12 紐は強い
紐が僕を救ってくれた。
トネが言う通り、交通整理に使うような黄色と黒のまだらになった紐は見た目よりもずっと強靭で、僕のベルトの強度が許す限り千切れそうな様子はなかった。僕はベルトのバックルに引っ掛かっている命綱を支点に両足で梯子を捉え、晴れて両手が自由になった。
「ああ、楽だ」
僕はパンパンになった両腕をだらりと垂らし、うな垂れた。二の腕から両肩までの筋肉が長時間の酷使に悲鳴をキリキリとあげ、寒さと相まって頭痛がしていた。冷たい梯子を握り続け、感覚が無くなりかけていた指先にじんわりと血が巡り始め、感覚が戻ってきた。
「言ったでしょ」
トネが勝ち誇るように言った。
「ねぇ、私にも一個ちょうだい。ダブルチーズバーガーが食べたい」
トネが催促した。
「ちょっと待て」
僕はだらりと身体の力を抜き、回復する心地よさに自然と笑みを溢しながら言った。
「今すごく良いところなんだ」
それから我々は気持ちが良い風景を眺めながら、不思議な程未だ暖かいままのマクドナルドを食べた。トネにダブルチーズバーガーの包みと6個入りのナゲットの箱を渡し、僕はテリヤキバーガーとポテトを食べた。時間が経ったせいか、味が濃いテリヤキソースに混ざったマヨネーズは疲れた身体にあっと言う間に染み渡り、しなしなになったポテトは塩気が強く感じられ、とても美味しかった。
全部食べ終わると、不思議と体の筋肉痛や肩の懲りも、頭痛もなくなった。寒ささえ感じない。身体が芯から暖かい。普段は ──地上で自堕落な生活を送っていた時は、ということだが ──マクドナルドを食べるとむしろ体調が悪くなるのだが、やはりこちらでは何かが違うのかも知れない。僕はソースが付いた指を紙で拭いながら考えた。それはそれとして、やはり今は妙な事に巻き込まれているような気がする。トネはもぐもぐと食べており、特に何かを考えているようにも見えない。
「これからどうするんだ?」
僕はトネに尋ねた。
「マンホールに潜るだけでもおかしいのに、今度はなんだかずいぶん高い場所に出てしまった訳だが」
「地上に降りる」
トネがもぐもぐと食べながら何ともないように答えた。僕は少しイラッとした。
「ちょっと教えて欲しいんだけどさ、君は僕に『助けて欲しい』って来たんだよな? それなのにこんな異常事態になっても、どこへ行く、何をする、も何も僕に教えてくれない。そんなのってフェアじゃない。悪しき者ってさっき言ったけど、何なんだ?」
トネの口がモグモグ、からモグ……モグ……になり、飲み込むとまた無愛想なへの字口になった。
「お姉ちゃんが地上でいなくなったのは、こっちに移動してきたから。だから連れ戻さなくちゃいけない」
「それは百歩譲って分かった。分かった事にしておく。で、そのお姉さんは、エヒメがどこにいるっておおよそ分かってるんだろうな? 分かってなきゃ、こんな広い世界をしらみ潰しに探す何て不可能だ」
「導かれる」
「は?」
僕は真顔で聞き返した。
「私たちはエヒメに導かれる。それは間違いない」
トネも真顔だった。口の端にソースを付けている。愛らしい。もしかして狙ってやっているのかもしれない。
「姉のエヒメを救う事で、オリカワ君も救われる」
「何を言ってるのか分からないな」
僕はテリヤキバーガーを食べた事で身体の調子が良くなり、これから先がどうなるか楽しみになった気持ちを隠すように言った。昨日までの毎日の自堕落な生活、毎日毎日同じように訪れる「一日を無為に過ごしてしまった」という後悔、それを軌道修正する事ができない意志が弱い僕自身への怒り、そうしたものが綺麗に消え失せている事に気が付いた。確かに、エヒメを救う事で、僕自身の人生の立て直しが始まるかも知れない。そういう微かな予感がある。だが、それは口に出して言ってはいけない種類のものだと僕には分かっている。確定した言葉や決意は突然、朝になると翻ってしまう事を何度も味わってきたから。
「悪いけど、君が何を言っているか分からない」
僕は繰り返した。トネはしばらくまじまじと僕の顔を眺めて、フッと笑った。
「今はそれでいいんじゃないの?」
「ゴミはここから投げ捨てていいのかな?」
僕は話題をすり替えた。
「駄目よ、行儀悪い」
トネがピシャリと言った。しつけの悪い猿になった気分がした。
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