第7話 岐路

 昼下がり。

 洗った着物どもも乾き、薪も割り終えた。


 汗をかいた身体を井戸の水で清め、髷を結いなおす。元結もっといは例の『代筆』と書いてある半紙の切れ端を紙縒こよりにして使う。髪結いに行く金はないし、髪油もないが、まあ、浪人には見えるであろう。


 月代さかやきは今は如何ともしがたいが、身奇麗になったところで湯屋の主人に礼を言いにいく。


 薪をすべて割り終えたと告げると、期待してもなかったが、番台の老人は笑って幾許かの心付けを払ってくれた。むしろ湯屋代よりも多いかも知れぬ。これも髭を剃り、髷を結い直したおかげであろう。やはり、見た目は大事なのだ。


 これなら口入屋も代書などの帳場の仕事も紹介してくれるかもしれない。


 などと調子の良いことを考えていると、老人が何かを差し出してくる。


「ああ、ご浪人さん。良かったらこれも持って行きねぇ。焚き付けにしちまおうと思ってたボロ草履ぞうりですまねえが、ご浪人さんの擦り切れ草鞋わらじよりかマシじゃろ」


「かたじけない。ありがたく」


 今の私は他人の好意にすがるしかないようであった。

 武士の矜持だ何だと言わずに、素直に受け取る。


「それからな、その足袋はたちが良さそうじゃの。古着屋に持って行きゃいくらかにゃなるじゃろ。ここに落ち着くんなら、寒くなった時ゃあ、そん時考えなされ」


「ご忠告、痛み入る」


 私はありがたく草履に履き替え、背負っていた行李に足袋を仕舞い直す。擦り切れ草鞋は、代わりに焚き付けに使ってもらうことにしよう。


 もう一度老人に礼を述べ、私は湯屋を出た。


 日はまだ高かったが、行く当ても無し、口入屋に戻ることにする。

 朝方は結局仕事の当てを聞けなかったが、明日の仕事に有りつけるかもという期待もあった。




「御免。仕事はないか? なくても、できれば夕刻までここで待たせてほしい」


「おや、ダンナ。サッパリしたようで……」


 番頭が目聡く私を見つけ、声をかけてくる。


 だが、仕事の話を改めて尋ねると、やはり旨い話は転がっていないようで、すぐ見つかるのは荷揚げ人足にんそくの仕事ぐらいだという。


 私は覚悟を決め、朝方の続きを聞くことにする。

 その前に、先ほどのご浪人改め講釈師殿の話をしてみた。


「実はな、番頭殿。先ほど講釈師を名乗る御仁に出会ってな。お頭に紹介すると言われたのだが、お主が紹介すると言っておった『然るところ』とは違うのだろうか? あ、いや、まだ行くと決めたわけではないのだが……」


「そうですかい。それで、そのお頭のお名前は?」


「聞いておらぬが……まずかったであろうか……」


 また間抜け振りを晒してしまったようだ。

 確かに、何某なにがしだったと先方の名前を出さなければ、いくら目利きの番頭とて同一人物かどうかわかるはずもない。


 項垂れてしまった私を見て、番頭は笑顔のままであった。

 嘲りではなく、大した失敗ではないから心配するなといわんばかりの微笑みに見えるのは、ひとえにこの男の海千山千の経験の賜物であろう。


「まあ、仕官をエサに支度金を騙し取ろうなんてぇ話はよく聞きますが、ダンナの身なりじゃそれも大丈夫でがしょ。それより、夕刻とかってのは……?」


 朝と変わらず歯に衣着せぬ物言いだが、全く以って同感であるので、気を取り直して答えることにする。


「そのことで番頭殿に頼みがある。かの御仁が夕刻にここに迎えに来てくれるそうな。すまぬが、それまでここで待たせてもらうわけにはいかぬだろうか」


「かまいませんとも。ご覧のとおり、ダンナみてえなムサっ苦しい連中が入れ替わり立ち替わりしてるんで」


 嫌味とも取れる言葉で番頭は了承してくれた。


 私も図太くその言葉に乗る。


「かたじけない」


 帳場の隅に陣取り、七つ下がりを待つ。




「いらっしゃい!」


 口入屋は夕暮れ近くになっても繁盛していた。


「番頭! もっとマシな仕事はないのか!」

「ウチにゃ六つを頭に十人のガキが腹減らしててよお……」

「頼む! 今月中に金を返さねえと簀巻きで大川に……」


 することもなく座っているのは苦痛であるが、様々の人間模様が見て取れる。


 まあ、中には不可思議なことを口走るやからもいるようだが。


 番頭の客のあしらいぶりは見事なもので、つい見入ってしまったが、ようやく約定の刻限が近づいてきた。

 私の心は、否が応でも緊張し出す。


 話を聞こうとは決めたが、その先までは決心が付かない。なにしろ、身分に関わることである。


「お。おったな。では参ろうか」


 不安が私の心の半ばまで占めようとした頃、ついに琵琶を抱えた深編み笠の浪人が現れた。


「お、お待ちくだされ!」


 私の姿を認め、せっかちに同行を促す浪人に、いや、講釈師殿に何とか引止めの言葉を投げかけることができた。


 番頭もこちらの様子に気付いたのか、帳場から出てくる。


「なんだ? 怖気づいたのか? 考える時間ときはたっぷり有ったろう? あまり遅くなるとお頭も会ってはくれぬかも知れんぞ」


「い、いえ。その前に貴殿の姓名をお聞きいたしたく……」


 朝方湯屋で出会ったときは相手の勢いに押されたまま名乗りを上げることもできなかったが、番頭に気付かされるまでもなく、まともな周旋では有り得ないことだ。


 だが……


「ふむ……それは後でよかろう。お主がこの話を蹴るというのであらば、所詮は縁無き衆生しゅじょうよ。名乗って何になる?」


 流石は講釈師といったところか。禅問答の如くあしらわれてしまう。


「で、では、何故えんゆかりも無いそれがしに口利きなど……」


「それこそ袖振り合うも何とやらだ。さあ、行くか、行かぬか。どっちだ?」


 一々もっともな受け答えに、私はそれ以上の問答を続けることができなくなった。


 だが、近づいてきた番頭の顔を目にし、最後に確認すべきことを思い出す。


「ならば、せめてお頭と言われる方のお名前をお教え願えぬか?」


「おう。そうだな。お頭の名は『仁太夫にだゆう』じゃ。これで良いか?」


 後ろの問いかけはそばに控えていた番頭にしたものであろう。


 私が番頭の方に目を向けると、番頭は黙って頷いてくれた。


「……わかりもうした。口利きの件、何卒なにとぞよしなに……」


 名も知らぬ講釈師は私の返事を聞くと、うむ、と一声答えるだけでそのまま口入屋を出て行く。


 私も、番頭に礼の言葉を述べつつ、慌ててその後を追いかけるのであった。

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