第4話


とある老人ホームの屋上。


「みんな遅いねー」


「ねー」


 手すりに寄りかかった子供たちが、じっと橋の向こうを見つめている。


「こらこら、危ないから、柵にもたれるのはやめておきなさい」


 その横で、薪ストーブに木の枝をくべながら、老人が優しく注意した。


 はぁい、と気のない返事をした子供たちが、落下防止柵から離れる。不安げな目を橋の方へ向けたまま。


「……冷えてきたな」


 手を擦りながら老人は空を見上げた。先ほどから茶を淹れようと、ヤカンを火にかけているのだがなかなか沸騰しない。


 日は傾き、空は茜色に染まっている。こんなにきれいな夕焼けを拝むのは久しぶりのことだったが、空模様を楽しむ心のゆとりは、今はなかった。



 今朝、六人の若者が拠点を発った。



 目指すは、ここから車で三十分ほどの商業区。目的は食料や医薬品などの回収。


 商業区は大量の物資が残されている代わりに、『奴ら』の数も多いハイリスク・ハイリターンの危険地帯だ。今までは安全性重視で『奴ら』の少ない郊外などを探索していたが、めぼしい場所はほぼ漁り尽してしまった。


 食料も医薬品も、底をつきつつある。他でもない若者たち自身が、背に腹は代えられないと主張し、危険を承知で出発したのだ。


 そしてその帰りが、遅い。


 日が沈むと『奴ら』の動きが活発になるため、夕方には戻ってくるはずだった。予定の時間を過ぎつつある。何かトラブルがあったのか。それとも――


「……ねえ、佐山おじいちゃん。みんな、帰ってくるよね?」


「帰ってくるよね?」


 子供たちが振り返って、とうとう尋ねてきた。


 老人――佐山さやま由夫よしおは一瞬、言葉に詰まる。これまでにも何回かこういうことがあった。物資回収班の帰りが遅れたことも。そして、二度と再び帰ってこなかったことも。


「……もちろん。きっと大丈夫だよ」


 佐山は、どうにか微笑んで頷く。


 信じるしかない、という想いがあった。こんなあやふやな言葉で、子供たちの不安をぬぐえないことはわかっている。他でもない、佐山自身も心配しているのだから。

できるのはただ祈ることだけだった。若者の早死は、老骨には堪える。


「無事に戻ってきてくれ……」


 ヤカンがシューシューと音を立てていた。佐山の小さな呟きをかき消すように。


 茶を淹れながら橋を見ても、まだ、若者たちが戻ってくる気配はない――




 川中島老人ホーム。


 それが、この拠点の名だ。


 市中心部からは車で四十分ほどの距離。最大の特徴はなんと言っても、河の中に浮かぶ小島――すなわち『中洲』と呼ばれる地形に建っていることだろう。


 老人ホームと住宅が十数戸、そして小さな公園があるだけの狭い土地。両岸の街とは二本の橋で接続されている。台風や大雨の日は増水の危険もあるが、こと『奴ら』から身を護る拠点としては優れていた。『奴ら』は流水を避ける傾向があり、橋を封鎖してしまえば、中洲は安全地帯になるのだ。


 現在、ここで三十名ほどの老若男女が、ほそぼそと命をつないでいる。


 その中でも佐山は最古参のメンバーの一人だ。もっとも老人ホームの入居者ではない。元々身寄りもなく、定年後、田舎でのんびりと農業をやりながら暮らしていた。


 そんな佐山が不死者の大量発生パンデミックに巻き込まれたのは、ここの老人ホームに入居したばかりの友人を訪ねたときのことだった。


 原因不明の死病、次々に衰弱し、呪われた不死者へと変わっていく老人たち。佐山の友人も残念ながら、動く屍に成り果てた。友人にとどめを刺したときの感触は今でも夢に見る。


 しかし、なぜか佐山自身は『感染』せずに済んだ。農業で体を鍛えていたおかげだろうか。理由は誰にもわからないが、いずれにせよ、極限状況のさなかで生き延びられたのは――単純に運が良かったからだ、と佐山本人は考えている。


 一度混乱から立ち直れば、この中州はそう悪い場所ではなかった。水もあるし守りも堅い。農業の経験を活かし、公園や空き地を畑に変えたのは佐山だ。今では年長者の一人、かつ農業のプロとして、仲間たちからも頼られている。


 が。


 順調に思えた佐山の畑仕事も、途中から上手く行かなくなった。


 他でもない、天候のせいだ。ある日を境に曇り空が増え、ろくに日が差さなくなってしまったのだ。おかげで作物はボロボロ。一部の根菜類は何とかなりそうだが、葉物はほぼ全滅だ。


 そろそろ秋も過ぎ去ろうとしている。食料を確保しなければかなり厳しい冬になるだろう。それが、若者たちが街の探索を決断した理由の一つだ。


 本当は佐山も探索に加わりたいところだったが、若者たちから反対された。子供たちの面倒を見れて、農業の経験もある佐山に、万が一のことがあってはならないと。


「しかし、老い先短いワシが生き延びたところでなぁ」


 子供たちに聞こえない程度の声で、ひとりごちる佐山。しかも取り柄の農業も全く役に立たないのだ。まったく、お天道様にはかなわんな、と皮肉に笑った。


「あっ!」


 と、そのとき、子供の一人が橋の向こうを指さして叫ぶ。


「帰ってきたよ!」


「ほんとだ! 帰ってきたー!」


「なんと! 本当か!」


 思わず簡易イスを蹴倒して佐山も立ち上がる。


 川の向こう。日が傾き始めた住宅街にヘッドライトの輝き。若者たちの車だ。佐山はホッと胸を撫で下ろし、子供たちもわいわいとはしゃぎ出す。


 橋の中ほどのバリケードの前で車が停まり、探索班の若者たちが降りてきた。どうやら大漁だったらしい。山ほど荷物を抱えているのが、遠目にもわかる。お菓子はあるかな? 新しいおもちゃは? 子供たちが歓声を上げるも、すぐに、その声は尻すぼみになる。


