第34話 春
大阪は道頓堀、三十数年後の今、私の口から昔語りを聞いていた座長と政太夫の二人は驚愕の声を上げていた。
「せ、先生……ご、御本尊に会ったンでっか……」
「し、死んでないゆうんは聞いてましたが、日本に来てたンで……」
この二人の驚きは、私が甲府宰相様にお会いしたというくだりよりも更なる衝撃があったらしい。
庶民から見れば、確かに幕府の要人は雲の上のお方であるが、それだけに馴染みが薄い。どこかのお大尽とさほど変らない感覚なのである。
だが、歌舞伎、浄瑠璃の登場人物は、架空の人物であれ、実在の人物であれ、親しみを持っている。
例えていうなら、曾我物の曾我兄弟、義経物の牛若丸や弁慶。
彼の者たちに実際に出会ったことがあると言われれば驚く他はない。現在ありえるのは赤穂藩討ち入り物の登場人物たちくらいであろうか。
それが、今まさに自分たちが公演したばかりの人形浄瑠璃『国性爺合戦』の主役に、書き手である私が会っていたというのだから、二人の驚きももっともである。
「すんまへんなあ、驚かせるつもりはなかったンですが……」
「ま、孫だけでも仰天でしたのに、御本尊がて……」
「宰相様も、そうやって驚いておりました……」
私はあの日の場面を詳しく説明し始める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「い、今、何と……」
「鄭成功にござる。憚りながら、国姓爺と呼ばれる本人にござれば、以後見知りおきくだされ」
一瞬この部屋の時間が止まってしまったかのようであった。私は聞き違いかと、隣にデンと座っているこの髭の老人を、いや、聞くところによるとまだ五十半ばだそうだが、その髭のせいで老成している御仁をまじまじと見てしまった。
その思いは宰相様とご家老も同じだったようで、少なくとも生存の件は聞かされていた私などよりも驚きは大きいようであった。
「し、死んだと聞くが……」
「世間では。しかし、それは敵を欺く窮余の策でござった」
「き、聞こう。近う寄るがよい」
ご家老の止めも間に合わず、大成たちは宰相様の許しだからと、ずんずんと奥の部屋に入り込む。
私は後ろに着いて行くしかない。
指呼の間といえばよいのか、武家の世界では考えられぬほど近づいた。もし、我々が刺客だったらどうするつもりなのかと、当事者の私が心配するほどに。それはご家老も同じだったようで、蒼い顔をしている。
鄭成功を名乗る老人は、大成が私に語って聞かせてくれたように、自分が死んだとされている事件について宰相様に説明申し上げた。
暗殺されかかったと聞いて宰相様もひどく恐れておいでのようだ。
「そ、そうであったか。ご老体。生きていて何より」
「お言葉、痛み入り申す」
「で、ご老体自らのご使者の役とは、如何なる用件か?」
宰相様のこの言葉により、まさに本題に入ろうとする。
私は固唾を呑んで聞いていた。
「その件にござる。実は日本国に援軍の要請の儀あってまかりこした。伏してお願い申す」
「そ、その件なれば返答できかねる」
物語の英雄に頭を下げられた宰相様は、慌てはしたものの、はっきりと断る。
「我が父、鄭芝龍のころより数十年、こうして日本に使者を遣わしたものの、なしのつぶてあった。今清の国は奸臣呉三桂の造反を内に抱え、これが最後の機会にござる。それがしも老いた。この機を逃すと後がない。後生でござる。なにとぞ援軍を」
断られてもなお鄭成功は請願を続ける。
宰相様は困ったように言い訳をはじめた。
「し、しかし……我が国は明とは国交が……」
「明の再興が叶った折には改めて国交を結び、交易にも力を入れられまするぞ。薩摩をはじめ、尾張などもその条件で出兵に同意してくださった。後は幕府の一言でござる」
「だ、だが、明の皇帝の血筋は絶えたはず。そのほうが皇帝にでもなるつもりか……」
「甲府宰相とやら。皇帝の血は絶えてはおらん」
ここまで黙っていたお春がいきなり、それも宰相様に対して敬意の欠片もない口を利く。
「は、春殿!」
「そこな娘! 何たる口の利き方! そこに直れ!」
私が慌てて止めようとするが間に合わず、ついに冠に来たご家老が片膝をあげて怒鳴った。手が腰の脇差にかかっている。
私は思わず平伏してしまった。
だが、お春は平然としたものである。
「と、ところでご老体。その娘御は? やはり孫であるか?」
驚きの連続と、お春の奇妙な存在感ですっかり聞きそびれていた宰相様は、鄭成功の執拗な援軍要請に辟易していたようで、これ幸いと話題を変えようとする。
主のその態度を見て、ご家老は渋々と引き下がる。
私もホッと胸を撫で下ろした。
が、本当に驚くのはこれからであった。
「このお方は我が孫にあらず。畏れ多くも、先の大明帝国皇帝陛下、永暦帝が第二皇子の忘れ形見。名を永寧公主とおっしゃられる。此度、我が外孫、大成と共に日本へ直々に援軍の要請に参った次第」
「なんと……姫……いや、内親王にあらせられるか……」
ほとんど消えたも同然の国のとはいえ、皇女自らの来訪に驚きを隠せない様子の宰相様であった。
ご家老も、先ほどの剣幕はどこに行ったのか、再び顔を青ざめさせている。
私も、お春には何か秘密があるとは思っていたものの、鄭成功の生存と出現よりも驚かされることがあったとは露ほども思わなかった。
「信盛。すべて教えると言うたであろう」
恐れ入って声も出ない私に、悪戯そうな目を向けるお春。いや、姫様であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「明のお姫様! 先生! そんなお人とも知り合いでっか!」
「知り合いやないて何度も言ってますのに。政太夫はンはちいとも聞いてくれませんな」
私はそう繰り返したが、何度も顔を合わせ、共に大名屋敷に乗り込む仲を知り合いと取るこの二人の気持ちはわからなくもない。
だが、明の国はもうないのだ。つまり、姫君もいないことになる。
そういう考え方はおかしいだろうか。
「それにしても、国姓爺に、その孫、その上お姫様が大名屋敷に上がりこんで、殿様も驚いたことでしょうな」
「それはもう……」
私の考え方がどこにあるのか、今は関係ないらしい。二人はその冒険譚に夢中のようであった。
私がこうして今も五体満足であることが、話の方向に安心感も持たせているらしい。仕切りと続きをせがんでくる。
「それでは続きと参ります。どうかお聞きください」
「よっ、近松屋!」
「政! 失礼なやっちゃな……」
一応は窘めたものの、座長も目を輝かせている。
時間は再び数十年前へと戻るのであった。
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