第51話 約束

「いやじゃ! わらわも戻る!」


「春……」


 大阪に着いてしばらくは長崎屋の息がかかった船宿の二階に身を潜めていたが、ついに大成が次の行動に移ろうとした。

 だが、これまで常に行動を共にしてきたお春を大阪に置いていくと宣言したため、少しばかりもめることになる。


「これからは更に危険になる。俺一人のほうが身軽でいい」


「わらわは邪魔か? 足手まといか?」


「まあな」


「おい、そんなはっきり……」


 あのお春が泣き出しそうな表情になっている。つい情に絆されて肩を持ってしまった。


「ならばもう明の復興などどうでもよい! 大成も帰るな!」


「春……」


 お春はついに泣き出して大成に抱きつく。

 本音が出た。

 これまで鄭成功たちの妄執に従って行動していたように見えたが、幼い身で海を渡ってきたことといい、単に大成と一緒に居たかっただけなのであろう。人前で公主だと名乗るのもこの娘にとってはママゴト遊びと変らないのかもしれない。


 健気な。私は今更ながら数奇な運命のお姫様に同情する。


「春。俺は、鄭大成は天地会の人間だ。一度誓いを立てたことは最後までやり遂げねばならん。わかってくれ。それに、ここには義兄弟の門左衛門殿がいる。春も一人ではない」


 いつも思うが、義兄弟の誓いなど立てた覚えは無かった。が、さすがに口にできる状況ではない。済し崩しに義兄としてお春の面倒を見なければならなくなった。

 勿論、お春を守り育てること自体に異議は無い。


「春殿。大成もこう言っている。我々はここで帰りを待とう。なに、すぐに帰ってくる」


「……本当か? すぐとはいつだ? 三日か? 十日か?」


「無茶を言うな。一国の存亡がかかっている。ジジ様に綱吉公の念書を見せ、さらに呉三桂に日本の出兵時期と連携させねばならない。こちらの将軍が代替わりしてすぐに出兵したとしても、あと一、二年はどうしてもかかるだろう」


「二年……」


 泣き顔のお春はさらに強く抱きついた。二年もの間、兄のように慕ってきた大成と別れなければならないのは辛い。そう身体で訴えている。

 それは大成にも、そばで見ている私にも伝わった。


「……仮に春を台湾に連れ帰ったとしても、俺はあちこち、大陸を飛び回らねばならない。結局台湾の父上の所に置いておくことになる。それに、台湾にも不穏分子はいる。大阪のほうが安全だ」


 確かに。

 昔のことだが、鄭成功が暗殺されかかったのは自分の縄張りにいるときではないか。清国に投降しようとする人間にとって、お春の存在は格好の手土産になる。正体が露見しては鄭成功以上に危険な立場だ。


