第40話 春2
ここからは大成に聞いた、鄭成功の死後とされている、知られざる足跡である。
大成が三つのころというから、今から十五年ほど前になるが、毒で冒された身体もようやく癒えた鄭成功は、鄭鉄人と名乗り天地会、秘密組織の活動に専念する。
天地会の名目上の統領、陳近南こと陳永華と連携しながら、大陸南部に住む明の遺民たちのもとを根気よく回り続けた。
漢人たちは、心からというわけではないだろうが、表面上は清国に服従している。庶民にとって、朝廷が替わろうが何しようが、それほど関わりがない。むしろ、万暦帝以降、明の朝廷から塗炭の苦しみを味わされてきた分、新しい朝廷に期待している人々もいるくらいなのだ。
鄭成功たちの活動は困難を極めた。
だが、諦められない。
数年後、澳門(マカオ)の地を訪れた鄭成功は天地会の構成員にしかわからない目印を見かけた。
「これは……助けを必要としている者がいるのか」
白地を半分赤に染めた手拭いが街道沿いにある茶屋の軒に結び付けられていた。
鄭成功は茶屋の主人に、辮髪で清国に服従している様子ではあるが、仮の姿だと判断し、話を聞くことにする。
「親父さん、茶をくれ。今日摘んだのはいらない。明日摘んだ茶葉だ」
「へい。今日のは苦くて出せません。お客さん、お目が高い。明日の茶葉は何れの茶葉をご所望で?」
「台湾だ」
「ほう。名産地ですな」
鄭成功が天地会の暗号を以って話し掛けると、茶屋の主人も暗号で答えてきた。
今日は『清』と同音、明日は『明』のことである。
茶屋の主人は鄭成功が、今は反清勢力の中心地である台湾から来たことを悟ると、ここに来た目的もわかったようで、すぐに軒の手拭いも回収した。
「客の忘れ物ですが、取りに来ないんで困っております」
「ならば私が届けてやろう」
「ありがとうございます」
こうして鄭成功は問題の人物の所在を聞きだすことができた。
やっと辿り着いたのは裏路地にあった一軒の小さな家。
「ご免、私は旅の者だが、茶屋の主人から届け物を預かった」
「まあまあ、ご苦労様です」
応対に出たのは中年を過ぎた婦人である。なにやら病んでいるらしい。
鄭成功はここでも暗号を使い、身分の確認をした。
中に招き入れられ、驚くべきことを婦人の口から聞かされる。
「……天地会の方がやっと来てくれました。これで私も黄泉に旅立てます」
「ご婦人、助けを求めてその言い草は……」
「いえ。助けが必要なのは私ではありません」
「では、誰が?」
「……私は銭氏。勿体無くも永暦帝さまの第二皇子が乳母にございます」
「えっ!」
絶句する鄭成功をそのままに、命の尽きかけた婦人は語り続けた。
「肇慶の都が清の軍勢に襲われたとき、必死で第二皇子を堂兄(同姓の従兄弟)の住んでいたここまでお連れ致しました。皇子はもう
「何と……では未だご存命なのか!」
「いえ、残念ながら今年流行病でお亡くなりに……」
「何ということだ。私がこうして生きながらえたと言うのに! 何故もっと早く知らせなかった!」
歯噛みする鄭成功を不思議な思いで見ながら銭氏は一部訂正する。
「もともと皇子は名乗り出るつもりはありませんでした。私がお呼びしたのは皇子が亡くなってからでございます」
「なに? で、では助けが必要なのは?」
「私の堂兄の娘が皇子に嫁ぎまして、子を生みました。皇子の、いえ、永暦帝さまのお血筋でございます」
「何と! まだ大明国の血が! そ、それでそのお方はどっ、どちらに!」
慌てる鄭成功を婦人は疑り深い目で見る。いや、心配そうな表情だった。
「……姪も子を生むと皇子の後を追うように亡くなりました。皇子の意思もあり、その子まで争いに巻き込ませたくはありませんが、私ももう長くはございません。ですから普通の子供として育ててくれる方を探しております。あなた様がその子を戦さに利用しようと言うのなら、どうぞお引取りください……」
どうやら鄭成功の言動で子供の将来が不安になったようである。
その鄭成功、これは小事ならぬと判断し、正体を明かすことを決意する。
「乳母殿、私も秘密を打ち明けよう。それは黄泉とやらまで持っていってもらいたい」
「何でございましょう?」
「私は鄭成功。訳あって死んだと見せかけている」
「おお! 国姓爺殿! 生きておいでだったか!」
婦人は、明の関係者なら誰でも知っている名前を聞いて驚いていた。弱った身体で椅子から立ち上がり、床に跪く。
「左様。私も『朱』の姓を賜った身。いわば身内だ。乳母殿、その子を私が預かることを認めてくれぬか?」
鄭成功も椅子から立ち上がると、婦人をやさしく抱え上げ、椅子を勧めながら最終確認をする。
「皇子のご意思に背くことになりましょうが、国姓爺の仰せとあらば仕方ありませぬ。どうか春麗を、公主をお頼み申します……」
「おい! しっかりしろ! おい! 乳母殿!」
椅子に座ったまま項垂れてしまう婦人。
鄭成功は肩を揺するが、それっきり何の反応もなかった。
どうやら今まで使命感だけで命を長らえてきたのが、国姓爺と出合ったことで安心したのだろう、穏やかな最期を迎えたのだ。
その直後、奥の部屋から火が付いたような、赤子の激しい泣き声が聞こえてきた。
まるで乳母の最期がわかったような泣き声である。
鄭成功は戸を押し開き、中に踏み込んだ。
「おお、公主……」
粗末な床(寝台)に寝かせられた赤子。盛んに身を振るってあらん限りの力で泣き叫んでいる。
鄭成功はそっと抱き上げる。
「公主。これからはジイが一緒だ。泣くな」
鄭成功があやすと、不思議なことに赤子はピタリと泣き止んだ。
ふと気づくと、赤子を包んでいるのは黄色の服。龍の刺繍があり、皇帝のみが着ることのできる『黄龍袍』であることがわかる。
皇子といえど着ることはできないが、万一に備え永暦帝が皇子に与えたのか、それとも混乱の中乳母が持ち出したのか、はわからない。
だが、間違いなく明国皇帝の血統を証明できる逸物であった。
鄭成功は一層大事そうに赤子を抱える。
明国に殉じた偉大な乳母を盛大に弔ってやりたかったが、お互い身分を隠す者同士、茶屋の亭主に始末を頼むことにして鄭成功は密かにその町を出る。
行き先は本拠地台湾。
そうして春麗と呼ばれる大明国皇帝の最後の血統は、大成の家に預けられることになった。
事情を伝えられたのは腹心の陳永華と大成親子のみ。大成は当時五、六歳であったから、妹ができたぐらいにしか思っていなかったそうだ。
春麗は鄭成功の庇護の下すくすくと育つ。
大成の父からは、皇帝の孫娘と知ってのことか、日本の武家言葉を教え込まれる。母からは明の歴史を教わった。生まれつき頭が良いのか、春麗は幼いながらもすべてを吸収したという。
そして三年ほど前、大陸では後世三藩の乱と呼ばれる反清の
これが正真正銘最後の機会だと、鄭成功が大成を日本に派遣したわけである。
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