30. 少年少女卒業旅行(4)
日が昇ったころには、船は港に到着していた。
ぴょんと飛び出した乙音の後ろ姿には、夜のうちに見せた涙の影は微塵もない。
徹底ぶりに感心しながら、同時に呆れを抱く。
あんな風に泣いてしまうくらい抱え込んでも、その苦悩は無関係な人間には悟らせたくないらしい。もっとも、それすらできなくなっていたことを思えばこの旅路は無駄ではなかったのだろう。
いや、それすらもぼくがそう思いたいだけなのかもしれないけれど。
そんな風に悶々とするぼくを置いて、乙音はサクサクと海岸の方へと向かう。
その背を追って―― 一閃、まぶしさに目がくらんだ。
広い空に白い浜辺、雲一つない冬晴れの空とあわせ鏡のように広がる深く明るいコバルトブルーの海。そのどれもが陽光を受けて光り輝くように美しい。
地元の海もなかなかに綺麗だと思っていたが、より赤道に近くなった分、根本的な植生も異なっているのだろう。ここの海は地元と繋がっているとは思えないほど、全体的に彩度も明度も高く、生命力に溢れて見える。これで国内だというのだから驚きだ。
深く息をして潮風を楽しんでいれば、美しい青の中で輝きを増した真珠色が大きく水面ではねた。
水路での移動が多かった分、広々とした海で泳げるのが気持ちいいのだろうか。そんなことを思っていた矢先、きょろきょろと真珠色の頭が左右に揺れているのが見えた。
なにかを探しているのだろうか。
荷物はあらかたぼくが預かっているし、流されたにしてもああして探し回るほど細やかなものを身に着ける習慣は彼女にはないはずだけれど。
不思議に思いつつ、声をかけようと一歩踏み出した瞬間、乙音の前に誰かがいることに気づいた。
――この地域の、水の人だろうか。
遠目ではっきりとは見えないが、女性のようだ。何かを乙音に問いかけて、乙音も気前よくそれに応じている。殺伐とした雰囲気はないから、トラブルではなさそうだ。
ひとまず静観することにして、ぼくは適当な日向に腰を下ろした。
涼しい風が頬を撫で、柔らかな波音が耳をくすぐる。
うん。農園があった内地の景色は緑が多くてそれはそれで楽しかったけれど、やはりぼくには海辺が合っている。
風が潮のにおいを抱えていないと落ち着かないし、海が砂を舐めている音がしないと心細い。
その賑やかな静寂を楽しむうちに、ゆったりと時間が流れていく。
ざざん、ざざんと子守歌に似た音を聞いていたせいだろうか、慣れない旅路の疲れも相まって、瞼が重くなる。荷物を見ていなくちゃ――でも、他に人もいないし、いや、まだ……そんなことを思っているうちに、ぼくの意識は暗転した。
それからしばらくして、ぼくの意識は浮上する。カチコチと音を立てる腕時計に視線を落とせば、着いてから一時間は経っている。急ぐ旅でもないけれど、帰りの船を考えれば水族館へ行く時間くらいは決めておこう。
こんなところで雑な旅行計画の弊害が出るとは。
ぐっと伸びをして、乙音を探す。
真珠色の頭も尾びれも珍しいから、小柄な割に我が親友はとても目立つのだ。
当然、頭をぐるりと回せばすぐに見つかった。
さて、どうしたものか。
見慣れた輝きが沖の方にある。泳ぎを覚えたとはいえ、ぼくでは片道を泳ぎ切ることもできないだろう。
「電話、出るかなあ」
乙音はわりと連絡というもの自体に無頓着だ。以前お嬢さんの件で電話した時に出たのは半ば奇跡だった位に。
必要最低限のものができるようになっただけ成長しているが、必要性を感じていないときは意識の外に置いてしまう癖がある。
まあ、悪癖だし、ぼくが配慮する必要もないだろう。出なければまた手段を考えるまでだ。過ごした時間の分、連絡手段は用意してある。小学生のころに悪戯半分で二人して覚えた手旗信号とか。
電話番号をタップする。呼び出しを押しかけて、寸前で止める。
「あの人……」
眠りに落ちる寸前、乙音と話していた女性が乙音の隣に顔を出していた。仲良くなったのかと思えば、なにやら乙音が頭を下げている。
「……ぼくが寝てた間になにかした、のかな?」
口に出してみたもののどうにも腑に落ちない。何か起こしたにしては、相手も別に不機嫌な顔をしていない。ぐりんと首をひねっているうちに、乙音がこちらを振り向いた。ついでだから腕時計を指して手招きすれば、両手で丸が作られる。
女性に声をかけてあっさり戻ってきた乙音は、てちてちと砂浜を這ってぼくの元にやってきた。妙にすっきりした顔をしている。
「乙音、さっき」
「睦月。もう大丈夫だよ」
薫風のような声が、何かがふっ切れたような笑顔と共にある。
ぼくは目を瞠った。
自分の言葉を確かめるように、もう一度乙音が口を開く。
「……大丈夫、水族館ついたら、話してあげる」