「俺が台湾に戻ったとわかれば、日本に来ている清の犬どもも戻る。さらに安全になるだろう」


「なるほど。確かにそれなら安全だ」


 始めは江戸脱出どころか日本脱出までさせられるのではないかと冷や冷やしていた私だったが、どこにいてもそれなりに危険のあることがわかった。

 何とも恐ろしい世界に首を突っ込んでしまったことだ。

 後悔はしていないが、命は惜しい。


「春殿。私と一緒に大成を待とう。きっと約束を守る男だ。私より長い付き合いの春殿のほうがわかっているはずだ」


 私は、大成に抱きついて肩を震わせているお春に力づけるように説得した。


「……わかった……待つ……」


「そうか。いや、これで安堵した。いや、よかった」


 大成はこぼれんばかりの笑顔でお春の頭を撫でた。お春は複雑そうな表情である。


「……待つから、わらわを嫁にしろ」


「なに?」


 不意にお春が妙な条件をつける。大成は反応に困った。


「嫁にするか、連れて戻るか、どちらか選べ」


「……わ、わかった……よ、嫁にする……」


「そうか。なら待とう」


 背に腹はかえられぬ大成は、お春の条件を飲むしかなかった。

 ここでお春はやっと泣き止んだようだ。

 生死に関わる状況の中、何ともほほえましく、私もホッとする。


「で、では義兄上。春を頼む」


「ああ。任せろ。何しろ私は父親だからな」


「……父上と呼んでほしいか? 信盛」


 涙を拭いながらのお春のセリフに、私たちは大笑いする。江戸を出てから始めての愉快な一幕であった。

 だが、その楽しさもまもなく失われる。


 大成は長崎屋の船で長崎に向けて出発してしまった。そこから本拠地台湾に向かう手筈である。

 見送ったお春は、やはり泣いていた。私はぎゅっと繋いでいた手に力がはいる。


 《守ってやらねば……》


 そう改めて思った。





 私は暗く沈んだお春を連れて、長崎屋の伝手で見つけた町の一軒家に入る。


 天地会が密かに、策とわからないように、明国の密使が明の公主を連れて台湾に戻ったと噂を流してくれたおかげで、とりあえずお春の身辺は無事になっただろう。

 あとは大成が戻ってくるまでここで暮らすだけだ。


 だが、甲府宰相様の一件がある。館林藩に見つかったら、今は取り決めがあるかもしれないが、いつ気が変って口を封じられるかわかったものではない。身を潜めておくことに如くはない。

 幸い、乞胸頭にいただいた二十五両と、これまで講釈で稼いだ数両が手付かずのままであった。お春も大成から預かった為替などかなり持っているので、十年は楽に持つ。


 杉森吉次郎信盛は佐々木門左衛門と名を変え、養女のお春と街中の一軒家に引っ越しの運びとなる。


 大の大人が普段外に出ないことで回りを不審に思わせないために、戯作を書いていると触れ込んだ。

 これは嘘ではない。大成のやり方を見習ってみた。江戸での経験が二重に役に立つ。確かに効果的だ。罪悪感もあまり感じない。偽名も雅号と捉えれば堂々としていられる。


 大阪での新しい生活が始まった。



 ◇◇◇◇




「へーっ! 先生の門左衛門いうお名前、そのときに」


「はい。そうです。結城殿が適当につけた名前でした」


 ここも大阪。場所は道頓堀。以前住んでいたところからは離れているが、江戸や明国に比べればご近所の話になる。

 二人は俄然私の話への興味が深まる。


「近松いうお名前はいつから?」


「しばらくは売れない戯作者してましたが、天和三年に『世継曽我』いうのを京の宇治座で上演したときでしたかな。思いのほか売れたんで名前を出そうということになりましてな。お春はンがつけてくれはったンです。何でも結城はンの幼名に『近い』とか。」


「世継曽我。知ってますがな。竹本座の旗揚げの演目でっしゃろ」


「流石は座長。古い話をよくご存知で。そうですな、翌年の貞享元年のことでしたな。竹本義太夫はンと意気投合しましたのは」


「お師匠はンと……」


 今は亡き師のことを思い出したのか、政太夫は神妙な顔つきになる。


「ええ男やったで。私より二つ上で、旗揚げ当時は三十……三やったか。政太夫はン、あンたもそれまでには『義太夫』の名を継げるようにならんとな」


「へえ! きばります!」


 話はそれたが、大事な竹本座の後継者に関することだ。疎かにはできない。


「それにしても……」


 座長が話題を戻そうとする。


「お姫様が大阪で暮らしてたとは驚きですな。てっきり明に戻ったと思いましたが」


 うまく浄瑠璃の内容に合わせていた。流石は私の弟子、などと言えば自画自賛になってしまう。


「戯作は戯作です。それに、ちゃんと結城はンは戻ってきましたで」


「ほう。仕事はうまくいったんでっか? ん? いや、ちゃいますな。明は結局なくなったんでしたな。ほな、どういうことで……」


「それはな……」


 私は昔語りを続ける。


 

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