第42話 館林宰相



 

「ふーっ、寿命が縮んだ……」


 浜屋敷の外に無事出られた私は、今日も命があることに感謝し、深くため息をついた。

 すると、そこに声をかけてくるものがある。


「もし、杉森殿ではござらぬか?」


「は? そちら様はどなた様で?」


 夕暮れの中姿がハッキリしなかったので一瞬大成の仲間かとも思ったが、見るところ城勤めのお侍のようであった。


「拙者、柳沢と申す者。先ほどの講釈、見事でござった」


「左様仰せられるとは、お侍様は宰相様のご家来で? 何か私に御用でも?」


 私の講釈を聞いていたということは、座敷の上のおエラ方でなくとも庭に控えている近習たちの一人かもと私は簡単に考えた。


「いや、宰相様の家来には違いないが、拙者は館林藩の小姓組番衆。本日は館林宰相様が欠席なさることを通達に参り、甲府藩ご家老様のご好意で拝聴させていただいた」


「そ、それはそれは……館林藩の……」


 私はこの二十歳そこそこの若侍の素性に驚かざるを得ない。本人に対してではなく、仕えているお家にだ。

 館林宰相様といえば、徳川綱吉公のことである。この甲府藩と同じく当代様の弟君で、先代将軍、家光公のお子ではないか。


 そしてこの柳沢という若侍、この時分こそ小役であったが、後年、柳沢吉保と名乗り、上様御側御用人というとてつもない権力をほしいままにした人物である。

 そのことは当時の私は知らない。ここで出合ったことが私と大成、いや、明国の運命までも左右することになるとも、人の身である私は思いもつかなかった。


「立ち話もなんですから、ご同行願えませぬかな?」


「ど、どちらへ……」


「無論、我が館林藩上屋敷にでござる」


「…………」


 断ろうかどうか迷っていると、周りにお仲間らしき侍が集まっているのに気がつく。

 とても断れる状況ではない。

 私は力なく頷いた。



 「おお。ご快諾、かたじけない。では参ろうか」


 数人の侍に前後左右を囲まれ、不安のまま私は歩かされた。

 外堀を北に向かい、常盤橋を越えて神田橋まで来ると目的地が見える。館林藩上屋敷、通称神田御殿である。

 浜屋敷に次ぎ、またもや大大名屋敷を訪れることになるとは、私の運勢は一体どうなっているのか。大成と関わってからこちら、数奇としか言いようがない。


 《あ、大成といえば、このことは何か計画の内だろうか?》


 連絡も取れぬまま、私は御門内に通される。

 そして、浜屋敷のようにお庭ではなく、屋敷内に入らされる。


 《たぶん行商人あたりが私を見張っているだろう。大成にも連絡が行っているはずだ。しかし、わかったところで大成一人では中に入れまい……》


 小さな、といっても貧乏浪人にとってはかなり大き目の部屋でしばらく待たされている間、私は最悪の場合、助けも来ないことを覚悟していた。


「お待たせいたした。館林宰相様のお成りにござる」


 襖が開き、先ほどの柳沢という小姓が入って来たが、有り得ない発言をする。


 しかし、それは事実だったようで、後ろから小柄な武士が入ってきた。


「……はっ、ははーっ!」


 私は一瞬ポカンとした後、身体を後ろに引きずり平伏した。

 庭でもなく、謁見の間でもないのはこの際どうでもよい。だが、わざわざ私のいる部屋に上様の弟君が足を運ぶとは、武家の常識では考えられないことである。


「顔を上げよ」


 甲府宰相様と同じような甲高い声が聞こえてくる。

 私は恐る恐る顔を上げた。少し感覚が麻痺しているのかもしれない。今回は伏目がちにしながらだが、お顔をまじまじと拝見できた。

 三十の坂は越えているはずだが、少年のような体格に面長のお顔、かなりお若く見える。そういえば隣に控えている柳沢殿もかなりの細面で、武士というよりは役者のようである。


「宰相様が貴殿をお呼びしたのは二つの理由がござる」


 宰相様が上座に腰を落ち着けると、柳沢殿のほうから本題に入った。

 無論、そうでなくては居心地が悪い。


「一つは杉森殿の講釈を宰相様にお聞かせ申し上げ奉ることでござる」


「はっ、稚拙でございますが、喜んで」


 講釈師として座敷にお呼びがかかったと考えれば不思議ではない。

 私は即答する。


「もう一つは……」


 柳沢殿は少し間を置いた。


「明の使者とやらに宰相様が謁見なさりたいとご所望である」


「そ、それは……」


 どこから嗅ぎつけたのかと恐れ入る。今日の老中たちも甲府宰相様からは聞かされてはいなかった様子であるのに。


「いや、ご心配には及ばぬ。館林宰相様も甲府様と同じく忠臣にいかい興味をお持ちになられておられる。話によっては協力も吝かではないとの仰せである。悪い話ではなかろう」


「……わ、わかりました。お約束はできませんが先方に確認してみます」


「良しなに頼む。それでは宰相様がお待ちかねである。講釈を」


「はっ。それでは失礼いたして――」


 とりあえず要求の一つは期待に応えようと私は弁舌を振るう。

 一刻ほどの講釈の後、館林宰相様は私の話に満足なされたご様子であった。ここでも首がつながったと、最後にお褒めの言葉をいただいたときにしみじみと感じる。


 驚くことに、夜も遅いからと柳沢殿に屋敷に泊まることを勧められた。

 慌てて断ったものの、どうしてもと言って聞かない。宰相様の前であったのでこれ以上我は通せなかった。

 見たこともない夜具、掛け布団などというものが敷かれた部屋に連れて行かれ、その後一人にされる。

 いっそ牢屋にでも入れられたほうがましだと思いつつ、私は布団ではなく畳の上に寝そべった。

 嫌でも眠気が来る。私は大名屋敷で一晩明かすという、乞胸にあるまじき経験をした。



 




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