記録に残らない英雄



 微睡からの浮上は、湯船を揺蕩うのと似ている。体温と外界の温度が同じなせいか、身体の輪郭が不鮮明になる。

 覚醒と眠気のなかでは、やわらかいおふとぅんのぬくもりが湯船のそれと似ているのかもしれない。


 イ・ジウは益体のないことを考えながら、白いシーツに横たわり、せわしなく動いている医療従事者たちの姿を脇目にする。


 しばらく彼女はそうしていた。

 目を覚まし、自身がベッドに横たわっているところまではすぐに理解した。

 脳裏にあの恐ろしい景色が思い起こされると、フッと全身の力が抜けた。


 死と呪いが蔓延していた暗黒の世界にくらべ、おふとぅんの柔らかさは、あまりにも平和にすぎた。


 ジウはこの平和が幻ではないことを確かめるように、あるいは疑うように、経過観察をしていたのだ。

 もしかしたら自分はまだあの闇のなかにいて、ふとすればこの光景に亀裂が入って、おふとぅんすら奪われてしまうのかもしれない。


 そんなことになれば、自分へのご褒美に買ったホールケーキを目の前で奪われるのに等しい絶望に襲われ、きっと正気を失くしてしまう。


 だから、ジウは「……。引っかかる訳にはいきません」とあくまで懐疑的な姿勢を貫いていた。


「ジウちゃん、おはようございます。起きていたんですね」


 声に視線をやると見慣れた女の子がいた。

 赤い髪はゴムで束ねられ、ポニーテールがふりふりと揺れている。灰色の受付嬢の制服がよく似合っている。豊かに双丘のうえには真っ赤なブローチが爛々と輝いていた。

 ダンジョン財団外海六道。

 そのなかで特別に謎多きスーパー受付嬢・修羅道である。


 修羅道はベッド脇に来ると「よいしょ」と、どこからともなくホールケーキを取りだす。

 ジウは「……。今ベッドの下から取り出しませんでした?」とジトッとした眼差しを向けるが、生クリームといちごがトッピングされた甘美なる見た目のケーキを見れば、そんなことは些細な問題となった。

 修羅道が訳わからないのはいつもの事なので、気にしていては身が持たない。


「半分こです!」


 修羅道はホールケーキへナイフを差し入れる。

 なお、円の中心線を捉えきれておらず、8:2くらいの体積比になってしまっている。

 ジウが(……。絶対に2のほうが私ですね)と思っていると、修羅道は手元をぷるぷるさせて8のほうをジウへ渡して来た。


「は、はやく受け取ってください……! 天晴れな働きをしたジウちゃんのために、私は断腸の思いでこれを譲るんです……!」

「……。では、ありがたくいただきます」


 修羅道の凄まじき覚悟を受け止め、ジウはケーキにフォークを入れてもぐもぐと味わい始める。甘い。美味しい。うまい。


「……。修羅道さん、いったい何があったんですか」


 ジウはもぐもぐしながらたずねる。

 

「……。私はなにもできませんでした。ただ傍観者であっただけなんです。ダンジョンのことをとっくに理解ったつもりでしたが、暗黒の世界で、私はただ弱かった」

「そんなことありませんよ。ジウちゃんはよく頑張ったと思います!」

「……。修羅道さん、私はどうしてこんなところで寝ているのでしょうか」


 ジウはたずねる。

 修羅道はことの経緯をジウに話しはじめた。


 千葉クラス4ダンジョンの15階層付近で起こった珍事件は、地上のダンジョン対策本部をおおいに混乱させた。

 ジウが『暗黒通信師』を介してダンジョン内で大きな揺れがあったことと怪しい白装束の者──銀色の信徒に襲われたことを報告したのを最後に、ダンジョン内補給拠点との連絡は途絶えた。

 地上キャンプが探索者を募集し、14階層と15階層を繫ぐ階層間階段を調査するべく乗り込んだところ、道中で地上へ攻撃をしかけに来た銀色の信徒たちと交戦した。

 幸いにして『歩くファミリーレストラン』によって、危険な信徒たちは無力化され、拘束された。

 このことは財団に要注意団体がおおきな儀式を行った可能性を考えさせた。


「そこで私が抜擢され、いざ乗り込もうと思ったところ、赤木さん、いえ、指男さんが出て来たんです」

「……。っ、それは、どういう意味でしょうか……」

「世界に10点しかない異常物質を使って空間を繫げて、皆さんを外へ連れ出してくれたみたいですよ」

「……。そう、ですか……。彼は本当になんとかしたんですね」


 絶望のなかでか細い糸を掴んで離さなかった。

 否、あるいはそれすらも指男には見えていたのかもしれない。

 彼は皆で脱出することなど、とっくの前提で動いていたのだ。

 巨塔の深層へひとりで向かってしまったのも、超常的な怪物にひとりで立ち向かったのも、あらゆる可能性を計算しつくしたうえでそれが最善だとわかっていたからなのだろう。


 そして、見事に彼はすべてを助けてしまった。


「事の経緯はほかの方々まるっと含めて事情聴取済みです。もちろん、ジウちゃんがよく頑張ったことも聞いてますよ。誰ひとりとして死者を出さず、挙句、クラス4ダンジョンとアルコンダンジョンからなる”ダブルダンジョン”を攻略してしまうなんて、驚愕の功績です。まさしく天晴というやつですよ」

