第6話 琵琶の音
その後、どこをどう歩いてきたのか定かではないが、気付くと私は湯屋の前にいた。
おそらく、口入屋で身なりが汚らしいと面罵されたことで、いや、番頭なりの心遣いやもしれぬが、とにかく、私は一刻も早く身奇麗になりたかったのだろう。どこの通りかまでは知らぬが、ここ数日代筆の仕事を求めて歩き回っていたときに湯屋の屋号を見覚えていたに相違ない。
暖簾を目の前に、私は懐中を探る。
前の荷運びの稼ぎがわずかばかり残っている。本当にわずかだが。
飢えの恐ろしさを知ったばかりの私が、いざという時のために取っておいたものだが、先ほどの番頭の話を聞いた私は、飢えて死ぬかコジキに身を落とすかという瀬戸際に立たされていることに改めて気付かされ、幾許(いくばく)かの蓄えなど焼け石に水だと思い知った。
ならばと、暖簾をくぐる。
番台の老人が眉を顰めた。
朝から薄汚れた浪人が来たのだ。それも当然だろう。
だが、口入屋とは逆に旅装であったことが幸いしたのか、特に追い出されることはなかった。
支払いは持っていた小銭で何とかなった。これで完全に一文無しになったわけだが、まずは一風呂浴びよう。
私は何故か心持も軽く中へと入る。
身も心もさっぱり……とは行かないものの、少なくとも髭と体の汚れだけは落とした私は、
汚れた着物を洗うため、老人に井戸を使わせてもらうことを懇願する。
渋る老人だったが、やはり旅の者だということが決め手となり、薪割りを手伝うことで洗い物が乾くまで裏庭を借りることができた。
越中褌一枚の姿になり、私は身に着けていたすべての物を洗う。といっても着物一枚、袴一枚、それに
天気も良いし、すぐに乾くだろうと、私は約束の薪割りを開始する。無論、フンドシ一丁の姿のままだ。
「やはり、ここでも力仕事くらいしかできぬか……」
慣れぬ鉈を振り下ろしながら自嘲する。
いや、笑っている場合ではない。
早急に決めねばならぬことがあるのだ。
確かに、あの口入屋に行けば、こうした力仕事にありつけ、何とか食うには困らぬやも知れぬ。
だが、このままでよいのか、大見得を切って家を飛び出した末がこの体たらくなのかと、頭の中で葛藤する。
京の公家屋敷で安穏としてきた私は、思ったより世間知らずだったことをやっと自覚した。
「……これまでは運が良かっただけだったか……」
思わず薪を割る手が止まってしまう。
ふと静寂が訪れた。
『……ょうじゃのかねのこえ……ぎょうむじょうのひび……』
「……なんだ?」
湯屋の裏庭の囲い塀の外からベンベンという琵琶の音とともに太い声が聞こえてきた。
私は気になり外を覗いてみる。
『……うじゅのはなのいろ……じょうしゃひっすいのことわりをあらわす~』
「これは……平曲か……それにしても……」
内容はすぐにわかった。平家物語の冒頭である。
私が
『……おごれるひともひさしからず
ただはるのよのゆめのごとし
たけきものもついにはほろびぬ
ひとえにかぜのまえのちりにおなじ……』
私は知らぬ間に湯屋の裏口から飛び出していた。
フンドシ一丁に、手に鉈を握り締めたまま……
「なっ、なんだ!」
琵琶を抱えた編み笠の浪人は狼狽していた。
私はハッと我に返る。
「こ、これはご無礼つかまつった! しばし! しばし待たれよ!」
辺りを見渡したが、そこは裏路地で、幸いにも彼の浪人殿の他は誰もいなかった。
仮にここが山中や海辺なら、山賊海賊が襲い掛かったとしか見えぬであろう。
何しろザンバラ髪に、フンドシ姿で鉈を構えていたのだから。
私は慌てて湯屋の裏庭に戻る。
生乾きの着物を急いで羽織り、髷は結っている時間もないため手ぬぐいで頭を包むのみにした。
だが、何とか人前に出られる格好になったことだろう。
浪人殿が待っていてくれるといいのだが……
「おお……ありがたい」
どうやら願いは通じたようで、浪人殿は裏木戸のところで待っていてくれた。
「いきなりのお呼び止め、ご無礼つかまつった。拙者、かような有様ではあるが、武士の端くれにて……」
「待たれよ。折角のご口上だが、聞きたきことがあらば、もそっと簡潔にな。ワシも食い扶持を稼がねばならぬゆえ」
早速事情を説明し、浪人殿の生業が口入屋の番頭の言っていたものであるのか聞き出そうとしたところ、口上を遮られてしまう。
拙速に過ぎたか。
「これは申し訳ござらぬ。したが、
「うむ……そこまで頼まれれば無下にいたすも人としてあるまじきこと。よかろう」
「かたじけない! ならばこちらへ」
どうにか話を聞かせてもらえることになった私は、勝手に湯屋の裏庭に浪人殿を案内することに。
浪人殿もここの湯屋を知っているらしく、別段怪しむことなく案内に従ってくれた。笠を取った浪人殿の面相は、私よりもよほど山賊が似合いそうな髭面であったが、それだけに貫禄のある四十過ぎの御仁であった。
薪の山に二人で腰掛け、早速話を聞く。
「……貴殿は先ほど平曲を弾き語られておられたが、法師でもない方が何故? それが生業とすれば……」
「ワシは講釈師よ。先ほどのは、まあ、稼ぎ場に着くまでのホンの手慰みじゃ」
「こ、講釈師……やはり……」
「なんだ。聞きたいこととはそんなことか?」
「あ、いえ……」
私は言葉に詰まる。
実際に講釈師を生業とする者に出会ってしまったことで、自分でも、いったい何が聞きたかったのかわからなくなってしまった。
仕方なく、口入屋で薦められた一件を聞いてもらうことに。
「実は……講釈師などの見世物を生業にしてみたらどうだと薦められておりまして……ですが、それは非人の仕事であると……コジキの仲間入りする覚悟があるのかと……」
髭面の講釈師殿は黙って聞いていてくれた。
再び私が言葉に詰まると、私の意を汲んでくれたかのようにある提案をしてくれる。
「……そうか。お
「えっ……それは……」
「なに、取って食われるわけでなし、心配致すな。では、ワシは稼ぎに戻るとしよう。ああ、口入屋とは、ここから一町先のところだな。そうだな……七つ下がりにそこで待っておれ。湯屋よりは人目も気になるまい」
後で決めても良いとは言われたようだが、お頭とは一体何者なのかもわからぬまま話が進み、私は混乱の中にあった。
だが、浪人殿改め、講釈師殿は言いたいことを言い終えると、さっさと湯屋の裏庭を出て行ってしまわれた。
「…………」
私はノロノロと立ち上がり、未だ割り終わっていない薪の山に眼を向ける。
講釈師殿との約束は七つ下がり。
今はまだ正午にもなっておらぬから考える時間はまだまだある。
私は無言で薪割りを再開するのだった。
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