第二章 ばあちゃんのクッキー ~路地裏にて~
☆
ゼクソールの生徒たちは、よほど特殊な事情でもないかぎり、在学中は敷地内の寮ですごすことが義務づけられている。これは、卒業後の軍隊生活で余儀なくされる、宿舎での共同生活に備えての予行演習でもあった。
ただし、月に一度、第四土曜日にのみ外泊することが許されているため、たいていの生徒たちはこぞってこの日に実家へと帰り、日曜の夜に寮へと戻ってくる。中には入学後最初のこの外泊日で里心がつき、早々に退学してしまう新入生もいるらしい。
しかし、まさか向こうっ気の強いクリオがそうなるとは意外だった。
「……いい加減に泣くのはおやめください」
「だ、だって……」
ぽろぽろと涙を流し、クリオはハンカチを噛み締めた。
「やっぱりばあやと離れて暮らすの淋しいじゃん……ユーくんは何とも思わないの?」
「お気持ちは判りますが……お嬢さまはもう子供ではないのですよ?」
「子供じゃなくても淋しいものは淋しいもん! ばあやといっしょに暮らしたい! 毎日ばあやの焼いたお菓子とかたーべーたーいー!」
「……百歩ゆずって泣くのは仕方ないにしても、もう少しお静かにお願いします」
ふたりがマウリンの家を辞去したのは少し早めの夕食を終えてからのことで、今はもうとっぷりと日も暮れ、通りを照らすのは民家の窓からこぼれるわずかな光だけだった。もともと閑散としていた糸車横丁にほかの人影はないが、この調子で泣き続けられると、様子を見に家から出てくる者も現れるかもしれない。
「そもそも、泣くなら泣くで、馬車を拾うまで待てなかったのですか?」
「こ、これでも限界まで耐えたもん! ばあやの前で泣いたら心配させちゃうからって、わ、わたし――うぐ、うぐぐ……」
「お嬢さまの努力は判ります、判りますが……」
ずっと手を振っていたマウリンの姿が見えなくなるところまで遠ざかった途端、号泣である。ガラム・バラウールが死んだ時以来、ひさびさに見るクリオの涙だった。
「ひと月の辛抱ですよ、お嬢さま。つつがなくすごしていれば、来月また外泊許可が出ます。その時にまた来ればいいではありませんか」
「だから! それまで! ばあやに! 会えないじゃん! これまでずっといっしょに暮らしてたのに……!」
「それはそうですが……」
ユーリックはクリオに寄り添い、さめざめと泣く彼女の頭を撫で続けた。
確かにクリオは気が強く、場合によっては国王が相手でも物怖じせずにはっきりと主張ができる少女だが、しかしその反面、やたらと甘えたがりのところがある。クリオが淋しさに負けて泣き出したのはそのせいだろう。
ユーリックが人知れず溜息をつくと、それが耳に入ったのか、いきなりクリオは顔を上げ、
「ユーくん今、わたしのこと! めんどくさい! って思ったでしょ!?」
「思っておりません」
「ぜっったい思った! 思ったでしょ!?」
「いえ、まったく思っておりません」
「見えすいたウソつかないで! どうせわたしは――」
さらに声を大にして泣きわめこうとしていたクリオは、そこでぴたりと動きを止め、いぶかしげに眉をひそめた。
「どうなさいました、お嬢さま?」
「……何か聞こえない?」
いわれてみれば、確かに何か物音が聞こえる。
「こっち――かな? ちょっと行ってみよ!」
ユーリックの手を掴み、クリオはさらに奥の通りに通じる路地へ向かった。
「お嬢さま、早く学校に戻りませんと――」
「判ってる! これを確かめてから!」
クリオは細い路地を抜けて隣の通りに入ると、目を凝らしてあたりの様子を窺った。
「ほら、ユーくん、あれ!」
「喧嘩……ですか?」
暗がりで数人の男がもみ合っているようだった。荒々しい息遣いと罵声、それに何かがぶつかり合うような音――酔っ払いたちが路上で管を巻くにはいささか早い時間帯かもしれないが、音を聞くかぎりでは、やはり喧嘩かもしれない。