「……。この攻略の誉はすべて指男さんのものですよ。修羅道さんもわかっているのではないですか」


 ジウはごく冷静につぶやいた。

 修羅道は表情を変えず、ひとつ咳払いをして続ける。


「救出された探索者のうち、いったい何人が赤木さんのことを覚えていたと思いますか」

「……。赤木さん、ですか?」

「指男さんの本名は赤木英雄さんです」

「……。赤木英雄」

「ジウちゃんはずっと耐性があるほうです。さっきの質問の答えです。救出された探索者のうち赤木さんの姿を覚えていたのは、ただの6人だけでした。残りの50人余りは赤木さんがあの攻略に参加していたことすら覚えていませんでした」


 昏睡状態のジウが目覚めるまでの数時間の間に、修羅道は地獄道から聞いていた指男ミームの影響力を個人的に調査していた。

 結果としてその驚異的な威力が白日の下にさらされた。

 修羅道はそのことをジウに簡潔に説明した。


「……。ミームの汚染ですか」

「地獄道ちゃんいわく、ですけどね。赤木さんは可哀想な人なんです。誰にも覚えてもらえず、覚えてもらっても思い出は失われ、記録は無自覚の犯人によって改竄・消去されます。この現象を克服するのはとても難しいです」

「……。タケノコのような影響力ですね」

「はい。ほとんどタケノコです」

 

 修羅道は「はあ」とくたびれた風にため息をついた。

 

「だから、ジウちゃんは数少ない友達でいてあげてください!」

「……。友達、ですか」

「はい! 友達です! それ以上の関係は敵とみなします! ハンマーでこうっ! ってしちゃいます!」

「……。それは確実に事案ですね。ふむ、しかし、なるほど。修羅道さんがライバルでしたか。これは骨が折れそうですね」

「え? あ、ちょ、も、もしかして、本当に赤木さんのこと狙ってるんですかっ!? そんなのだめですっ! 絶対に許しませんよっ! こうですからねっ! こうっ!」

「……。どうでしょう。まだ私はなにも言っていませんが」

「顔が乙女になってます! だめですよ! 本当にだめです! ずっと前から私は予約済みですっ! 10年選手です! だからだめですっ!」


 ジウは澄ました笑みをうかべる。

 修羅道はいつの間にかライバルが出現していることに焦燥感を煽られていた。

 油断していた隙に物事はおおきく動いていたと理解したのだ。


「……。それはさておき、代わりの功労者に私が選ばれた理由はわかりました。わざわざお伝えしてくれてありがとうございます、修羅道さん」

「まったくジウちゃんは謙遜が過ぎますよ。頑張ったのは本当じゃないですか。……でもまあ、確かに表向きの記録ではミスターやそのほかの高位探索者さんたちの功績とされてしまいますね」

「……。やっぱり」

「ふふん、でも問題はないです。彼のことは私が覚えていますから。ミスターだって、ほかの覚えている方々だってそれは同じです。もちろんジウちゃんも」


 修羅道は立ちあがり、お皿を片付けはじめた。


「赤木さんのことは私たちが記憶していればいいんですよ」


 修羅道は「それじゃあまた」とニカっと明るい笑みをジウへプレゼントすると、すたこらさっさーと医務室を出て行った。


「……。記録に残らない英雄、ですか」


 ジウは彼の顔を脳裏に描く。


「……。本当によかったです。指男さん、あなたのくれた奇跡を覚えていられて」


 ジウはつぶやき、ポフンっとベッドに身を沈めた。

 彼女の心はもう安泰だ。




 ────



 ──赤木英雄の視点


 

 怪我人を医務室へ放流したら、キャンプがめっちゃ慌ただしくなりました。

 しばらく、キャンプ内で待機するように言われたので、どうにか時間を潰さなくてはいけません。


 幸いダンジョンキャンプの外郭にはサイゼリヤがあります。

 マルゲリータと極上の白ブドウソーダで一服しようかな。

 

 三角形の1ピースを、折りたたむように頬ばると生地の薄さを感じない満足感が味わえます。うーん、エクセレント。


「ちーちーちー」

「シマエナガさんもマルゲリータ食べますか。はい、どうぞ」

「ちーちーちー(訳:辛味チキンが食べたいちー)」


 シマエナガさん、それは鳥としての道徳に反するのではないですか。大丈夫ですか。


「ぎぃ」

「ぎぃさんはマルゲリータ食べますよね。はい、あーん」

「ぎぃ(訳:私はエスカルゴのオーブン焼きでいいですよ、我が主)」


 みんな背徳者じゃけぇ。

 

