べンヴェヌートの災難


 

 研究機関『ノルン』はドーヌッツの加筆の影響で稀に見る騒々しいさに包まれていた。各国から集められた研究者たちは、加筆の分析に奔走し、ユーロ他ダンジョン財団本部との連携をとり、ドーヌッツ級の危機がいったいどこに現れたのかをあぶり出そうとしていた。


 そんななかでもマイペースを崩さないのが、べンヴェヌートという男だ。

 整えられた顎鬚をしごき、あてがわれたオフィスでドーヌッツの分析を行う。

 1時間ほどで大方の解読を終了すると、ふらりとどこかへ姿を消してしまう。皆が忙しいのに、暇とでも言わんばかりにぶらつかれるのは存外に目につく。

 これが普通の研究員なら、叱責のひとつでもされるのだが、彼は類稀な能力を買われJPAから招致された(あるいは抜かれた)特別な存在だ。旧迷宮語の専門家であり、ノルンの転移部部長という肩書きも持っている。そうそうに口を出せる者はいない。


「べンヴェヌート男爵」


 それは心地よい日差しの昼下がりのこと。

 べンヴェヌートがノルンを抜け出し、個人的な調査のために5時間ほどの早退を選んだところ、古茶けたローマ建築が並ぶ路地裏で、その女性は声をかけてきたのだ。建物の壁に体重を預け待っていた。


 腰のキュッと締まった小麦色の肌の少女だ。

 年は若く、20歳かそこいらに思えた。

 

「どうして俺の名前を知ってるんだい、お嬢ちゃん」


 べンヴェヌートは気さくに問う。

 視線は少女の豊かに実った胸元へ注がれている。服からわずかにはみ出す横乳に釘付けだ。


(なんてえろい乳してやがる!)


 ベンヴェヌートは健全な男であった。


「男爵はとても有名な方ですから。『ダンジョン学会の四皇』と呼ばれているとか」


 少女はそう言いながら、腰のしなを作ってべンヴェヌートへと歩み寄る。

 べンヴェヌートは優美な曲線に視線を吸い寄せられながら「いや、それほどでも」と上機嫌にかえした。


「まわりが勝手に言ってるだけさ」

「そうなんですか?」

「俺はダンジョン学会の権力闘争に興味なんてまるでないんでね」

「そのわりには嬉しそうですけど」

「そう思うかい?」


 そろそろいい歳であるが、まだまだ男として現役だ。


「試してみてもいいですか、男爵」


 少女は吐息を混ぜた声でべンヴェヌートの首裏に手をまわそうとする。


「もちろんさ、お嬢ちゃん」

 

 応えるべンヴェヌートは準備完了だ。

 だが、一握の違和感によって、わずかに唇をためらった。

 

(この女の子、どうして俺がここを通るって知ってたんだ……? いつもより早く帰宅してんのに……)


 そんなことを思った直後だった。少女はべンヴェヌートの首裏にまわした手で彼を掴むと、背後にまわり、華奢な腕では考えられない力で一気に気管を締めあげたのだ。


(っ、この娘……!! なんて腕力だ……!!)


 べンヴェヌートはその一瞬に常人離れした反応をし、サブミッションから逃げようとするが、少女の動きが速すぎて回避はできなかった。ならば、と彼は懐に隠し持っていたデバイスを起動した。


 デバイスは果物ナイフを改造してつくった護身武器である。

 刃渡り10cmほどで、握り手に蒼い石が埋め込まれている。

 べンヴェヌートはナイフを重力に任せて落下させた。


 このナイフ──蒼石そうせきナイフはユーロダンジョン財団が誇る転移技術の結晶体である。

 蒼い宝石が輝くと、その瞬間、落下していたナイフは足元で姿を消した。

 鋭い刃は空間を越えて移動し、今まさにべンヴェヌートを締めあげている少女の頭上に出現した。


「っ」


 少女はナイフの瞬間移動に勘づき、避けようとする。

 だが、すこし遅かった。ナイフは彼女の肩口を浅く斬り裂いた。

 ダメージは大したことはないが、牽制には十分だった。べンヴェヌートは蒼石ナイフでつくった隙に少女の腕から逃れることに成功した。


「お嬢ちゃん、てっきり俺に惚れてるのかと思ったんだけどな」

「こんな枯れて汚れたおじさん、消費期限切れもいいところでは」

「おいおい、傷つくじゃないか」


 べンヴェヌートは言いながら、蒼石ナイフを手元に瞬間始動させて取り戻し、それを今度は投げつけた。

 少女は軽く首を振って刃をかわす。直後、少女の健康的な太ももに深々とナイフが刺さった。

 

 べンヴェヌートはスンっと真顔になると「直接体内に送り込まなかっただけ感謝しな、お嬢ちゃん」と、もう一本の蒼石ナイフを取り出して、彼女に見せつけた。


 言外に「いつでもお前を殺せる」と、べンヴェヌートは言っているのだ。

 少女はその意味がわかったのか、わかっていないのか、蒼石ナイフに手を伸ばして、刺さっているソレを抜こうとする。


「おい、口で言わなきゃわからねえのか。おじさんちょっとばかし、文学的な表現使いすぎちゃったか?」

「想像以上でした、まさかこんな正確に二点間転移を使いこなせるなんて。なるほど、どうりであなたの誘拐に私が選ばれたわけです」


 少女は蒼石ナイフを抜いて、ポイっと捨てる。

 ナイフは地面に落ちる前に空間を越え、べンヴェヌートの手元に戻って来た。


(ナイフに使用されている蒼石は俺の脊髄神経を培養し、凝固させたもんだ。普通の製法じゃないから、直観的な速さと、肌感覚の正確さをだせる。視界内にいさえりゃ、どこにでもナイフを飛ばせる自信がある)


