売れないお笑い芸人は、大晦日の夜に『赤いきつね』の夢をみるか?

ひなた華月

2021年 12月31日 大晦日


 2021年 12月31日 大晦日。


 六畳一間のボロアパートの部屋で、男は一人、炬燵こたつに入りながら仰向けになっていた。


 あと数時間もすれば新年を迎えるというのに、男は微動だにせず、ただじっと天井を見つめ続ける。


 すると、カツン、カツン、と階段を上る音が聞こえてきて、その足音は少しずつ近づき、部屋の鍵が開く音がする。


「……ふぅ。ただいま、しょうちゃん」


 そして、扉を開けて部屋に入ってきた女性は、付けていたマスクをポケットにしまうと、嬉しそうに男に話しかける。


「ごめんな、仕事長引いてもうて。翔ちゃん、お腹空いてる?」


「いや、別に……」


 そう答えた矢先、空腹を訴えるように「ぐぅ~」と男の腹が鳴った。


「あはは、なんや、お腹空いとるんやん。ちょっと待っとってな」


 そう言い残し、手洗いを済ませた彼女は、今度はキッチンのガスコンロとやかんを準備して、お湯を沸かす。


「翔ちゃん、今日は劇場どうやった? やっぱり、お客さん少なかった?」


「……いや、思ったよりも多かった。けど、席は1個ずつ空けとるから、人数自体はいつもの半分くらいやと思う」


「そうなんや。でも、去年みたいにライブが中止にならんで良かったやん。ウチも行きたかったわ」


「……ええよ、別に。いつもやっとるネタやっただけやし」


「それが観たいんやんか。あーあ、やっぱりパート休んどけば良かったわ」


 男は、そんな愚痴をこぼす彼女の後ろ姿を見ながら、今日までの日々を思い出していた。


 男の名は、さかい翔太郎しょうたろう


 年齢、30歳。

 職業、お笑い芸人。


 高校を卒業したのち、大阪のお笑いスクールに入学して、そこで見つけた相方とコンビを組み、漫才師としてデビューする。


 しかし、今から2年前にコンビは解散。その後、『笑太郎』というピン芸人として大阪の劇場を中心に活動していたが、去年の春から拠点を東京へと移す。


 そして、その際に一緒に付いてきてくれたのが、今目の前にいる、恋人の環子たまこだった。


 環子たまこは高校からの同級生だが、当時は殆ど接点がなく、翔太郎もかすかに顔と名前が思い出せる程度でしかなかった。


 しかし、ある日突然、大阪の劇場に客としてやって来て、その日をキッカケに、気が付けば毎週会うようになり、いつの間にか恋人同士になっていたのだ。


「おまたせ、翔ちゃん。あと5分だけ一緒に待とな」


 そんなことを思い出している間に、環子たまこは両手にカップ麺を持って、こちらにやって来た。


 赤い容器が特徴のそのカップ麺を炬燵こたつの上に置き、環子たまこは翔太郎と向き合う位置に腰を下ろす。


「でも、こうやって翔ちゃんと一緒に大晦日に『赤いきつね』食べるのも2回目やな」


「……そうやな」


 環子たまこからの会話も、翔太郎はどこか上の空で返事をするだけだった。


「……なぁ、翔ちゃん。なんかあったん?」


 すると、環子たまこがじっと翔太郎を見つめたまま、心配そうな声色でそう尋ねてきた。


「翔ちゃん。さっきからずっと元気ないやん」


 環子たまこの表情からは、本当に彼のことを心配していることが伝わってくる。


 だが、そのおかげで、翔太郎はキッカケを得ることができた。


「なあ、環子たまこ……」


 そして、翔太郎はこの1ヶ月の間、ずっと考えて出した結論を、彼女に告げる。



「俺、もう芸人辞めるわ」



 えっ? と、目の前の彼女が息を呑むのがすぐに分かった。


 しかし、環子たまこから何かを言われてしまう前に、翔太郎は口を開く。


「そろそろ潮時やと思ってな。相方にも逃げられて、一念発起して東京に来たら、今度は新型の感染症やなんやゆうて仕事は殆どゼロ……こんな運のない奴がこれから芸人としてやっていけるとは思えへん」


 元相方からは『お前と続けとっても、売れる気がせえへん』と言い残され、彼はそのまま芸人を辞めた。


 そして、上京した年には、新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい、劇場は閉鎖され、翔太郎は自分の存在を証明する場所さえも失ってしまった。


 だが、そのあまりにも長い休止活動期間を耐えることが出来たのは、劇場にお客さんが戻ってくれば、自分は必ず1人でも東京で活躍できると思っていたからだ。


 しかし、現実はそんなに甘くなかった。


 劇場が再開され、ネタを披露しても全くウケない。


 当然、そんな芸人にチャンスが回ってくることなどなく、アンケートの結果も散々で、劇場の出番も今では随分と減ってしまっている。


『笑太郎さんのネタって独特の世界観じゃないですか? だから、まだお客さんが笑太郎さんのセンスに付いてきてないだけですよ』


 自分のことを評価してくれる後輩の言葉さえ、翔太郎には嫌味にしか聞こえなかった。


 そして、その後輩も賞レースでの活躍をキッカケに、今ではお茶の間の人気者だ。


 なのに、自分だけは、ずっと同じ場所でもがき苦しんだまま、気が付けば芸歴も10年を超えてしまっていた。


「……だから、もうええわ。今まで散々好き勝手なことやって来たし、環子にも迷惑かけっぱなしやからな。せっかく東京に来たのに、こんなボロいアパートに住んで、しかも相手の男が売れてへん芸人なんて、最悪やろ」


 翔太郎は、自虐的な笑みを浮かべながら、そう環子たまこに告げた。


「それ……本気なん?」


「ああ、本気や。他の奴らと違って、俺には才能も運もなかった。自分でもやるだけやったって満足しとる」


 一度口に出してしまうと、今まで抱えていたものがストンと落ちていく感覚がして、翔太郎はどこかほっとしたような気持ちになった。


「それでな、先輩の知り合いで清掃会社の社長さんをやっとる人がおって、紹介してくれることになったわ。しかも、給料が結構ええねん。ホンマ、車の免許だけは取っといて良かったわ」


 翔太郎は、明るい口調で環子たまこに話し続ける。


「…………」


 だが、環子たまこは顔を俯かせたまま、何も言ってくれない。


「……環子たまこ?」


 翔太郎が呼びかけても、彼女は全く反応せず、アパートの窓が風で揺れる音だけが部屋に響く。


 そして、その静寂を遮るような「ピピピ」という電子音が鳴る。


 その音は、『赤いきつね』と一緒に炬燵こたつの上に置かれたタイマーの音だった。


「もう5分経ったんか。すまんな、環子たまこ。年の最後にこんな話してもうて。けど、これでスッキリしたわ。これからの詳しいことは、食べ終わってから話すわ」


 そういって、翔太郎が出来上がった『赤いきつね』の蓋をめくろうとしたときだった。


「……食べんといて」


「……えっ?」



「食べんといてって言っとるんや!!」



 突然、環子たまこが叫んだので驚く翔太郎だったが、彼女はそのまま炬燵こたつから出ると、玄関まで足を運び、靴を履いてドアを開けようとする。


「お、おい! 環子たまこ!? お前、どこ行くつもりやねん」


「近くのコンビニで『緑のたぬき』買ってくる」


「はぁ? 何言ってんねん……」


 翔太郎は、環子たまこの行動が全く理解できなかった。


 すると、環子たまこは勢いよく翔太郎のほうに振り返り、言い放つ。


「だって、翔ちゃんはもう芸人辞めるんやろ! せやったら、もう大晦日に『赤いきつね』食べる理由ないやんか!!」


 そう言った環子たまこの目には、大粒の涙が溜まっていた。


「翔ちゃん、ウチに言ったやろ。『俺は芸人やから、みんなと違って大晦日はうどんを食べるんや』って。人と違うことするから面白いんや、って言うてたやん……!」


 その言葉を聞き、翔太郎は初めて環子たまこと一緒に大晦日を過ごした日のことを思い出す。


 確かに、去年の大晦日も、環子たまこには『緑のたぬき』ではなく『赤いきつね』を頼んだ。


 全国の殆どの人間が、大晦日には蕎麦を食べる。


 だからこそ、あえてうどんを食べる人間は面白いのだと、翔太郎は環子たまこに自慢げに話したのだ。


「ウチ……全然意味分からんかったけど、翔ちゃんらしいなって思ってん。やのに、芸人辞めたら、ウチの好きな翔ちゃんじゃなくなってまうやん……!」


 そして、環子たまこは自分の頭を、翔太郎の胸にぶつける。


「翔ちゃん……ウチは昔からずっと、馬鹿なことして笑ってる翔ちゃんが好きやねん。だからお願い……芸人辞めんといて……!」


環子たまこ……」


「それにウチ、翔ちゃんが彼氏で恥ずかしいなんて思ったことない! だって、翔ちゃんは日本で……ううん、世界で一番、ウチを笑顔にしてくれる人やもん!」


 その言葉を聞いた瞬間、今までの環子たまことの記憶が蘇る。


 そして、その全ての記憶の中で、環子たまこはずっと笑顔を浮かべていた。


環子たまこ……!」


 気が付けば、環子たまこの身体を抱きしめていた。


「ごめんっ! 俺、ホンマは諦めたくないねん! けど、いつまでもこんなことしとったら、お前にも迷惑かかると思って……!」


「そんなん今さらやん……。ええんよ、翔ちゃんは夢を追いかけて。でも、また辛くなったらウチにちゃんと相談してな」


 そういって、環子たまこは翔太郎の背中を優しく撫でていたが、しばらくすると、環子たまこは「くすっ」と笑いが漏らす。


「翔ちゃん、いつまで泣いとるんよ。ほら、お腹すいとったんやろ。一緒に『赤いきつね』食べよ」


 そして、2人は炬燵に戻って、『赤いきつね』を食べながら、年越しを迎える。



 翔太郎は、この日に食べた、うどんが伸びきってしまった『赤いきつね』の味を、決して忘れることはなかった。



  〇 〇 〇



 数年後。


 リビングでソファに腰を下ろしている環子たまこは、生放送のテレビ番組を視聴していた。


『さて、次の暴露は笑太郎の奥さんから届いてます! えっと、ウチでは大晦日は絶対に赤いきつねを食べます。そのほうが面白い人間になれるからだそうです……って、なんやねん、この話! 意味分からんわ!』


『わかるでしょ! 俺は面白い人間やから、あえて大晦日は赤いきつねを食べるんです!』


 スタジオのひな壇から大声を上げる旦那の姿を見ながら、環子は自分の大きくなったお腹を優しく撫でる。


「聞こえるか、翔子しょうこ? お父さん、今日もみんなを笑顔にしとるで」


 すると、環子たまこの言葉通り、翔太郎が喋るたびに、スタジオが溢れんばかりの笑い声に包まれるのだった。


【終】

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