムはエリーを優しく抱きしめた。

 心配などこれっぽっちもしていなかった。


 指男は「犬までマッチョなんだな」と呟き、ステータスを開くと、ぽちぽちいじり始める。


 ギムレットはなす術ない一行を見て、ニヤリと笑みを深めた。


(そうだろうとも! あれほど強力なルーンだ! クリムゾンオーガを屠るだけの威力を発現させれば、脳みそを焼き切るような痛みで、ルーンは疲弊するだろうさ! 私の読み通りだ! あの男は一撃の攻撃力こそ脅威だが、それだけなんだ。見たところ武装もしていない、やつは生粋のルーン使いでありながら、それを使い果たした! 愚かなり!)


 指男が地下闘技場が崩れかかっていることを危惧したおかげで、ギムレットの精神的優位性は4秒間だけ保つことになった。

 

 指男が「恐怖症候群、犬に意味あるかなあ」と実験的にスイッチをオンにした瞬間、デンジャラスイヌたちは弾丸のような速度で翻って、指男から一斉に離れた。


 そのままクリムゾンオーガを屠る際にできた闘技場の崩れた壁から這い出て、観客の貴族たちを襲い始めた。

 デンジャラスイヌは狂っていた。生物的本能では絶対に敵対してはいけない相手に襲い掛かろうとしている矛盾によって、恐怖に発狂していたのだ。


「や、やめろおお!!!」

「ぎいやあああ!!」


 少女部門に出資していた貴族たちの悲鳴がそこらじゅうでこだまする。

 阿鼻叫喚の地獄のなかで指男はそっと恐怖症候群をオフに戻した。

 

「ん?」


 指男は周囲を見やる。

 セイラムもエリーもベルモットも皆が気絶していた。

 突然、隣に出現した超越者のオーラによって本能が気絶を選んだ結果だった。


 恐怖症候群の影響は至近距離だけではとどまらない。


 指男を凝視し明確な敵意を向けてしまっていたギムレットは、全身に震えに感じ、心臓がギュッと握られているような強烈な不安に駆られた。

 立つこともままならなくなり、気分が悪くなり、嘔吐し、その場にいることができなくなった。逃げ出した。


「ひい、はあ、はあ、はあ! なんだあいつ、なんなんだ、アレは!!」

「グルルぅ……」


 逃げ出した先、暗い狭い通路で、筋骨隆々な黒い犬たちと出会った。

 剥き出した牙には肉と血がこびりついている。

 

「デンジャラスイヌ……ま、待て、何をしている、近づいてくるな! 来るなと言っているのだ! なぜ私の命令が……ひああああ、やめろおおおッ!!」


 ギムレットにはもう、狂った獣たちを支配することは出来なかった。

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