11 空中

「めちゃくちゃ危ないじゃないか! 嘘つき!」


 僕は目を閉じ、涙を流れるままにして大声でトネをなじった。


「絶対ここは地下じゃない!」


「いいから目が光に馴染むまでじっとしてて。手を離しちゃ駄目よ」


 ここが地下ではない事は僕にはもう分かっている。恐らく、我々は空中に浮かんでいる梯子にしがみついている。時折思い出したように吹く冷たい風がそれを教えてくれる。僕の四方を囲んでいた重苦しいコンクリートは姿を消し、開放的な光に包まれている。しばらくしてとめどなく溢れる涙が止まり、ようやく目を開く事ができた。


 僕は梯子に頼りなく掴まっているだけの貧弱な人間であり、足元には荘厳に雪化粧をした山脈が広がっていた。相当な高度だ。息も白いし、とても寒い。途端に体がブルブルと震えてくる。梯子を見上げてみると、一点透視法のお手本のように黄色い梯子が青々とした空に吸い込まれていくのが見える。空は奥に行くほど藍色を増し、雲一つ浮かんでいない。宇宙に近い空の深い色だ。下の方にはやはり同じように梯子が続いているのが見える。掴まっているのは嘘みたいに鮮やかな、サビ一つない黄色い梯子だ。強風にも関わらずピクリとも揺れない。


「すごく寒い」


 僕は震えながら言う。


 トネが下から上がってきて、梯子越しに僕と向き合うと、相変わらず無表情でスクールバッグのサイドポケットから紐を器用に取り出し、自分の手首を縛ってもう片方を僕に差し出した。


「腰のベルトに付けて」


「君は何でも持ってるな」


 僕は震えながら紐の片方を受け取ると、その先端は犬の首輪のように、簡単に引っ掛ける形状になっていた。寒さと疲労で手が震え、とても結べる状態ではなかったのでありがたかった。


「この命綱は絶対に切れない。安心して」


「一体ここはどこなんだ」


「お姉ちゃんがいる場所」


 トネが端的に答えた。僕は思わずため息をついた。


「僕の頭はおかしくなったのかも知れない」


「そう。頭がおかしくなったの」


 トネはクスクスと笑った。


「でも大丈夫。頭がおかしいのはオリカワ君だけじゃないから。私もおかしいし、他の人たちはもっとおかしい」


「笑い事じゃないよ」


 僕はうんざりして言った。


「とてもじゃないけど下まで降りれる気がしない。腕の筋肉がもう限界だし、寒くて眠たくもなってきた。君だってスカートじゃ寒いだろう」


「大丈夫ですよ」


 トネがニコリと微笑んだ。微笑んだ? トネが?


 彼女はこちらの世界にいる方が自然な表情を見せているように思えた。


「持ってきたマクドナルドを食べましょう」


「今? ここで?」


「ここで、今」


 トネが言い直した。


「馬鹿げてる。今、どんな状況か分かってるのか?」


「だからこそ、今なのよ」


「手を滑らせたら落ちて死ぬぞ」


「手を滑らせて落ちない為に食べるの」


 トネの言い直しが段々と腹ただしくなってきた。僕はゆっくりと首を横に振った。とてもじゃないけど片手を離して肩からスイミングバッグを取り、開いてテリヤキバーガーなりダブルチーズバーガーを取り出し、口に運んで「美味しいね」とは言えない状況だ。そんな事をしたら腕の筋肉も相当疲労するだろう。


「駄目だ、出来ない」


「大丈夫、このロープは絶対に切れない」


 トネは僕の心配を察したのか、さっき僕と繋いだ命綱を梯子にぐるぐるに結びつけ、今度は自分の腰に回してキツく結んだ。そして両手を離して後ろに倒れこんだ。


「馬鹿、やめろ!」


 思わず声を出したが、トネはバランスを取って僕を見た。


「ね?」


 紐は運動会で、保護者エリアと競技エリアを分けるような、黄色と黒の紐を合わせたとても頑丈には見えない細い代物だったが、確かに切れそうにはなかった。トネはまた梯子に掴まると、早くバーガーを取り出して食べるように僕を促した。


「早く食べましょう。お腹ペコペコよ」


「さっき食べたばかりじゃないか」


 僕はやけくそになって、でも落下が怖いので片手で梯子を掴みながら苦労してスイミングプールのバッグを開けた。でも、片手を塞がれた状態で中のハンバーガーを取り出す作業は困難を伴った。


「大丈夫だってば。このロープを信じて」


 トネが苦労している僕を見て低い声で言った。


「君と僕とじゃ体重が違うんだ」


 僕はそろそろ腕の筋肉の限界を感じていた。バッグからようやく一つハンバーガーを取り出そうとする所だった。テリヤキだろうか、ややベタベタする。


「ここでは重力のかかり方や、風の吹き方も違うのよ。目で見えるものが全てではないの」



 僕は改めてトネに聞いた。


「悪しき者たちのもとに、大勢の魂が住まう場所」


 僕が思わぬトネの答えに意表を突かれ、思わずその透明な瞳と目を合わせた時、ついに僕の筋力がなけなしの貯金を使い果たし、強く掴んでいた指が梯子からぷつりと離れた。不摂生な生活を続けてきたツケが回ってきたのだ。よりによって、こんな時に。





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