第37話 別れ
「ひゃーっ、黄門様や! 座長! 黄門様や!」
「う、うん……」
実は当時の官位は確か『中将』様だったはずだが、当節は『水戸中納言』様のほうが通りがよい。
まさか御三家のお一人を浄瑠璃や歌舞伎にしてしまう人間は当節いなかったが、それでも上方者の座長や政太夫もお名前を、唐官名の『黄門』という通称を存じ上げていた。太閤秀吉殿下に匹敵する知名度である。
このくだりには二人とも、鄭成功の登場のくだりのときよりも興奮する。
「先生はとんでもない人らと知り合いでんなあ! ひょっとして、公方はンとも……」
「ですから、知り合いやない言うてますやろ」
私は、何度目になるかわからないが、同じようなセリフを繰り返す。おかげで政太夫も座長もその点については聞き流しているようであった。
楽しければ良い。そんな空気である。
「で、先生。水戸屋敷でも講釈しなはったんで?」
「いえ、とてもそんな気分やなかったンです。わかりますか?」
「わかりますで。私かて、小屋にお忍びでならともかく、お屋敷に呼ばれて殿サマの前で語るいうことなったら、心の臓がもちまへんわ」
政太夫も私の話を聞いてやっと私の当時の心情を理解してくれたようである。
といっても、この場だけだろうが。
「で、先生、黄門様と鄭成功はンはどんな話をしたんでっか?」
「はい、実は大した話はなかったンです」
「え? その取り合わせででっか?」
あからさまにガッカリする政太夫。
「確かに歳も同じぐらいで、気が合いそうでしたけどな、結局黄門様には自分が鄭成功だとは名乗りませんでした。ただ舜水先生の昔馴染みで、明の密使だと、黄門様の推測が正しいことは伝えてました。もちろん目的も」
「なんでやろ?」
「もちろん、舜水先生に気を使ってでしょう。既に反清の活動から身を引いたお人です。御三家お抱えの学者だからと利用するのは気が引けたのではないでしょうか」
「妙な仏心が出たゆうことでっか。サイショウさまに黄門サマ、二人とも味方にしてたらよかったンやないでっか?」
「ほんに、今思うとそうですな」
政太夫の感想は的を得ていた。歴史の一齣は割りと意外なところでその方向が決まってしまうというところだ。
だが、当時水戸様は文化振興に積極的な方として知られていたため、鄭成功もあえて重視しなかったとも考えられる。
私にはその判断が正しかったかどうか、今なおわからない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
とにかく、歴史的にはまったく記載されない、高名な人物同士の対面は特に盛り上がることもなく終了する。
水戸様は援軍の件に関わらないということで話は結した。
対面自体が予定外だったので、然したる失望もなく一同は、すっかり夜も更けたころ水戸屋敷を辞する。
「国姓爺殿、まだお続けるおつもりか?」
見送りした舜水先生が、中納言様のお帰りになられた後小声で鄭成功殿に聞いた。いや、諦めるように建議したというべきか。
「朱姓を賜ってしまっては今更逃げられぬ。おっと、お主も『朱』であったな」
「おはずかしい……」
「いや、お主を責めているのではない。他人にどうこうしろと指図するつもりもない。これはワシが勝手に決めた信念なのだ」
「信念……」
その言葉は、年老いたとはいえ、男の心にずしりと響いたらしい。舜水先生はその後無言となる。
鄭成功殿もそれ以上は何も言わず、駕籠にお春とともに乗り込むと、水戸家の中間たちに担がれ屋敷を出て行く。
私も舜水先生に一礼し駕籠の後に続く。
そのときの舜水先生の表情は形容しがたかった。
《後悔か。或いは自己嫌悪か。それとも昔の闘争心が沸いたのか。どれにせよ、もう過ぎたことなのだろうな……》
私はそんなことを考えてながら大名屋敷の立ち並ぶ通りを歩いていた。
事実、その数年後、大成や鄭成功殿の信念の結果を見届けられず、舜水先生はお亡くなりになられる。享年七十八歳。反清復明はともかく、水戸藩の学問に、いや、我が国の学問に大きく貢献なされた方であった。
その後私は鄭成功殿たちと上野辺りで別れる。
さてこれからどうなるのだろうか?
あくまでも非公式ではあったが、大成たちが希望通り幕府の高官との謁見を果たし、その上水戸屋敷まで訪れたその日、私は命がまだあったことに心から感謝した。
ぼろぼろの長屋に帰ってきたのは夜も更けてのことだが、着くなり私は倒れこむようにして古畳の上に寝そべる。
街の匂いだ。そんなことを、たった半日留守にしていただけで考えてしまうほどの衝撃を受けていたのだろう。
それが証拠に、次の日は長屋の外に出なかった。何もする気が起きなかったのである。緊張の糸がぷっつりと切れたかのように。
数日後、やっと日常を取り戻し、辻講釈に出かけた際、行商人を通じて大成からの呼び出しがあった。
一部とはいえご公儀に正体をバラしてしまったのだから、今まで以上に慎重になっているのはわかる気がするが、それ以前に、私の役目はもう終わりではないのかという思いもあった。
幕府のお偉方が協議をして、結果を大成たちに伝えるときに私をその繋ぎ役にするつもりだということも知ってはいるのだが、お偉方の話し合いなぞいつになったら結論が出るのかわかったものではない。
それに、すべての秘密を知った私の存在が邪魔になって、私を始末しようとしているかもしれない、などと陰謀とはまるで関わりない世界に住んでいた私は、世の中の庶民が面白おかしく噂するように妄想していた。
逃げようなどとは思わなかった。
それが証拠に、酷い妄想の割には私の足取りは軽かったし、おそらく、表情もニヤけていたかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます