第32話 大成出陣
七月の蒸し暑い夜。そろそろ寝ようかとしているところに、私の家を訪ねる者があった。
建てつけの悪い表戸を開けてみると、暗闇の中に立っていたのは武士。それも甲府藩家老であった。駕籠も、共の者も連れていない。
町屋の人間、それも裏長屋に住まう者にとって、これほど驚くことはない。
「こっ、これはご家老様。こんな時分に、それもこんなむさ苦しい場所にお一人でお出でなさるとは……」
「……申し渡すことがある」
「な、なんでございましょう……」
何の話かはわかっていたが、一応聞いてみる。
「三日後、申の下刻、浜屋敷に出頭せよ。無論、件の鉄人とやらも同行させてな。宰相様のご意思である」
「はっ。必ずそのように」
件の鉄人、という言葉は耳慣れなかったが、おそらく大成が父方の家族を慮り、偽名でも使ったと解釈する。迷いなく返答した。
「では、間違いなくな。ワシは戻る。ここは臭くてかなわん」
「は、どうも申し訳ございません……」
私は長屋の入り口まで見送った。そこには駕籠と共の者が控えている。ご家老は駕籠に乗り込むと逃げ出すかのように共の者を急がせた。余程下層町民の住まう場所の匂いがこたえたのだろう。
しかし、と私は闇に消え行く駕籠を目で追いながら考えた。
こんな用件は中間でも小物でも走らせれば済むことだ。何も家老直々に出張る必要はない。殿様の厳命というのもあるのだろうが、内容が内容だけに秘密を重んじるということだろうか。
そういえば、書状を宰相様に渡してから十日ほどになるが、私はどうやら付け回されているらしい。講釈で各辻を回るたびに、サムライの影がちらついている。
あれから大成とも会っていない。一度お春の姿を見かけたが、私に付け文を届けただけである。
その他にも、例の行商人らしき人物が同じく密かに文を渡してきた。
内容はどちらも『次に浜屋敷を訪れる日時が決まったら、文にして行商人に渡せ』というものであった。
ご公儀のお偉方と会う前に、密入国の咎で仲間諸共捕まりでもしたらこれまでの苦労が水の泡になるのは確かだが、それにしても秘密の組織とやらの芸風には苦笑せざるを得ない。
私は家に戻ると、日時の件を小さな紙にしたため、講釈用の本に挟む。
そして灯りを消し、横になった。
次の日、講釈が終わると、まるで昨晩のことを知っているかのように、講釈を聞きに来ていた行商人風の男に目配せをする。
心得た行商人は私に心付けを渡す体で近づいてきた。
私は、何気なく銭を受け取ると、その手に紙切れを握らせる。周りの人が何かに気づいた様子はなかった。遠目で見ている甲府藩のサムライも気づかなかったであろう。
それから二日後。ついに運命の日がやってくる。
私はその日は一日講釈の仕事を休むことにする。さすがに緊張は隠せない。
日も傾いた未の下刻、私はついに狭い長屋を後にする。戸口を踏み出した足は不覚にも震えている。その震えと戦いながら足を進めた。
浅草から浜御殿まではちょうど二里。ゆっくり歩いたとしても一刻もかからない。
「おや、今日はバカにゆっくりだねえ。それに、いい着物着てるじゃないか」
「え、ええ。これからお座敷に……」
「へー、売れっ子になったもんだ。しっかりおやりよ」
「はい。そ、それでは……」
辻講釈途中に呼びつけられるのと違い、今回は日時指定だったので、出かけるときから身なりを整えていた。勿論脇差も。それで長屋のおかみさんに珍しがられたのだが、それで少しは気が晴れた。
大成に甲府宰相様を引き合わせるだけが私の役目だと考えると、もうすぐその役目も終わる。更に気が楽になった。無論単なる気休めにしか過ぎないが。
そんなことを考えながら歩いていると、例の行商人とすれ違う。
「おっと、旦那、御免よ!」
ぶつかりそうになり、向こうが謝ってくる。その一瞬で文を渡された。
おそらく最後の指示だろうと、さりげなく目を通す。
「面倒なことを……」
そう思った私だったが、仕方なくその文を袂に始末し、先を急ぐ。
甲府浜屋敷。いつ見ても大きなお屋敷だ。早速裏門をほとほとと叩く。小口が開けられ、私の来訪を知っていた小物が中に入れてくれる。
「連れがあると聞いたが……」
庭を歩きながら小物が聞いてくる。
「実は、迎えがほしいと言われて……」
「そりゃ結構なご身分だな」
「いや、駕籠カキを貸してほしいと……」
「ああ、そういうことか。なら、聞いてみな」
「そういたします」
少し早く着いたらしい。宰相様とご家老はまだお城から戻っていないと、屋敷の用人らしき武士から言われる。
私は大成からの指示を、仕方なくこの用人に伝える。
「うーむ。仕方あるまい。宰相様のお戻りになられる前に連れてこなければ」
「ご造作おかけいたします。すぐ近くですので」
「なれば徒歩にてよかろう」
「身どもには何とも……」
「そ、そうか。致し方ない」
私が浪人であるのはわかってはいたが、連れがどのような人物かは聞いていないこの用人は面倒は御免とばかりに私の、大成の要望を聞くことにしたらしい。
私は入ったばかりの裏門を出て、近くの寺まで屋敷の小物たちを引き連れていくことになる。
その寺が大成が行商人に託し私に指示してきた場所であった。
「杉森殿。こちらでござる」
境内に入ると、駕籠脇に編笠、着流し姿の大成が立っていて、私に声をかける。はじめて会ったときと同じ、如何にも武士らしいしゃべり方であった。
駕籠は、大名駕籠とまではいかないが、引き戸のついたそれなりのものである。
私が考えるに、秘密の組織とやらの者たちがここまで運んできて、顔を見られたくないがゆえに、ここからは甲府藩の者に任せようというところであろう。
だが、中にいるのが大成ではないとすると、一体誰であろうか。
まさかお春ではないだろうな、とも思ったが、主のご帰宅の前に屋敷に戻りたいと考えている小物たちが私を急がせる。
「で、ではお願いします……」
小物たちも自分の仕事をするだけと、中の確認はせずに駕籠を担いだ。
すぐに浜屋敷の裏門内に運び込まれる。
「中の者はたれぞ」
先ほどの用人が誰何してくる。もっともなことだ。
「ご家老のご到着を待っていただきたく存ずる」
「そ、それは……」
今回の件、何も聞かされていないらしい用人は言葉に詰まる。大成の堂々とした態度にも圧された様だった。
しばらくして後、甲府宰相様が屋敷に戻ってくる。裏門側の屋敷入り口で待っていた私たちのところに、用人から報告を受けたご家老が慌ててやってきた。
「その方ら! 一体何者! 駕籠から出よ!」
やってきたのは家老一人ではない。屈強そうな武士の一団が我々を取り巻く。
私は生きた心地がしなかった。
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