9 蓋
僕はしゃがみこんで、マンホールの中を覗き込んだ。いくらトネに促されたからといって、「はい、分かりました」と中に入る訳にはいかない。命は一つだし、痛い目に合って死にたくはない。特に、肩に女子高校生のスイミングバッグを担いだまま死んでしまったら、親や葬式に来た人に何を言われるか分からない。
マンホールの中は当たり前のように真っ暗だった。壁面に頑丈そうな梯子が掛かっている。想像していたような下水の匂いはしない。むしろ、新品の家電をおろす際にビニールを破った時のような無機質な匂いがする。しばらく眺めていると、まん丸い暗闇が僕を見つめ返してきているような気がしてくる。穴の中から見たら、恐らく僕の顔の後ろには馬鹿みたいな真っ青な冬の青空が丸く切り取られている筈だ。今日は本当に良い天気なのだ。これからマンホールに潜る必要などないくらいに。
「マンホールの中には毒ガスが溜まっている場合がある」
僕はハッと思い付いて、トネを見上げて言った。
「昔の人はカナリアみたいな鳥を籠の中に入れて先導者が持ち、死なないか注意しながら進んで行ったんだ」
「マンホールの中に?」
トネが蔑むように僕を見下ろしているように思えたが、気のせいだと思う事にした。
「マンホールじゃない。昔と言ってもまだマンホールが出来る前の時代の事だ。洞窟とか、鉱山の作業場とか。ガスじゃなくても、一酸化炭素とかそういう類のものでも、一吸いで意識を失ってしまう恐れがある」
トネが一緒に僕の隣にしゃがんで、じっと僕の目を覗き込んできた。
「怖いの?」
「怖い訳じゃない。理由が分からないんだ」
僕はあまりにも透明過ぎるレンズ越しのまっすぐな眼差しから目を逸らして言った。
「どうして君のお姉さんがマンホールの中にいるって分かるんだよ」
トネは小さくため息をついた。
「オリカワ君は気付いていないかも知れないけど、もう始まってるからね?」
「始まってる? 何が?」
トネが、僕のマフラーと首の間に陶器のように冷たく滑らかな手の平を差し込んだ。
「取り返しのつかないこと。もう止められないこと。誰かをずっと探し求めること。昨日だと思った今日が明日になること」
何を言っているのか理解が出来ず固まっていると、トネが躊躇なくマンホールの中の梯子に取り付いた。
「後から来るなら来て。来ないならマンホールの蓋は閉めていって」
トネの声が反響して聞こえてきた。
「おい! 待てよ」
カンカンとゆっくりと梯子を下る音が反響して聞こえてきた。トネの頭はもう暗闇に溶け込んで見えない。
「おい!」
何なんだよ、と思って、僕も梯子に取り付いた。道路と水平の視線は新鮮で、ずっと遠くまで良い天気の冬のアスファルトが続いていたが、もうそんな事に構っている場合ではなかった。暖かい、ほんの少しの雨の日の水溜りの匂いがした。
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