10 降下
頭上のまん丸く青く切り取られた空はやがて小さくなって行き、光は届かなくなっていった。最初は打ちっ放しのコンクリート壁が辛うじて梯子越しに見えていたが、やがて濃いグレーになり、そして全く何も見えない濃密な闇に包まれた。梯子は冷たく、時折錆びて、塗装が剥げている感覚があった。
「蓋閉めなくてよかったのかな」
僕は下を向いてトネに対して言った。
「大丈夫」
僕の足の下からトネの声が反響して聞こえた。
「そのうち誰かが閉めてくれる」
「バイクの車輪がはまったり、子供が面白がって落ちたりしないかな」
「そういうお馬鹿さんの心配なんかしてたらきりがないわ」
トネのうんざりした声が暗闇の中で、ある種の親密さを持って聞こえてきた。不思議と、顔を見て話をするよりも、ずっとそれは感情を伴っているように聞こえる。
車の車輪が開きっぱなしのマンホールにはまって事故になるのはともかく、子供が面白がってサッカーボールや消しゴムや犬の糞を落としてきたら嫌だな、と僕は思う。以前何かのテレビで、伝説と言われる底なし井戸に握り拳ほどの大きさの石を投げ入れるシーンを見た事があった。その石は音もなくふわりと暗闇に吸い込まれ、数秒後に弾丸を跳ね返すような「チュイーン」という甲高い音が聞こえてきた。専門家の見立てによると、その投下された石の速度は時速数百キロにも及ぶとの事だった。そんなものが上から落ちてきたら、間違いなく死んでしまう。消しゴムだからセーフという訳でもなさそうだ。
「君は危険はないって言ったよな」
僕はトネに向けて思わず恨み言を吐いた。
「毒ガスの心配はしないで」
冷静なトネの声が反響して聞こえた。
「私がカナリアになってる」
そういうのじゃなくて、と音速に近い消しゴム、あるいは小石ないし犬の糞が頭上から降ってくる可能性についてトネと共有をしようかと思ったが、やめておいた。言ったところで不安が増すばかりだし、避けられる訳でもない。トネを先行させた事で、カナリア係をさせてしまった後ろめたさもほんの僅かにあった。
トネのローファーが梯子を踏んだ時に発するカンカンというゆっくりと規則正しい音が聞こえてくる。周囲は暗闇で、先程から全然底に到着する気配がない。そうだ、冷静に考えてこのマンホールはあまりにも深過ぎるのだ。十分以上暗闇の中を降り続けている。
「手を離さないで」
トネの声が聞こえた。その瞬間、周囲に風が吹き荒れた。目も開けていられないくらいの強風だ。必死に梯子にしがみつく。ぴったりと一体化するくらいに身を寄せて、強く梯子を握り、固く目を瞑る。轟々とした風の音が吹き荒れ、耳が冷たく痛くなる。
どれくらいの間耐えていたか分からないが、気が付けば風は止んでいた。固く閉じている目に光を感じる。そして開けようとすると涙が出て、どうしても開けない。
「光に慣れるまでじっとしてて。でも、絶対に梯子から手を離しちゃダメよ」
トネの声が下から聞こえてくる。しかし先程までの反響する声ではない。
「一体どうなってるんだ!」
僕は思わず叫ぶ。
「ここはクソ寒い!」
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