「きゅっ」

「匂いたつなぁ……どうせハリネズミさんも獣になるのでしょう? ネズミの丸焼きが食べたいとか言うんでしょう?」

「きゅっ!(訳:我はコーンクリームスープが飲みたいっきゅ!)」


 かあいい。唯一の良心です。

 ハリネズミさんはいつまでも良い子でいてください。


「ちーちーちー」

「ぎぃ」

「きゅっきゅっきゅっ」


 共食い勢を横に、ちびちびとコーンクリームを飲むハリネズミ。

 なんだかテーブルのうえがやたら賑やかになって来ました。


 しばらく後。

 ソフトドリンクだけで4時間ほど粘る高校生みたいなことをして、アマプラでアニメを見ていると、スマホの充電が切れてしまった。

 

 先にスマホが死んでしまっては仕方ない。

 

 お会計を済ませ、サイゼリヤを出ると、外は暗くなり始めていた。

 

「ちーちーちー」

「ぎぃ」

「きゅっきゅっ」


 シマエナガさんは胸ポケットに。

 ぎぃさんは右袖のなかに。

 ハリネズミさんは左外ポケットに。


 熱源を体のいたるところに感じながら、ダンジョンキャンプの内郭に戻ってくると、対策本部の受付に修羅道さんを発見した。


「こんばんは、修羅道さん」

「赤木さん、こんばんはです! すこし手が空いたので今なら査定できますよ!」

 

 では、さっそく。


 ───────────────────

 今日の査定

 ───────────────────

 ちいさな宝箱 20,000円

 ちいさな宝箱 20,000円

 宝箱 100,000円

 宝箱 100,000円

 特別に大きな救世のボスクリスタル 31,253,210円

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 合計 31,493,210円


 ───────────────────

 ダンジョン銀行口座残高 31,621,636円

 ───────────────────

 修羅道運用       1,070,245,582円

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 総資産         1,101,867,218円

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 今回の収入は3,160万円くらいでしたね。

 救世ダンジョンのボスクリスタルしか手に入れられなかったけど、もしかしたらちゃんと探せば銀色ダンジョンのボスクリスタルもあったのかもしれません。

 そう考えるとちょっと探索が足りなかった感はあります。


 総資産は11億円を越えました。

 実際はクリスタルの山が経験値工場を動かすための資源として、あの薄湖に鎮座しているので12億くらいはあるかもしれません。


「赤木さん、ボスクリスタルをひとりで獲って来てしまうなんて本当に凄いですね!  クラス4とアルコンの同時攻略! 前代未聞の歴史的な攻略となりました! 赤木さんの活躍を考えれば探索者としてのランクを大きく伸ばすことができると思います! 後日、連絡が行くと思いますので楽しみにしていてくださいね!」


 修羅道さんはそう言うと「ところで、赤木さん」と改まった調子になった。

 

「なんですか、修羅道さん」

「『アドルフェンの聖骸布』がかなり痛んでいると思いますよ。そこまで壊れては耐久性に問題が出ていると思います」

「あ、そうなんですか? てっきり服を溶かすスライムの攻撃にも耐えたから異常物質アノマリーは壊れないものかと思ってました」

「まさか。壊れる時は壊れちゃいますよ。こちらで修理をしておきましょうか?」

「ぜひお願いします」


 俺はコートを脱いで、修羅道さんへ渡そうとし……ふと、思いとどまる。

 あれ、ポケットに色々入ってたなぁ……。


「赤木さん?」

「いや、やっぱり、いいです。これくらいのほうが味があって、好きですから。ほらダメージジーンズ的な、ね」

「むむっ!」


 修羅道さんが身を乗り出してきて、俺の頬をぺろんっと舐めた。


「この赤木さんは嘘をついている赤木さんですね!」


 汗を舐めたわけじゃないのに嘘がバレただと。


「そのコートを寄越してくださいっ! チェックします!」


 まずい、修羅道さんが受付カウンターを乗り越えて来た。


「い、嫌です、手を離してください!」

「うわあ! 赤木さん、とっても力が強くなりましたね!」


 コートを引っ張り合いする。

 地面にお互いの足が深く埋まる。


「でも、それじゃあ、まだまだですよっ!」

「なっ?!」


 修羅道さんがニコッとし、一瞬だけキリっとした途端、俺は大空へ舞っていた。

 宙を回転しながら、修羅道さんがコートのポケットを改めているのを見ている事しかできなかった。

 足から着地して、急いで『アドルフェンの聖骸布』を取り戻しにいく。


「あーっ! 増えてるーっ!」


 修羅道さんはむぎゅっとハリネズミさんを捕縛して、頬を膨らませて「これはどういうことですか!」と説明を求める表情になっていた。


 一歩遅かったようだ。

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