第22話 まちぶせ
それから数日後、芝のいつもの場所に駕籠がやってくる。
同心の結城殿の姿は見かけない。
恐れられているのだろうか。そういえば、背の高い、総髪のほうの結城殿の姿も最近見かけていない。
浜屋敷に入ると、私は許可をもらい、お庭の隅で着替えさせてもらった。
先日もらった一両で古着屋で購ったマシな着物と袴。充分武士の姿を取り戻した。といっても伸び放題の月代はすぐには如何ともしがたいが。
庭にはやはり畳と膳が備えてあり、型どおりの辞退と賜席があった上で、私は座に着いた。
三度目ともなると度胸が付くのか、座敷を見上げてみる。
そこには五人の姿があった。
真ん中は勿論宰相様であり、右にお家老、左に関様がいる。あとのお二人はこの前言っていた学者だろうと見当をつける。
この次は何人に増えるのだろうかと、気楽なことを考えられるようにまでなっていた。この武家の格好が気持ちまで変えてくれたのであろうか。
まあ、当代上様の弟君の御前である。それ以上の存在といえば上様じきじきの下向しかない。何人増えても気持ちに影響はなかった。
座敷の方々にそれぞれご挨拶申し上げ、私は襟元を正す。
「では始めさせていただきます。本日語りまするは、十八史略より、南宋は忠臣・岳飛の物語にございます……」
金国に滅ぼされた宋国は南の方に押しやられ、後世、南宋と呼ばれるが、その南宋の猛将・岳飛は一人宿敵金国と戦う。そして奸臣・秦檜の讒言で最期を迎えた。だが、岳飛は最後まで忠義を貫こうと抵抗しない。
「……これにて一巻の仕舞いにございます」
「あっぱれである。岳飛もそのほうも見上げた者じゃ。杯を取らす」
「ははーっ! ありがたき幸せ!」
私は酒と褒美の一両を素直に受け賜る。
宰相様は言葉を続けた。
「杉森。次の講釈はいずれの国の話か?」
「ははっ、明にございます」
「ほう、明か。では、元を追い払う話であるな」
「そ、それは……」
「いや、今は聞くまい。楽しみが減る。そうであろう?」
「全くそのとおりでございます。杉森殿、拙者も楽しみにして待つでござるよ」
「はっ、かたじけない次第でござる!」
「では下がるがよい」
「ははーっ」
宰相たちはそのままその座敷で酒宴を始めるらしい。
私はご家来衆にいざなわれ門の外に出る。
「しまった。着替えを……」
既に通りは薄暗い。
それにこれから街中で講釈を始めるわけではないと考えると、この格好のままでかまわないと判断し、私は道を歩き出した。
「杉森殿」
「ど、どなたですか?」
黄昏。たそかれ(誰ぞ彼)とはよく言ったもので、不意に声をかけられても誰かわからない。
ここは大名屋敷近くの通り。人通りは全くない。
人影が近づくにつれ、やっと誰か見当が付く。
背の高い二本差しが小さな女の子を連れているのだ。あの御仁しか考えられない。
顔の見える距離までお互い近づくと、果たして結城源之将殿であった。連れも、いつもの振り分け髪のお春である。
「お久しゅうござる。ご活躍のようで何より」
「いやいや。本当にお見限りで。そうそう。北町の結城殿という同心に会いましたよ」
「修理之助殿か……」
「嫌なことはされなんだか?」
「春殿。そのようなこと……」
さすがに身内というこの御仁たちに、袖の下を要求されたとは言えない。
「それはともかく。ご同行願いたい」
「今からですか? あの船宿に?」
「いや。この近くだ」
「黙って来るがよい」
「春、黙らんか」
変わらぬ二人の様子に、私はすっかり安心した。
「無論お供いたします。お話もありますし」
「うむ。快諾、かたじけない」
二人は向きを変えるとスタスタと歩き始める。私も後に続くのであった。
「では、杉森殿のご栄達を祝して」
「そんな、大袈裟な……」
結城殿は杯を掲げる。私は恐縮しながらいただいた。
ここは八丁堀近くの料亭。二階から大川が見える。遠くの明かりは霊願島か。
甲府浜屋敷を後にした私は途中この娘御を連れた御仁と出会った。いつも神出鬼没のお方で、今更不思議とは思わない。どうせ私のことを見張っていたに違いない。それゆえそのことには触れなかった。
話があると連れて来られたが、八丁堀に近づき、お身内の同心のこともあって、この辺にお屋敷でもあるのかと思ったら、いつもの船宿と変わらぬような店であった。
幸い、今日はまともな格好であったため、一見の私でもおかしな目で見られることはない。
酒宴が始まり、二人で同時に飲み干すと、すかさず結城殿が酒を注いでくる。
「いや、結城殿、私は……」
「よいではござらぬか。実にめでたい」
「はあ……」
再び飲み干す。
今度は注がれる前に徳利を取った。
「こちらこそ結城殿に感謝しています。さ、どうぞ」
「む、では……」
仕方がないとの表情で結城殿は杯を傾ける。
この隙に私は気になっていた件を持ち出した。
「ところで結城殿、報酬の件ですが……」
「報酬? 何のことでござる? ああ、経費が足りないのでござるか? では、これを……」
これは私の言い方が悪かった。
懐から金子を出そうとする結城殿を必死で止める。
「い、いえ、違います。私が講釈で得た金子の分配の件です」
「なんだ。そのことならご心配無用。拙者は単に貴殿の講釈が聞きたかった。それだけにござる」
「ですが、私がここまでできたのは結城殿のおかげ。此度は五十両という大金まで手に入ってしまって……」
「五十両?」
「はあ。甲府宰相様にいただき……」
「よかったではないか。何か問題でも?」
「そんな気楽な。私など慌ててしまい、結城殿のことをすっかり失念いたしておりました」
「お好きになさるとよい。拙者には必要のないものでござる」
「はあ、それが、既に仲間に分けてしまいまして。結城殿に報告もせず、申し訳なかったと悔いております」
「そのような心配は無用にござる。金子について拙者がとやかく言うつもりはござらん。しかし、分けたとは、とんだお人好しの御仁でござるな」
「はあ、それも、もう言われました……」
「そいつはいい!」
珍しく快闊に笑う結城殿であった。
私は苦笑いするしかない。
そのとき、不意にお春が結城殿にしだれかかった。
「大成。眠い……」
「そうか。昨日今日は歩いたからな。ここに来い」
結城殿は胡坐になるとお春の頭を乗せた。なんとも絵になる。
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