4 GATE
煙草を山盛りの灰皿で消してドアを開けると、こじんまりとした女の子が立っていた。どこかの学校の制服らしき紺のPコートを着て、たっぷりとした葡萄色のマフラーを巻いていた。黒いローファーと黒いソックス。警戒心の強そうな近づき難い目つきで、眼鏡越しに僕の事を見上げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
我々は挨拶を交わした。彼女が先で、僕が後だ。ガラスを叩いたような声だ。
「申し訳ないんだけど、僕は隣の人と本当に関わりがないんだ。ちょっと体調を崩していて、お隣の……」
僕は口をつぐんで考えた。名前さえ覚えていないのだ。
「ヒグラシ」
目の前の女の子が名乗った。恐らく苗字なのだろう。確かに、郵便ボックスのところに「日暮」とテプラで貼られていたような気がする。
「そう、ヒグラシさんとだけじゃなくて、僕は最近人と会ったり話したりしていない。だから、力になれる事は何もない。君のお姉さんが僕の話をしたというのも人違いだと思う」
「でも、姉はオリカワさんの事を知っていました」
「君のお姉さんが、僕の事を知っている」
僕は彼女の言ったことを繰り返した。
「毎朝七時に起床して、一時間掛けてゆっくりと身支度をする事とか、金曜日は外で外食をする事が多いから夜遅くなる事とか、夜11時には必ず眠ってしまうとか、そういうことを言ってました」
「申し訳ないんだけど」
「自慰は週二回」
「待て」
僕は驚いて制止した。無表情でとんでも無いことを言い出した。
「申し訳ないけど、それは全然僕の事じゃない。よく分からないけど、君のお姉さんは少しおかしくなってしまったんだと思う。ずっと家に篭ってるとそういう事が時々ある。何というか、妄想なのか現実なのか、現実感を伴った単なる妄想なのか、境界が曖昧になるんだ。それをわざと人に話す人もいるかも知れない。だからやっぱり、君が行くところは警察だと思う」
「週二回、自慰してないんですか?」
「自慰は関係ない」
僕は辛抱強く答えた。それに、多分もっとしている。彼女はしばらく沈黙を保って、言った。
「どうかお願いします。事情があって、警察には届けられないんです。一緒に姉を探してくれませんか?」
「悪いんだけど……」
僕は断ろうとしたが、今まで感情がないように見えた彼女の目が必死で、本当に困っているように思えた。目の縁に涙がうっすらと溜まっていた。警察に行けない理由も気になった。僕が見た覚えのある隣人、ヒグラシという女性はそんなに悪い事をするような顔をしていた覚えはない。もしそうだとしたら僕は記憶しているだろう。隣人が悪人面をしているかしていないかは、日々の生活を送る上で水道代や治安の良し悪しと並ぶ重要な事だからだ。それに、ヒグラシが語ったという僕についての事柄にも興味が湧いた。彼女が語ったことは、間違いなく僕の事ではない。でも、果たして100%否定し切れるものなのだろうか。その幾分かは本当の僕の事の一部を語っているのではないか。それは、あるいは過去の可能性の内にある、別の道を辿った僕自身の事ではないか。
ドアノブに手を掛けて、閉めようとした際に彼女の顔を見た時に考えたのはそのような事だった。それに、涙を堪えて俯くポツンとした女の子を放置するのもどことなく気が引けた。悪者には出来るだけなりたくない。
「少し待ってて」
僕は仕方なく言った。
「ちょうど朝飯を食べようと思ってたんだ」
彼女の顔が明るくなって、頷いた。
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