第一章 おれの膝枕 ~外泊許可日~
☆
小川のほとりの日当たりのいい土手に座り、その男は硬いチーズをかじっていた。かたわらに小さなバッグと粗末な木の杖が置かれているところからすると、旅の途中なのかもしれない。
この川に沿って北に向かえば、やがて王都フラダリスへとたどり着く。荷物を積んだ船が流れていくさまを眺めながら、旅人はチーズを食べつくし、ぞんざいに口もとをぬぐった。
「……来ないかと思ったよ」
下映えを踏んで斜面を下りてくる足音に振り返り、旅人は軽く手をあげた。
「どうだ、ためしてくれたか? ――まあ、効果のほどが判ったからこそ、こうして来てくれたんだろうが」
「おまえは……何といったかな?」
旅人の隣に腰を下ろしたのは、もみあげから顎までつながる立派な顎髭の男だった。がっしりとした体躯の持ち主で、年の頃は三〇前後といったところだろう。
「たがいに名前は知らないほうがいいだろう? それともあんたは名乗りたいのか? だとしても俺は名乗らないぜ? どうせ日暮れにはこの街を出てるしな」
「だが、おまえはこっちの素性を知っているのだろう? でなければ、わざわざ雑踏の中で俺に声をかけてきたりはしなかったはずだ」
「そこは深く突っ込むなよ。おたがい後ろめたいところがある身だろ?」
旅人はバッグの中から青いリンゴを取り出し、髭男の目の前に差し出したが、ささやかなその行為は無視されてしまった。
「……けっこううまいんだけどな」
「酸っぱいリンゴを買いにきたわけじゃない」
髭男は旅人のほうをろくに見ようともせず、懐から取り出した小さな袋を下生えの上に置いた。
「――これでいくつもらえる?」
「リンゴをか?」
「ふざけるなよ。商売のために来たんじゃないのか?」
「もちろん。……まあ、あんたの懐具合次第だが」
リンゴをかじるのを中断し、旅人は袋を手に取って中身を確かめた。
「……シェルガド帝が作らせた戦勝記念金貨か。こいつは珍しい」
手に取った金色のコイン同士を軽くこすり合わせ、旅人はうなずいた。
「どうやら本物らしいな。これなら……そうだな。こんなもんだろう」
旅人は金貨をバッグにしまい込み、代わりに小さなガラスの小瓶を取り出すと、中年男に差し出した。
「この前渡したのと同じものが一二粒入ってる」
「助かる」
受け取った小瓶をポケットに押し込み、髭男は立ち上がった。
「――くどいようだが」
食べかけのリンゴを川に投げ込み、旅人はいった。
「呑めば呑むだけ効果は増すが、一日に二粒以上は絶対に呑むなよ? その薬が完成するまでに、呑みすぎて死んだ奴が何人もいるからな」
「判っている。だが、命を賭してでもやらなきゃならんことがあるんでね、俺たちには」
「そうかい。……まあ、あんたがたの事情は俺の知ったことじゃないが、できれば今後も取引を続けていきたいんでね、生き延びてもらえると助かる」
「そうだな……俺たちも生きて故郷の土を踏みたいと思っている。命は賭けるが、命を捨てるつもりはない」
小瓶が入ったポケットのあたりを押さえ、中年男は土手の斜面を登っていった。
「悲壮感ただよってるねえ……ま、せいぜいがんばってくれよ」
肩越しに髭男を見送った旅人は、バッグを持って立ち上がると、杖を片手に川沿いを歩き出した。
☆
フルミノール王国の王都フラダリスは、建国以来一度として戦火に見舞われたことがない。頑強な城壁に守られた人口五万を超える巨大な城塞都市は、白亜のフラダリス城を中心として、今日まで大国の都にふさわしい威容を誇っている。
しかし、それでも今から一八年前、王都から半日というところまで敵軍の侵攻を許したことがあった。隣国アフルワーズが周辺諸国と血盟を交わし、フルミノールに戦いを挑んできたのである。
その激しい戦いの終盤、フラダリスへと迫った連合軍をほぼ単独で迎撃し、撃退したのが、当時まだ二〇代のなかばだったガラム・バラウールであった。
当時、一介の流浪の魔法士にすぎなかったガラムが、リュシアン二世に迎えられて城へと向かったであろう凱旋門通りを、今、その娘であるクリオが辻馬車に揺られて仮住まいへと向かっていた。
