第3話
しゃあん、しゃあん、とまるで鈴の鳴るような音。
「……?」
最初は幻聴かと思った。あるいはとうとうお迎えが来たのかと。
だが聞き間違いではないらしい。その証拠に、眼下のゾンビも反応しつつあった。音源を探ろうとしているのか、何体かは頭を巡らせ、辺りの様子を窺うようなそぶりを見せている。
そうしている間にも、その音は、徐々に、そして確実に大きくなっていく。
どんどん近づいてきている――
「――どなたかー! 生存者はいませんかー!?」
若い男の声。近くに誰かが来た。少女は力をふり絞り、どうにか体を起こす。
「だれ……?」
無数にひしめくゾンビの向こう。近くの民家の屋根に人影が見えた。
それはひとりの青年だった。
異様な風体。なんとなく、少女が連想したのは山伏、あるいは天狗だ。滅びかけの薄汚れた世界には不似合いな、真っ白な衣を身にまとっている。
風にたなびくそれは、法衣とも着物ともしれぬ不思議な仕立て。胸のあたりに金糸で刺繍された、太陽をデフォルメしたような意匠が印象的だ。
そして、その手には銀色の錫杖。先ほどから聴こえていたのはあの杖の音らしい。ゾンビを引きつけるようなモノをわざわざ持ち歩くなど正気の沙汰とは思えないが、ああして家の屋根にいる限りは安全かもしれない。
しかし、街の中心部のように家屋が密集しているわけでもないのに、どうやってあそこまで登ったのだろう――?
それに、もしここまで移動してきたのが彼ならば、かなりの速度で動いていたことになるが――
「おお! あなたは!」
と、青年が少女に気づいて、ぱっと顔をほころばせた。
華やかな笑顔。善良そうな顔立ちの、なかなかのイケメンだった。
「久々に生きている方とお会いすることができました! ありがたい! これも神の思し召しでしょう……!」
が、次の瞬間、なにやらその場で虚空に向かって祈りだす青年。
うわぁ、と少女は変な声を漏らした。言うに事欠いて、神とは。絶望的な状況で宗教にすがる者は多かった。しかしこれはその中でもとびきりの変わり者だ。なまじ顔がいいだけに不気味ですらある。
「あは、は……まあ、死にかけだけど、ね……」
届くかどうかわからないが、どうにか声をふり絞って答えておく。少女が噛まれていることに気づいたのだろう、すぐに表情を引き締める青年。
両者の距離は、数十メートルあるか、ないか。遠くはない。
だが地上にひしめく不死者の群れが、絶望的にふたりを隔てていた。
「行って……早く逃げて」
少女は再び身を横たえた。最期に、誰かに会えた。変わり者ではあったが、それでも自分は孤独ではなかった。たったそれだけのことで、ずいぶん救われた気がした。いい宗教家じゃん、と勝手に笑う。
だが、これから自分が見苦しくもがき、『奴ら』の仲間に変わっていくところまでは、見られたくなかった。
「……わたしのことは、もういいから――」
「すぐにそちらへ参ります。少々お待ちを」
が、少女が言い終わる前に、青年はなんと、ひらりと空中に身を躍らせた。
降り立つ。地上。
すたっ、という着地音に、『奴ら』の何体かの注意がさらに引きつけられる。
「ちょっとッ……なにやってんの!」
一瞬、痛みすら忘れて目を剥く少女。死にたいのか? まさに自殺行為。屋根から飛び降りてもノーダメージなのは驚くが、ゾンビの群れに自ら飛び込むような真似をするとは、精神に異常をきたしているとしか思えない。
「逃げて……ッ! わたしは、手遅れだからっ」
必死で訴える少女に、しかし青年は首を振る。
「いいえ。逃げるわけにはいきません」
「は?」
「私には使命があります。人々を救い、忌まわしき呪いから解放するという使命が。それこそが、私がこの世界に生を受けた意味。すなわち神の意志なのです」
何を言っているのか理解不能だった。反応に困る少女をよそに、青年は錫杖で地を突く。
しゃぁん! と一際大きな音が響き渡り、空が震えた。
あれほど耳障りだった『奴ら』のうめき声が、ぴたりと止まる。
ゆっくりと。鉄塔を取り囲んでいた不死者たちが、一斉に青年の方へ向き直る。
「神よ」
しかし相対する青年に怯えの色はない。真摯な、そして慈愛に満ちた表情で、不死者たちと向き合う。青年が錫杖から手を放すと、それは倒れることなく直立した。驚くべきことに、先ほどの一突きでアスファルトにめり込んだらしい。
そして気のせいだろうか? 地面に突き立った錫杖がほのかに発光しているように見える。
それだけではない、錫杖がひとりでに震え、りぃぃんと澄んだ音が鳴り響く。
少女は、体の痛みが少しだけ和らいだ気がした――
「――おお、神よ。我らに無限の慈悲を」
と、青年が腰のベルトから、何か棒状のものを抜き取った。
バールのようなもの。
工具の、バールのようなものだ。
鉄製の頑丈な、大工から強盗まで御用達のアレだ。
無造作に、ごくごく自然体で、バールのようなものを握る青年。
少女は目を疑った。まさかあれ一本でゾンビと戦うつもりか。いくらなんでも無茶だ。連中に生半可な打撃は通用しない。そもそも多勢に無勢。たとえ銃があってもこの状況は厳しい。
なのに。青年は、少女の想像の上を行く。
「アウル・エファアシーン・ジウラ!」
青年が厳かに唱え、その手のバールのようなものを掲げた。
すると、何の変哲もないバールのようなものが、いきなり輝き始める。美しい光。思わず見とれる少女とは対照的に、不死者たちが怯えたように後ずさった。
「恐れることはありません。神の愛に身を委ねるのです。忌まわしき邪神の呪いから、あなた方を解放して差し上げましょう」
青年は穏やかに微笑みながら、光り輝くバールのようなものを手に突き進む。
ざぁっと潮が引くように後退していく不死者たち。少女はまたも目を疑った。奴らが――生者と見れば見境なく襲いかかる『奴ら』が、怯えて、しかも、逃げるというのか?
