第56話 けじめ3

 「それは……」


 大成が取り出したのは一通の書状。

 今度は安堵した空気が流れる。


「お改めくだされ」


 大成が目の前の畳の上に置いた。家臣の一人が恐る恐る大成に近づき、書状を手に取る。そして柳沢殿に届けた。


「こっ、これは……皆の者、下がれ」


 中味を見た柳沢殿は一瞬で書状を伏せる。蒼ざめていた。


「殿! なりませぬ! 何が起こるかわかりませぬ!」


「ええい! 下がれ! ワシに腹を切らせる気か! 外の連中もだ! この部屋に誰も近づくでない! 下がらぬか!」


「はっ、ははーっ!」


 用人の諫止は役に立たず、逆に普段は出さないような大声を出させてしまったようだ。用人、家臣たちは慌てて平伏した。

 殿の命には逆らえないと、急ぎ部屋を出て行く。


 それでも柳沢殿は不安らしく、各襖を次々と開け、家臣が余計な気を使って潜んでいないかを確認した。

 無人であることを確認し終わると、柳沢殿は大成の目の前、手の届く距離に座る。自分の命は度外視した態度であった。


「ご使者殿。これは一体……」


 柳沢殿は声を潜め、握り締めた書状を大成に突きつける。

 それは彼の年、館林宰相であった現将軍徳川綱吉公が明国に宛てて書いた、援軍を承知したという念書である。



 当時次期将軍と目されていた三兄の甲府宰相・徳川綱重を謀殺したとも取れる内容が書かれていた。家臣といえどその存在すら知られるわけにはいかない。

 世に出れば将軍職失脚の恐れもある。天下大乱の火種になることもありえた。その危険性を承知で大きな賭けに出たのだ。

 露見した場合は柳沢殿の独断ということにされ、綱吉公本人は知らぬ存ぜぬということで決着されるはずなのだが、どう転ぶかは誰にもわからない。


「言葉どおり、お返し致す」


「いや、ありがたいが、何故……」


「貴殿たちは賭けに勝ち、拙者たちは負けたのでござる」


 その言葉に大成の心境が集約されている。

 明国は完全に終わりだと、若き闘士は判断していた。


 であれば、この念書は無用の長物。いや、それどころか新たな災厄の火種になるかもしれない。

 自分一人ならそれでも構わぬが、お春や私に危害が及ぶことを大成は恐れていた。

 そして単身江戸に乗り込んだのは、途中大阪のお春のところに寄らなかったのも同じ理由である。


 敵ではないかもしれないが、相手の秘密を知っている人間が、切り札を差し出そうとは、口を封じられても構わないと言っているようなものであった。


「……援軍の件、一度東寧国に打診したのだが、断ってきたのでどうするつもりかと訝っていたところだったが……」


 その発言で、少なくとも柳沢殿は約定を反故にするつもりは無かったのだと大成はわかった。疑ったことを恥じ、思わず苦笑する。


「お恥ずかしい次第でござる。賎人には手を焼き申す」


「では、明国は……」


「先日、台湾の鄭家も清国に降り申した。拙者の役目もこれまで」


「そうでござるか。昨年、朝鮮通信使から呉三桂なる者の勢力が討ち取られたとは聞いていたが、台湾も……」


「大言壮語した手前、赤面の至りでござる」


「いや……しかし、それにしても、何故拙者にこれを? どこの大名も高値で買うであろうに」


「いや、それは思いつきませなんだ。しかし、拙者は商売下手でござってな。貴殿は才覚者ゆえ、存分に儲けてくだされ」


 大成は笑った。冗談と承知の柳沢殿も呵呵大笑する。広い座敷、それも襖がすべて開け放たれた部屋で、一種異様な光景であった。


「……これがなければ、貴殿はただの異国人。いや、一介の素浪人でござる。いつ命を落とすことになるかわかりませぬぞ……」


 柳沢殿は、口封じを匂わせた。


 大成、少しも動じることなく答える。


「拙者一人の命で済むなら本望にござる」


 大成は『一人』という言葉に重きを置いた。言外に、お春は、おそらく私も含めて、余人は見逃してくれと懇願したのであろう。

 それが大成の言う『けじめ』であった。


「……すでに国外に出た者をわざわざ討ち取りに出るのは、国禁に触れる。幕府はそれほど愚かではない」


「かたじけない……」


 大成は、身命を賭した頼みを無条件で聞き入れてくれた柳沢殿に頭を下げる。

 涙が滲んでいた。


「頭を上げられよ、ご使者殿。いや、ご浪人殿」


「お心遣い、感謝いたす」


「どうでござる? 再開を祝し、一献参ろうか」


 突然柳沢殿が酒宴を提案してきた。

 流石の大成も面食らう。


「いや……ありがたいが、ご辞退申し上げる」


「……そうでござるな。この屋敷の酒は飲まぬほうが良いな」


「い、いや。左様なつもりは……」


 過去の毒殺に引っ掛けた柳沢殿の戯れであった。見事に大成は一本取られる。

 二人は再び笑い合った。


「……では、拙者はこれで。夜分にご無礼仕った」


 一頻り笑った後、大成は辞去を申し出た。


「……そうか。立場上引き止めまい」


 柳沢殿は承知し、大声で家臣を呼ぶ。

 その声を主の危機だとでも思ったのか、火事場に駆けつける如き勢いで家臣が集まってきた。中には刀を抜き払っている者もいる。


「痴れ者! 客人のお帰りじゃ! 仕舞え!」


 殿様にまたしても叱られた家臣たちは、ここでやっと大成を客と認めたようだ。これ以上お叱りを受ける前にと、大成の手に大小が返される。

 柳沢殿は家臣たちを再び下がらせ、自ら大成を玄関口まで送った。


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