「よくあることです。さあ、帰りましょう、お嬢さま」
「ちょっと待って」
他人の喧嘩に首を突っ込むほど物好きではない。ユーリックはさっさときびすを返そうとしたが、しかし、クリオがその袖を掴んで引き留めた。
「喧嘩っていうか……ひとりが一方的にやられてない?」
クリオの言葉にあらためてよく見てみると、確かに、四、五人の男たちがひとりの男を取り囲んで一方的に痛めつけているようだった。
「それにほら、やられてる人って、ウチの制服着てるじゃん!」
「確かにゼクソールの制服ですね……まあ、私たちには関係ございませんが」
「ちょっと!」
ふたたび立ち去ろうとしたユーリックの袖を、クリオがさらに強い力で引き留めた。
「――まさかこのまま見すごすわけ?」
「逆に、なぜ首を突っ込む必要があるのです? 一般人が強盗に襲われているというのならまだ判らなくもありませんが、襲われているのはゼクソールの生徒です。それも私たちより年上のようですし」
ゼクソールで学ぶ生徒なら、剣や槍の基本的なあつかいはもちろん、徒手での格闘もある程度はこなせて当然だった。場合によっては魔法だって使えるかもしれない。となれば、酔っ払いの四、五人相手に後れを取るほうがどうかしている。
「それは正論かもだけど! でも、だからって見て見ぬふりはできないでしょ! 助けてあげてよ! ……ユーくんがやらないならわたしがやっちゃうよ!?」
「…………」
ユーリックは長い溜息をつき、伊達眼鏡をはずしてクリオに差し出した。
こうなった時のクリオは、ユーリックがいくら正論を吐いたところで自分の考えを曲げはしない。あくまでユーリックが放置するというのなら、クリオは本当にみずからあの乱闘の輪の中に飛び込んでいくだろう。それを回避するためには、ユーリックが折れて彼女の言葉にしたがうしかなかった。
「お嬢さまはここでお待ちください」
そう念を押してユーリックは駆け出した。
「――もう日が暮れてるんだ、近所迷惑だろう?」
あたりの暗さをものともせず、一瞬で乱闘の輪に接近したユーリックは、手近なところにいた男の後ろ襟を掴んだ。技術も何もなく、ただ無造作に引っ張り、軽く振り回して放り投げる。
「!? ――ぐっ!」
石畳の上に投げ出された男が、息を詰まらせて身体を震わせる。
「なっ……!?」
「こ、小僧、おまえ、何なんだ!?」
突然現れたユーリックに、男たちは戸惑いを隠せていない。一方、乱入したユーリックのほうも、その場にいた面々を見てかすかな違和感を覚えていた。
街の路地裏で起こる乱闘の登場人物といえば、たいていは酒に酔った荒くれどもと相場は決まっているが、この男たちも、それに身体を丸めてうずくまっている若者も、そうした典型例からはややはずれている気がする。そもそもこの男たち自体、きちんとした身なりをしていたし、酒の匂いもしない。
「どこの誰だか知らんが邪魔をするな!」
男のひとりがユーリックに向き直り、殴りかかってきた。しかし、相手の素性がよく判らない状態でうっかり痛めつけるわけにもいかない。ユーリックは顔面に迫ってきた拳を軽くはじいて脇に逸らすと、逆に相手の胸を左のてのひらで突いた。
「かは――」
苦しげに呻いて膝から崩れ落ちた仲間を見て、残りの男たちが言葉を失った。
「……ふん」
男たちの戦意が急速にしぼんでいくのを感じたユーリックは、彼らを無視し、うずくまっていた若者に肩を貸して引き起こした。
「歩けますか?」
「う……」
「行きましょう」
若者を助けて歩き出しても、男たちは黙ってそれを見ているだけで、あえて立ちはだかろうとする者はいなかった。
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