「アウル・エファアシーン・ジウラ!」
再び力強く唱える青年。バールのようなものを一際強く輝かせ、振りかぶる。
次の瞬間、その姿が白くブレた。
「は?」
少女の間抜けな声はドンッという轟音にかき消される。青年が踏み込み、薙ぎ払ったのだ。それだけで数体の不死者の頭部がまとめて吹き飛ばされる。さらに残された胴体も、バールのようなものの光に灼かれて一瞬で灰になった。
絶句。目の前の光景が理解できない。というより、青年の動きが見えなかった。速すぎる。
「神は――エファアシーン・ジウラは、あなた方をお見守りくださいます」
青年は優しい口調で、不死者の群れに語りかけていた。その顔に、服に、飛び散った赤黒い返り血も、白い煙を上げて瞬く間に浄化されていく。
「せめて、安らかにあれ」
瞑目して祈りを捧げる青年、再びその姿がブレる。まさに神速。機械じみた精確さでゾンビ頭を叩き潰していく。
不死者たちの反応はまちまちだった。青年に襲いかかり即座に返り討ちにあう者、逃げようとして背骨ごと粉砕される者。中には棒立ちで全てを受け入れる者や、縋りつくように青年の一撃に身を委ねる者もいた。
粉砕、粉砕、粉砕。
『奴ら』の全員が灰に還るまで、五分とかからない。まるでゲームのプレイ動画を早回しで観ているような、冗談みたいな殲滅速度だった。
さんさんと降り注ぐ日差しを浴び、風に舞う灰がきらきらと輝く。
「おお……神よ。どうか、彼らの魂に安寧を……」
涙を流しながら、天に祈る青年。
「やばい……」
痛みも忘れて、少女はそう呟くのが精一杯だった。
「さて、お待たせしました」
涙を拭った青年が少女の方に向き直り、「よっ」という掛け声とともに地を蹴った。ふわりと衣をはためかせながら宙を舞い、足場の手すりにタンッと着地する。
「はっ? ……えっ!?」
一瞬でかたわらまで移動してきた青年を思わず二度見する少女。地上から鉄塔の足場まで、少なくとも五メートルはあるのだが。
「……神通力でも使えるの?」
とても人間業とは思えない。というか、そもそも人間ではない可能性すらある。第一印象の通り、実は天狗なのではなかろうか。
「神通力、ですか。そうですね、そう言えなくもないです」
青年は真面目くさって答えた。しかしすぐに少女の肩の傷に視線をやり、いたましげな表情になる。
「噛まれてから、かなり時間が経っているようですね。辛かったでしょう……」
――ゆらりと。
「今すぐ、楽にして差し上げます」
微笑みながら、青年がバールのようなものを構える。
「……えっ」
いや、それは少女も考えていた。アレの一撃なら楽に逝けそうだなぁ、とは。
しかし、少し早くないか? まだ心の準備が――
「ちょっ、ちょっと待っ」
思わず身を引いた少女の肩を、青年ががっしりと掴む。
骨が悲鳴を上げるような、凄まじい握力。やはりこの青年は人間ではない! 殺される! 本能的な恐怖心が、臨界点を越えた。
「やっ、やだぁっ! 助けて!」
「アウル・エファアシーン・ジウラ!」
「いやあああ!」
腕を振り上げる青年を前に、幼子のようにギュっと目をつぶる少女。次の瞬間、まぶた越しにも感じ取れる、まばゆい光。
「きゃあああああッ! …………あ?」
温かい。
まるで湯船にとっぷりとつかったような、心地よさ。
恐る恐る目を開くと、青年の握るバールのようなものが優しい虹色の光を放っていた。オーロラのような輝きが降り注ぎ、少女の全身に染み渡っていく。
ふと腕の傷に違和感。視線を落とした少女は、今日、何度目かわからない驚愕に目を見開いた。食いちぎられた腕の肉がみるみる再生していく。肉が盛り上がり、皮膚が形成され、傷がふさがっていく。
そして少女自身は気づかなかったが、彼女の体から黒いもやのようなものが立ち昇り、青年の光によってかき消されていった。
「……これで大丈夫です。いかがですか? 楽になったでしょう」
腕を下ろして、にっこりと笑う青年。
少女はハッと我に返り、改めて傷口――があった場所に触れる。すべすべとなめらかな肌。食い破られた服の袖だけがかつての負傷を物語る。同時に、全身から疲れや倦怠感も、きれいに消え去っていることに気づいた。
「えっ? いや……でも、わたし、噛まれて……『奴ら』に……」
「ああ、そちらも心配はいりません。あなたの身体を蝕んでいた邪神の呪いも、まとめて浄化しました。動く屍にはならずに済みますよ」
青年の言葉は、半分ほどしか頭に入ってこなかった。が、最も大切な事実――己が呪われた運命から解き放たれたことだけは、確かに伝わった。
少女は、体に震えが走るのを感じた。
何か――何か、とんでもないことが起きている。
「あなた……いったい、何者なの」
知らず、あえぐようにして尋ねていた。
青年は一瞬、きょとんとしたあと、はにかんだように笑う。
「申し遅れました、私はヒカリノ――
このとき、少女は思った。マジでやばいやつに出会ってしまった、と。
だが、このとき少女はまだ知らなかった。
青年は、少女の想像をはるかに超える存在――
すなわち、もっとずっと『やばいやつ』であるということを。
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