春に往くきみへ 愛をこめて

32. 少年少女は卒業した

 互いの進路を決めてから、ぼくたちは途端に忙しくなった。

 勉強が、というよりはぼくの場合は入ろうとしている学部がレポートを出すことを求めていたから、文月さんに師事を仰いで慣れないレポート作成に四苦八苦することになった。

 乙音は着々と旅に出るための準備を進めているらしく、ついに小さめならホホジロザメを倒せるようになったと文月さんが割と自慢げに話してくれた。もちろん腕っぷしだけじゃなく必要なライセンスなども大方取得できているらしい。

 やっぱり皐月さんの教育は強いな、と思いながら指摘された箇所を直す。

 卒業式の日に見送るとき、ぼくが受験失敗してましたなんてなったら、確実に顔を合わせるたびに笑われること間違いなしだ、

 胸を張って別れを告げるために、今は頑張らなくては――そう思った。


 それから季節がくるくる回って、春。

 桜があたりの空気を淡紅色に染め上げるみたいに咲いて、細かな花びらがはらはら降り始めた卒業式の日。

 乙音は学校に姿を現すことはなかった。

 

 



 駆ける。駆ける。何度も過ごした秘密基地へと下る道を横切って、小高い崖の上へとひた走る。海へ吹き付ける風に背を押され、わずかな浮遊感。ごうごう耳元で音がする。視界の端に、鱗みたいな花びらが白く輝いている。

 あと少し、というところでふいに風が向きを変え、視界が花弁の群れにまみれた。

「――っ、ああもう」

 急いでるのに! と唸る声に応えたように、花びらの群れは顔を襲うのをすんっとやめて、地面へさらさら落ちていく。

 顔に張り付いた花弁を手の甲でどかせば、鱗のようなそれがバラバラと剥がれ、色濃い花をつけた枝が風の名残でふらふらと揺れているのが見えた。

 現実から目を逸らして、彼女に手を引かれて走り出したその日を思い出す。実が食べられないのだと知って、それでも花を楽しみだと笑った親友の姿が蘇る。

 郷愁と、笑いだしたい気持ちと、いまからそいつに吠えてやるのだという意気込みで心臓が大きく笑っている。

 ぐっと力を入れた足ですっかり目線の高さになった花の横を過ぎれば、するはずもない水蜜桃のような香りがした気がした。

「このっ――乙音!!」

 真珠色がきらきらと、春の日差しを受けて虹色に輝いているのが見えて、これまで生きてきたなかで一番の声量で吠える。

 崖の下の緩い波間で、すっかり旅支度を整えた親友がとぼけた顔で振り返った。ひらひらと白い手を顔の横で振り、自分が卒業式を欠席したことすら忘れているんじゃないかと疑いたくなる。

 いや、乙音のことだし、本気で忘れてそうだ。

 親友のそういう側面を思い知っているぼくは若干の頭痛を覚えながら手にしていたバッグのショルダー部分を掴み、砲丸投げの要領でその白い頭めがけて、ぶん投げた。



―――――――――――

――――――――

―――――


 ひゅるひゅると落ちてくる黒いものを見上げ、ゆるりと手を伸ばす。

(なんやかんや、本当世話焼きだよなあ)

 なにか餞別の荷物だろうと暢気に構えていれば、ふいにカチンとなにかが外れる音がした。

 ぼちゃん、と一つ飛沫が立つ。


「へ?」


 海の青に、紅い、紅い――大層おいしそうな林檎がぼとんぼとんと落ちてくる。次いで、目の覚めるような橙色のみかんが、ぽん、ぽん、ぽん、と跳ねるようにバッグの開いた口から転がって青い空をバッグに飛び出した、。

 のんきに手を伸ばていたわたしの周りに、ぷかぷか果実たちが浮く。咄嗟に掴もうと体を倒せば体に押された海面がぐにゃりと形を変えて、どんぶらこと波をつくってあちらこちらへ紅色と橙色を運んでいくのが見えた。


「わ、わ、わ!?」


 比較的凪いでいるとはいえ、海である。油断すればどこぞへ流されていってしまう。慌ててかき集めていれば、崖の上から笑い声がはじけた。もちろん、一人分――めったに耳にできない、親友の爆笑だ。


「ちょっと! 睦月ー! 笑ってないで手伝ってよ!!」

「無茶言うなー! 飛び降りろってかー!」


 こっちは制服なんだよ! と続いた言葉に目を瞬かせる。よくよく見ればなるほど、見慣れた学ラン姿である。

 けれど、その何が問題だというのだろうか。


「? もう着ないならいいんじゃなーい?」

「お前本当……ふざけるなよ! ばーか!」


 『陸の人間は、海に入ってはいけません』なんて、もう何十回、何百回と破った言いつけを今さら守る義理もないとばかりに脱ぎ捨てられた上着が、風に煽られ空へと飛んでいく。

 それを見送ることもなく、すっかり背も伸び切った少年は、かつてと変わることなく――海へと飛び込んだ。

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