第11話 不思議な依頼

 結城殿が差し出したのは三冊の書物であった。


 一冊手に取り、中を見てみると、どうやら三国志の一部だと思われる。『思われる』と断言できなかったのは、中はすべて本字、つまり漢文であったからだ。


 私が当惑の様子を隠せないでいると、結城殿が更に意外な提案をしてくる。


「これを講釈で使っていただきたい」


「えっ、これを……」


「さよう。如何かな」


「うーむ……」


 当然のように私は悩んだ。


 まず本の中身がわからない。その気になれば読めぬこともなかろうが、勝手が違う。

 それに、これを講釈のネタにして客が集まるかという問題もあるのだ。

 聴衆が喜ばねば講釈師にとって死活問題だ。


「何か不都合でも?」


「あ、いや。お頭の意見も聞いてみなくては……」


 この時点では私は断るつもりであった。

 個人的な興味はなくもなかったが、他人に講釈のネタを、それも海のものとも山のものとも知れぬ異国物を勧められるのは迷惑でしかないのだ。


「さようか。ならばそうするがよい。ああ、もし実入りのことで不安があるのであれば、些少だがこれを。今日の講釈を聞かせていただいた分にござる」


 と言って向こうが書物に続いて差し出したのは、懐紙に乗せられた金子。

 私は飛び上がるほどに驚いたのも当然である。


 三両あった。

 当時、江戸の庶民の収入といえば、人によって差はあるだろうが、一般的な棒手振ぼてふり商売で一日二百文。

 三両は彼らが一日も休まずに二月ふたつき働いてやっと稼げる金額だ。


「い、いくらなんでも多すぎる。これは人を馬鹿にしていますぞ」


「もらっておけばいい。お互い役に立つのじゃから」


 私が微かに残っていた武家の矜持で断ろうとすると、これまで黙っていた娘がいきなり大人びた口調で話に入ってくる。ニコリともしないのも子供らしくなく、私は反応に困ってしまう。


「春。失礼な口を利くでない。失礼いたした。これは支度金と思っても構わぬ」


「し、支度金?」


「さよう。是非貴殿の新たな講釈が聞きたいと存ずる。書の内容を把握するのにも時間はかかるであろうから、その間タダとは言わんでござる」


「うーむ……」


 私は再び悩む。


 ここまでしてこの御仁にどんな得があるというのか。

 それとも単なる金持ちの道楽なのだろうか。

 もし道楽と言うのであれば私も気楽に引き受けることができる。


 が、初めて会ったにしては私にはこの若者がそんな人間だとはとても思えない。どこかの大店のご隠居というのならまだしも、何故子連れの浪人風情がと、どうしても得心がいかないのだ。


「たいせー、眠い……」


「そうか。では引き上げるとするか」


 私がなおも逡巡していると少女が眠気を訴え始め、結城某殿は娘を連れて立ち上がった。


「あ、これは……」


 結論の出る前に事態が進行していくようで、私は目の前に無造作に置かれた金子を指差し、慌てて言った。


「お納めくだされ。後日改めてお訪ねいたす。では、これにて」


「あ、お待ちくだされ……」


 二人が部屋を出るのを、私は書物の包みを抱え、慌てて追った。少し癪だったが金子を懐に仕舞い込んで。


 既に外は暗闇に包まれている。


 私たちは船宿を出ると大川沿いを川下に向かって歩き出した。


 途中私は正体不明の若者に二、三それとなく尋ねる。


 だが、その答えは概ねこういうことだった。『すべては講釈の出来次第』だと。

 つまりはこの三国志を語って聞かせ、それが満足できるモノであれば詳しい事情を教えるし、もしお眼鏡に適わなければ他の講釈師を当たるということなのだろう。


 なんとなく釈然としないまま浅草に戻ってくるとそこで二人と別れることになる。


 二人はそのまま、いや、ついに睡魔に負けて歩くこともできなくなった娘を若者が背負い、大川端を歩いていった。


 暗闇に消えていく姿は本当にこの世のモノか、私を身震いさせずには置かなかい。

 だが、抱えている書物と懐の小判がその思いを打ち消すのであった。





 

 二人の姿が暗闇に消えた後、私は取り急ぎ浅草は非人頭、車善七の元に向かった。乞胸頭の仁太夫が今晩そこに来ていることを耳にしていたからだ。


 非人とはいえ取り締まる立場にもなると身代も大きくなる。大名並みの長吏頭・弾左衛門の屋敷には比べるべくもないが、それでも旗本屋敷並みである。

 が、格式はやはり町人以下なので私のような者でもすんなりと通してもらえた。


 奥の一室で二人の頭が酒を飲んでいる。非人なので頭は髷を結っていないが、きちんとした身なりであった。

 逆に刀も帯びていない私のほうがみすぼらしいほどである。


「どうした、吉。こんなところまで」


「はい。ご相談が……」


 二人の頭を目の前にして私は先ほど出会った若侍のことを報告する。

 講釈の内容まで管理されているわけではないが、小判三枚という大枚が絡んでいるのでは無視を決め込むわけにもいかない。


「ほう、三両ねえ……」


 この二人にとって三両はたいした金額ではないらしかったが、それでも相場に外れていることぐらいはわかっているだろう。


「如何いたしましょうか?」


「如何って、好きにすればいいじゃねえか。おめえの甲斐性だ」


「はあ……」


 非人頭は豪快に答えた。


「吉さん、実はその若侍をアンタに紹介したのは俺なんだ」


「えっ……」


 今日は驚いてばかりの日であった。乞胸頭まで絡んでいるとは。


 不思議なのはその若侍。

 一言もそのことは触れなかった。


「いや、たぶんだがな。なんか知らねえけど、八丁堀を通じて軍記物の得意な講釈師はいないかと聞かれてな。軍八と迷ったがな、新参だが、軍記物なら杉森吉次郎だと言ってやったんだ。そうかい、訪ねてきたかい」


「はあ……そうでしたか……」


 乞胸頭に自分の才覚を認められてうれしかったはずなのだが、その説明に更に得心のいかないことがあった。


 八丁堀。


 確かに乞胸頭は言った。八丁堀といえば奉行所同心のことではないか。

 かの若者は一体何者なのか。

 ますます疑惑が募る。


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