「五人しかいないよ……?」


「なんで……?」


 気の毒になるほどか細い声で、子供たちが呟く。とっさに双眼鏡を覗いた佐山は、とぼとぼと歩く若者たちの顔を目にして、全てを悟った。


 誰かがやられたのだ、と。



          †††



「おかえり。……よく戻ってきてくれた」


 探索班の若者たちを、拠点の皆で出迎える。佐山がねぎらいの声をかけても、彼らの表情は暗いままだった。自然と、皆の口数も少なくなる。


「……ねえ!? 『レナ』は!? なんで、あの子がいないの!?」


 と、眼鏡をかけた少女が、荒い口調で尋ねた。『レナ』――探索班に加わっていた少女、『小牧こまき玲奈れな』のことだろう。眼鏡っ娘とは特に仲が良かった。


「……ショッピングモールで、『奴ら』の大群に出くわした」


 どさりとバックパックを地面におろし、疲れ果てた顔で若い男が答える。


 彼の名は一ノ瀬いちのせ勇樹ゆうき。若者たちのリーダー的な存在だ。責任感が強く冷静沈着、それでいてお茶目なところもある憎めない男だが、普段の快活さは見る影もなかった。


「地下の倉庫を開けたら、『奴ら』が一気に出てきた……小牧は、そのときに噛まれたらしい。それで……『自分が囮になる』と……俺たちを逃がすために……」


 唇を噛んで、うつむく一ノ瀬。どうしようもない状況だったのだろう。それでも仲間を――それも、年端もいかぬ少女を置いていかざるを得なかった。悔やんでも悔やみきれない、彼の心境が痛いほど伝わってくる。


「そんな……」


 顔を青ざめさせて、眼鏡っ娘がふらふらと後ずさる。


「なんで……? あんたたちが、一緒じゃなかったの!?」


「……すまん」


「だからッ! わたしは反対したのよ! でも、あんたたちが絶対守るって言うから!!」


「…………すまん」


「約束したじゃない!! 絶対に連れて帰るって! この嘘つきっ!!」


 眼鏡っ娘の悲痛な叫びが、寒空にこだました。


「なんであんたたちだけ帰ってきて、レナが死ななきゃいけないのよ!」


 涙を流す眼鏡っ娘。つられて、子供たちも声を上げて泣き出した。


 小牧は、幼い子たちにもよく懐かれていた。元はバンドをやっていたらしく、ギターと歌が上手で、平和な時代のヒットソングを聴かせてくれたものだった。ころころとよく笑う明るい性格。一見、軽薄そうにも見えたが、実は正義感が強く、皆のことを一番に考えている。


 そんな、良い娘だった――


「あんたたちが! あんたたちがレナを殺したんだ!」


「もうやめなさい」


 ヒートアップして一ノ瀬につっかかり始めた眼鏡っ娘。その肩を掴んで、佐山はいさめる。


「気持ちはわかる。ワシも辛い。だが……彼らの気持ちも考えてやってくれ……」


 探索班の面々は黙ってうつむいていたが、固く拳を握りしめていた。目の前で小牧が犠牲になったのだ。ショックを受けていないはずがない。


「……ッ! そんなのッ、そんなの知らないッ!」


 佐山の手を振り払い、きっと一ノ瀬たちを睨みつけてから、眼鏡っ娘は泣きながら走り去っていった。重苦しい沈黙だけが残される。


「……小牧ちゃんのことは、本当に残念だ。だが、それでもよく、全滅せずに君たちだけでも帰ってきてくれた。きっと彼女も、それを望んでいたと思う……」


 佐山は探索班の若者たちの肩を、一人ひとり叩いて励ましていった。年を食ってるくせに、月並みな慰めしか言えない自分が恨めしい。


 だが、本心からの言葉でもある。噛まれた小牧が囮役を買って出たとのことだが、確かにあの娘ならそうするだろう。無念ではあるだろうが、仲間が無事に帰れたことを、喜んでいるに違いない――


「さあ、荷物を見せてくれないか。子供たちに何か食べさせてあげたい……」


 佐山がそう呼びかけると、ようやく若者たちがのろのろと動き出す。仲間の死は、やすやすとは乗り越えられない。当たり前のことだ。これまでにも何度か、誰かが死んだり、探索班が丸ごと帰ってこなかったりしたことはあった。


 だが、そんなとき雰囲気が悪くなりすぎないよう、それとなく空気を変えてくれたのが小牧だった。


 彼女はムードメーカーであり、佐山たちの心の支えでもあったのだ……


 本当に、惜しい人物をなくしてしまった。


 ふさぎ込んだ若者たちを前に、佐山は改めて、そのことを痛感するのだった。

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