「それはスキルというわけではないようですね。あなたは探索者だと言うのに」

「生憎とスキルに恵まれなかったんでね。そういうお嬢ちゃんはずいぶんと高めた探索者だろう? Cランク、あるいはBランク。検索すれば一発で出てきそうだ」

「いいえ、違いますよ、男爵。私は探索者じゃないです」

「嘘言え」


 べンヴェヌートはナイフを放り投げる。

 

(もう片方の足も壊しとくか。あーあ、もったいねえ、えろい太ももなのによ)


 そんなこと考えながら、空間を飛ばして、蒼石ナイフを突き刺そうとした。

 だが、ナイフは空中をくるくる回っていくだけだ。瞬間移動してくれない。

 

(っ、ナイフが”飛ばない”だと!?)


 べンヴェヌートが動揺した直後だ、彼の顔面が大きく弾かれたのは。

 経験したことのない未曽有の打撃に、意識が真白んでいく。

 ふわっと浮いて硬い床に叩きつけられた。

 なにがなにやらわからないまま、べンヴェヌートの意識はフェードアウトしていく。


 最後の視界の中、少女は蒼石ナイフを指でいとも容易くへし折って「おもちゃで人は殺せない」とつぶやいていた。


(ナイフを飛ばしたはずなのに……)


「助かりました。もしかしたら、私一人では失敗していたかもしれません」

「ついてきてよかった。あなたに失敗されたら計画に支障が出ますから」


 少女のとなりで倒れたべンヴェヌートをのぞきこむ顔には見覚えがあった。

 細身で、どこか頼りない、されどいつも慌ただしい青年。べンヴェヌートの助手のブルーノであった。



 ────



 べンヴェヌートは硬い地面の上で目覚めた。

 ごつごつしていて、苔の香りが溶け込んだような湿った空気が充満する部屋だった。肌寒く、嫌な感じの場所だ。

 

「ここはどこだ? ……痛っ」


 全身を襲う生々しい痛みに思わずビクッとする。鈍痛から察するにローマ市街で謎の美女にぶん殴られてからさほどの時間は経過していないようであった。


「何が起こってんだ? あのお嬢ちゃんに、ブルーノの野郎……。俺はなにかとんでもない陰謀に巻き込まれてるのか?」


 べンヴェヌートは立ち上がり、あたりを見渡した。

 暗くて狭い部屋だ。机と椅子が端っこに置いてあって、金属製の重厚な扉が入り口となってるらしい。ひと眼見ただけで「貴様を部屋から出す気はない」と武骨な扉は雄弁に語る。


 机のうえにはPCと紙が何枚か置いてあった。

 そこには旧迷宮語がずらりとならんでいた。

 ペンと白紙のメモ用紙もあった。

 メモ用紙の一番上には「指示書」と書かれた手紙が添えられていた。


「『おはよう、べンヴェヌート男爵。君にはこの文献の解読を依頼したい。我々はあなたに危害を加えるつもりはない。あなたが我々の良き協力者であること期待する』……良き協力者、とね」


 あまりにもひどい言い分に、べンヴェヌートは手紙を丸めて放り捨てる。

 持ち物は服以外すべてを奪われていた。頼みの綱はPCだが、どうにもネットに繋がっていないようだった。当然と言えば当然であるが。


「イントラか。解読したらエディタで打って解答を送れってことか?」


 PC内のアプリケーションを見て、監禁者の意図を察するべンヴェヌート。深くため息をつきながらも、旧迷宮語で書かれた文献に視線を落とす。


「やつらに解読内容を教えるかどうかは別として……内容は気になるな」


 自分がいったいなんのためにこんな目に遭っているのか。

 その理由が目の前にあるのだ。

 

 べンヴェヌートは持てる知識を動員して、文献の解読をはじめた。


「しかし、ここは暗いな。それになんだかおかしな霧があるし……」

 

 顔を近づけなければPC画面が見づらいほどに、濃いもやで満たされている。

 謎の状況に謎の環境。不安は募る一方であった。


 

 ──しばらく後



 耳をつんざくとてつもない破壊音に、べンヴェヌートは驚愕していた。

 PCに向かい、文献を解読を進めていたところ、突如として空気を震わせ、部屋全体にミシミシと亀裂を走らせるような大爆発の衝撃が伝わって来たのだ。


 インパクトで部屋の金属扉は蝶番が弾け飛び、その破片はべンヴェヌートの鼻先をかすめた。

 思わず腰をぬかすべンヴェヌート。振り返れば壁に蝶番が突き刺さっている。

 当たれば死んでいただろう。この時ばかりは幸運を明確に感じていた。元より、”運命力”とはダンジョン学では実在すると証明されている。


(元から運はいいほうじゃねえ。誰かの幸運が俺を救ってくれたか……)


「助かったぜ……しかしもう勘弁してくれよ……」


 べンヴェヌートは冷汗をぬぐって立ちあがる。


 ふと、何者かがひしゃげた扉の外側にやってくる気配がした。

 思わず息をひそめるべンヴェヌート。見つかってはいけない気がしたのだ。


 金属扉が押し開けられる。

 向こうから顔をのぞかせたのは怪物だった。

 黒く湿った有機的な質感を持つ人型モンスターであった。

 

「はぁ……帰りてぇ……」


 べンヴェヌートは死を覚悟する。

 されどタダでやられるつもりはない。

 べンヴェヌートは椅子を持ち上げ、武器とすると「おら、かかってこいよ」と勇ましく吠えた。

 

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