「このへんて治安はいいの?」
小さな窓から外を眺め、ぽつりとクリオが尋ねた。
「この国の都ですから、おおむね治安はよいはずですが……富が集中する場所で犯罪が多くなるのも自然な流れでございますから」
「……そんなところにマウリンをひとりで置いとくの、不安だよ」
「そこは仕方のないところです。祖母も旦那さまと同じくここの生まれではございませんし、屋敷を没収されてはほかに行くところなどございませんから」
王国に屋敷を返還するのと同時に、クリオはすべての使用人たちを解雇せざるをえなくなったが、唯一、クリオの誕生前からガラム・バラウールに仕えていたマウリン・ドゼーだけは、この城下町にクリオが小さな家を借り、そこに住まわせている。今のクリオにとってはそこが仮の実家といっていい。
「ここでいい。停めてくれ」
御者に声をかけ、ユーリックは馬車を停車させた。
都の南北をつらぬく凱旋門通りから東に一本入った糸車横丁は、日当たりはさほどよくないものの、きちんと石畳で舗装された比較的清潔な通りで、見たところ治安の悪さはあまり感じない。マウリンが住んでいるのは、この短い横丁の一番端、小ぢんまりした二階建ての貸家であった。
辻馬車が遠ざかっていくのを見送ってから、ユーリックは貸家の玄関ドアを静かに叩いた。
「ばあちゃん、帰ったぞ。お嬢さまもいっしょだ」
不愛想にユーリックが声をかけると、しばらくして鍵がはずれる音がした。
「お帰りなさいませ、お嬢さま!」
ドアが開くと、満面の笑みを浮かべた老婦人が顔を覗かせた。ユーリックの祖母、そしてクリオにとっては亡き母の代わりに幼い頃から面倒を見てくれたばあや――マウリン・ドゼーである。
「元気だった、ばあや?」
「お気遣いありがとうございます。お嬢さまのおかげでこうして住む場所もございますし、楽隠居をさせていただいておりますよ」
孫のユーリックも、マウリンが今年いくつになるのかはよく知らない。六〇の坂を越えているのは確かだが、まだ腰もまっすぐで、年齢を感じさせない
「…………」
ユーリックは通りの左右を確認してからドアを閉め、しっかりと鍵をかけた。
「ばあちゃんが元気なのはよく判ったが……何か変わったことはないか?」
「変わったことかい?」
さっそくキッチンに向かおうとしていたマウリンは、孫の言葉に首をかしげた。
「特に何もないけどねえ……?」
「ないならいい」
ユーリックは階段をきしませて二階に上がると、ふだんは物置として使われている部屋に入った。せまい部屋の半分は、クリオの亡き母が残したドレスを納めた衣装箱が積み上げられている。窓際に置かれているベッドは今夜クリオが寝るためのもので、マウリンによって綺麗にメイクされていた。
謁見の日の国王との話し合いの結果、駆龍侯ガラム・バラウールにあたえられていた所領と屋敷は国家へ返還されることになったが、同時に、クリオがゼクソールに在学中の五年間は、かつての所領から受け取れていたはずの税収の三分の一が、恩給という形でクリオに支払われることになった。
クリオはその恩給の中から自分とユーリックの学費を出し、さらにこうして城下に家を借りてマウリンを住まわせていた。三人で住むにはせまいが、老人ひとりが暮らすぶんには広いくらいだろう。
「…………」
ベッドの下から金属で補強された頑丈な木箱を引きずり出したユーリックは、その中に詰め込まれていた十数冊の本を確認し、小さくうなずいた。
「どうしたの、ユーリック?」
「いえ、旦那さまの本を――」
数冊の本を引き抜いて木箱をベッドの下に戻したユーリックが振り返ると、クリオが無造作にコートと制服を脱ぎ始めていた。
「……私が出ていくのが待てないのですか?」
「別によくない? いまさらじゃん」
「慎みのなさはいかんともしがたいですね」
幼い頃から姉弟同然に育ってきただけあって、確かにいまさら感はある。マウリンが用意してくれた部屋着に着替えているクリオを放置し、ユーリックは下の階に戻った。
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