第17話
老人ホームの一室。
かつては、医務室として使われていた、薄暗い部屋。
「はぁ……」
重い溜息が漏れる。
鬼塚佳代は、憂鬱だった。
――光野とかいう男がやってきてから、数週間が経つ。
その間に、川中島コミュニテイの生活はすっかり様変わりしていた。
祈りの塔の建設以来、皆こぞって神を信仰し始めたのだ。口を開けば神、神、神。食事の席では必ず神に感謝の祈りを捧げ、あいさつも妙な祈りの言葉とやらに変えられた。
もはやこのコミュニティ内で、エファアシーン・ジウラを信仰していないのは鬼塚だけだ。大人から子供まで、鬼塚以外の全員が『敬虔な信徒』となり、暇さえあれば常に祈りを捧げている――
ハッキリ言って、異常だと思った。
最初は鬼塚も、意固地になっていたのは否定できない。幼い頃のトラウマのせいで、どうも宗教というものが生理的に受けつけないのだ。だから『これは皆のためだ』『有用なものだ』と頭ではわかっていても、なかなか受け入れられなかった。
そうしている間に、一人、また一人と『神の光を灯して』いき、鬼塚だけが残った。……一人、残された。
最近、皆と話が合わない。明確に価値観がズレてきている。なにを話していても、二言目には必ず『神』が来るのだ。優しい神。偉大なる神。鬼塚にとっては、忌々しい神。
だが、どんな文句を言おうとも、その神の奇跡とやらで培養された作物や肉を、食事に出されたら食べるしかない鬼塚は、ただの道化なのかもしれない。
この宗教は非常に厄介だった。なにせ嘘偽りない、圧倒的な実益がある。作物を育て、傷を癒やし、『奴ら』に対抗する武器にさえなる。
だが悲しいかな、そうであるがゆえに、鬼塚はさらに抵抗を感じてしまう。
――この医務室を、誰も訪れなくなって久しい。
皆、不気味なほど健康になったのだ。医薬品も、鬼塚の知識も、何も必要とされなくなってしまった。常日頃から体の節々が痛むと言っていた年配組も、近頃は若返ったかのようにピンピンしている。
そして万が一、怪我をしたり体調を崩したりしても、皆がまっさきに頼るのは光野だった。
それはそうだろう。怪我は全て傷一つ残さず治癒し、体調不良もまたたく間に治してしまうのだから。神の奇跡の前に、人類が積み重ねた医学など塵芥に等しかった。
だが、そのたびに思う。自分の今まではなんだったのだろうと。専門学校に通い、知識を身につけ、様々な経験を積んで培ってきた技術。それらを全て――否定された気分だった。
役に立つ、立たないどころではない。誰も彼も、興味のかけらすら失ってしまった。医薬品の棚に積もった埃が、ただただ虚しい。だから鬼塚はふさぎ込む。
孤立感に耐えられなくなって、神への祈りとやらも試してみたが、無駄だった。
そもそも、恩恵に与りたくて仕方なかった佐山が、本気で取り組んでも二、三週間は要したのだ。心の奥底で拒絶したままの鬼塚が、神に祈りなど届けられるはずもなかった。
だが、それはそれで良かったのかもしれない、と最近は思い始めていた。
この信仰に対し、ずっと気味が悪いという印象を抱いていたが、先日、それが間違っていなかったことを確信したのだ。
ちょうど子供たちが神の恩恵とやらに目覚めて、数日が経ったときのことだ。鬼塚が中庭を通りがかったとき、子供たちが立ったまま祈りを捧げているのを見かけた。
思うところがなかったわけではない。だが信仰は個人の自由だと思ったし、光野がもたらした教えは憎たらしいほどに実益がある。そのまま、何も言わずに素通りしたのだ。
だが、何時間か経って再び中庭を通り過ぎたとき、ゾッとした。
子供たちが、みじろぎ一つせず、そのままの姿勢で祈り続けていたのだ。
胸のあたりに脈動する光を灯しながら――いくら祈りが大切だからといって、遊びたがりの年頃の子供が、そんなに修行を続けられるものだろうか? 強制されていたわけでもないのに。
それとも、そうして祈り続けてしまうような『何か』が――もう、あの子たちの中に根付いてしまったのだろうか?
あの日以来、子供たちが少し不気味に思えてしまって仕方がない。
いや――子供たちだけではなかった。最近は自分以外の全員が不気味だ。顔をまともに見て喋れない。
みんな同じような顔をしている。
負の感情を削ぎ落とされたかのように。
判で押したような穏やかな笑みを、常に浮かべている。
別に表情が穏やかなのは良い。少し前のように、皆がピリピリとしていた時代に比べれば、歓迎すべきことなのだろう。
だが、全員が、全く同質の笑みを浮かべていることに気づいたとき、それは本能的な恐怖に変わった。
穏やかさが、感染している。
それが一人や二人のときは、異常に気づかなかった。だが食堂で全員が一堂に会したとき、全員が全く同じ笑顔を、全く同じタイミングで浮かべて、一斉に神に祈り始めたとき、鬼塚は悲鳴を上げそうになった。
異常だ。どう考えても。
信仰によって、彼らは力を得たが。
鬼塚からすると、彼らは、代わりに『何か』を失っている。
いや――わかっている。全てわかっている。自分がただ恐れて、拒絶しているだけだということは。自分もこの教えに染まれば、きっと楽に、幸せになれるのだろう。
だが、それでも、生理的に受けつけない。今の自分を失いたくない。
これは自分のアイデンティティだ。彼らを不気味に思う心を喪ったとき、それを、今までと同じ自分と呼べるのだろうか――?
「はぁ……」
診察用のソファに身をうずめて、鬼塚は溜息をつく。
近頃は本当にやることがない。食事のとき以外、他者と話す機会さえなくなりつつある。皆、見張り以外は基本的に祈ってばかりだ。老人ホームもひっそりと静まり返っている。
孤独――だった。
――いや。
ぽろん、ぽろろん、とギターの音が聞こえてくる。
「これは……」
小牧ちゃん、とその名を呼ぶ。
この拠点の中で、ギターを弾く人といえば小牧しかいない。
小牧玲奈。光野との第一遭遇者。そして屈指の『信徒』。
昔は明るくて軽妙なノリの付き合いやすい子だったが、今は――
彼女の祈りを『気持ち悪い』と言ってしまって以来、鬼塚は気まずさを引きずっていた。
「いや……でも……」
ギターを弾いている。昔のように。
ただ、それだけのことに惹かれて。
ふらふらと、鬼塚は部屋を出た。
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