第3話 茶屋にて3
政太夫の期待にこたえて私は講釈を続けた。
「明の皇帝がお隠れになり、都に清軍がおっても大陸は広いンです。
各地で皇族が新帝として起ち上がりました。
南京、紹興、肇慶。そン中で福州の隆武帝が鄭成功はンの父親、鄭芝龍によって擁立されております。
隆武帝にお目見えした若き鄭成功はンは、眉目秀麗、いかにも頼もしげな姿にお言葉を賜れなさった。
『朕に皇女があれば
しかし鄭成功はン、決して朱姓を使おうとしなかったそうです。ホンマよく出来たお人でした」
「なるほど……で? 合戦は?」
政太夫はもらった苗字を使わないということにピンと来なかったようだ。同じように師匠から竹本姓を名乗ることを許された身ではいたしかたないのかもしれない。それよりも血沸き肉踊る合戦のことが気になってしょうがないようだ。
「そうやったな。隆武帝はすぐに北伐をしたンです。北の都にいる清軍を攻めようとしました」
「お、太閤はンの大返しやな。それで?」
「大失敗に終わりました」
「なんや、意気地のない……」
「まあまあ、そない言うモンやないで。終わった戦なんやから」
あからさまにガッカリする若い政太夫を座長が諌めてくれた。
「そうですな。人様の国のことですし。私らがああだこうだと言うのは間違っとりますな。だからこそ私は浄瑠璃ではホンマのことは書かなかったンです」
「へぇ。すみません……」
「よろしいがな。ほな続けまひょ」
「へえ。お願いします」
「続きといっても後は振るわない。各地の皇族は次々と清軍に倒され、残る一人が広西の永暦帝のみ。
鄭成功はンは隆武帝に殉じた父親と袂を分かって永暦帝を正統と奉じ清国に抵抗します。幸い鄭家は中国南部の福建から台湾の海に勢力を持ってましたから、そこを根城にしてました。
それから数年、明でいうと永暦十二年、清では順治十五年、日本だと明暦四年にいよいよ鄭成功はンが北伐を始めます。目指すは浄瑠璃と同じ南京です。
しかし、途中まではよかったンですが、最後に大敗してますな」
私の書いた『国性爺合戦』とはまったくの逆の結末に、政太夫はおろか、すでに明という国はないと知っている座長までもガッカリとしていたようであった。
悲劇としてありのままを書いていれば二人の反応も違ったかもしれないが。
しかし、それでは本末転倒。今宵の祝いの宴もなかったかもしれない。
やはり歴史は歴史、浄瑠璃は浄瑠璃である。
「その後、体勢を立て直すため一旦退いた鄭成功はンは台湾をオランダ人から完全に奪い取り、清国に対する抵抗を続けたンですが、運命というんですかな、永暦帝が呉三桂に捕まり、永暦十六年、寛文二年に刑死すると同じ年には鄭成功はンも亡くなったそうです」
明と清の、没落と勃興を酒席で語るなど無粋だったかもしれない。
だが、我が国でも古来こうした物語は庶民の格好の娯楽であることとを思えばむべなるかなというところだ。
「さあ、話は仕舞いですよって、そろそろ……」
「そんな殺生やで。先生、もっと聞かしてほしいンですねん」
これは驚いた。本来語って聞かせるのが本職のはずの太夫が、逆さまに人の話を聞きたがる。
いや、確かに、先ほど私が話したのは講釈としてはあまりに大雑把に過ぎていた。
本来『太平記』などの軍記物は合戦の描写が細かく、登場人物の一人一人が活躍している場面が延々と続き、そこが聞き手を引き付けるのだ。
したがって政太夫の言うところの『もっと聞きたい』というのはその点を更に詳細に、派手に、面白おかしく講釈しろ、ということなのだろう。
それはわかる。だが、私はもう一つの感想が浮かび上がった。
《血は争えんのンか……》
口には出せないことであった。
「先生、私も聞きとうございます。今日はせっかくの太夫の祝いですさかい、お願いしますわ」
「まあ、お二人がそない言わはるンなら私はかまわしまへンけど」
「おおきに!」
「芸のコヤシともいいますさかいな」
「そないな! 先生の話をコヤシて、なんぼなんでもバチが当たりますわ!」
中断はしたが座は盛り上がる。
座長が茶屋の主人を呼び、酒の追加と、茶屋遊びにしては無粋な今晩の趣向について申し開きをする。
丁銀を何枚か握らせると茶屋の主人も笑って引き取った。丁銀は江戸で使われる小判一枚とほぼ同価値であるからボロイ儲けだったことだろう。
新たに酒が準備されたことで席も改める。今度は座長も一段下がり、私は二人と向き合うことになった。茶屋の一室が高座へと早変わりする。
さて、と私がどこから明と清の合戦を軍記物仕立てにしようかと考えていると、若い政太夫が若者らしい疑問をぶつけてきた。
「先生。先生がお武家の出で、太平記なんやの軍記物に詳しいのは、ようわかりますけど、お隣の、よそのお国のことまで詳しいのは何ででっか?」
いきなりの質問は本来叱責の対象となってもおかしくなかったのだろうが、的を得ていたと見えて座長もただ頷いている。
確かに、当節は大陸からの書物が次々と和訳され、元禄のころには『通俗三国志』なる書物が出版されている。最近、宝永のころには歌舞伎にもなった。
だが、それ以前は漢文そのままで、よほど大身の武家か学者先生しか読まない、いや、読めないものであった。
私は武家の出といっても吹けば飛ぶような下級身分であったし、そもそも明と清の合戦物語など書物にもなっていない。おそらくは今の清国でさえもだ。
そのことは如何に若い政太夫でもわかっていたのだろう。
「……あるお人から聞きましたンです」
「へぇーっ。先生に講釈しなはるなんて、どないなお人でっか?」
私はハタと言葉に詰まってしまった。
政太夫のもっともな質問は、純粋な好奇心に満ち溢れた眼差しとともに私の胸に突き刺さる。
《どうする……教えるべきか……》
しばらく無言のまま逡巡する私を二人は不思議そうに見ていた。
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