この短時間で何があったのかと思うほど、その目に強い光が宿っている。
大好きな親友の目に少しずつ戻ってきている。
ぼくは、思わず笑ってしまった。
場所は変わって、乙音ご希望の水族館。
幸いというべきか、この地域では水族館に遊びに来る水人はめずらしくないようで、動物たちが展示されている合間を縫って来場者用の水路が張り巡らされている。
ちなみに折り畳みの車いすは農園で使ったあと速やかに郵送で家に送った。あんなもの持って歩き続けられるほどの体力はぼくにはない。
見上げていると首が痛くなりそうな程の大水槽の前でぼくらは立ち止まった。
かつて夏の日に乙音がぼくを引きずり込んだ先で見た青い青い世界が、分厚いアクリルガラスの向こうに閉じ込められている。
住んでいる魚もサンゴ礁も違うし、なによりそこには水人が誰一人いないという不自然極まりない作り物の海の中だけれど――思い出が刺激される。
走馬灯のようにこれまでの記憶が脳裏を駆け、昔の自分と今を比較する。
お互い小柄ではあるけれど、たしかにあの頃よりもずっと手足は伸びて、顔立ちも体つきもはっきりと性差が出ている。まるで別の生き物になったようだ。そんな、何年も会っていなかった相手に抱くような印象を今さら抱く。
まあ、それで何が変わるわけでもない。
水路の手すりを挟んで隣りに並んだ乙音を見れば、あれほど安全圏から見たいと言っていたブルーグレーの鮫が眼前を通り過ぎたというのに、表情も変えずに青い光を浴びている。
「わたし、ホンモノの人魚を見たんだ」
ふいに告げられた言葉に、震えはなかった。
むしろ、ぼくのほうが混乱してしまいそうだ。
「ホンモノ……?」
「前にいるかどうかって話した、あの人魚」
「どこで?」
好奇心のままに問う。
わざわざ嘘を言うようなことでもない。きっと本当なのだろう。
他の誰かが言ったならば気にも留めない戯言と受け取ったけれど、乙音だから、信じることにした。
琥珀色の目が小さく見開き、弛緩するように瞬く。
「……いるかどうか話し合った数日前と、屋上で睦月が水に足突っ込んだ日の三週間くらい前に、どちらも沖の方で」
「あの頃か……」
二回見たというのには驚いたけれど、どちらも乙音の様子がおかしくなった時期であること思えば納得の方が勝った。
平坦な口調で紡がれる言葉たちは別に声を絞っているわけでもないのに、ぼく以外の誰の耳にも入らないように景色の中に端から溶けていく。
「最初は、見間違いだと思ったんだよ。他の尾びれ持ちの子だったんだろう。って」
そう信じたかった。と言いたげな色がその声には滲んでいた。
「でも、どうしようもなく違和感があって、あれはわたしたちじゃないって感じがして、気持ちが悪かった」
「……ホンモノが?」
実物を見たわけではないからぼくには想像しかできないけれど、生理的な嫌悪を呼び起こすような存在なのだろうか。
ぼくの疑問に、乙音がふるふると首を振った。
「それそのものってわけじゃ、ないと思う。たぶんわたしの方の問題」
記憶の糸を手繰るように乙音が魚影を見上げた。
「あれがホンモノなら、わたしたちがこれまでヒトじゃないって言われ続けたのはあいつらが姿を現さなかったせいなんじゃないか、とか。あと、もしも、あれが本物だとして、わたしが本当はどちらなのかが、わかってしまうんじゃないか、とか、そういうのが全部お腹の中で混ざっちゃってた感じ。だから、わかんなくなっちゃって、気持ち悪くなったのかも」
パズルのピースを拾い集めるような言葉には筋道がない。だからこそ、そのとき感じた彼女の混乱が詰め込まれている。
多くを悟ることができていた乙音にとって、その未知との出会いはあまりにも恐ろしいことだったのだ。
それこそ、世界が裏返ったくらいに。
――そこで布団の中に飛び込んで閉じこもってしまってもよかったのに、乙音は混乱と戦うことを選んだ。怯えながら、混乱しながら、自分を見失いながら、それでも前を見据えた。
荒野に一人、臨むように。
深く、息を吸い込む音がした。
「……授業でね、このあたりの水の人は少し変わった形をしているって聞いたの」
その授業には心当たりがあった。たぶん、生物の授業だろう。
ぼくらの形や生活圏が分かれていようと『同種』として分類される理由を科学の側面から解説するときに、地域ごとに変化が起こる場合があることをおまけとして話し出す先生がいるのだ。大学でそっち方面の論文を書いたことがあるらしく、熱の入った語りのせいで通常授業の内容が少し遅れたことを覚えている。
「ああ。だからここのページ見てたのか」
「やっぱり気づいてたんだ」
くすくすと乙音が笑う。
さすがに不調といってもあのあからさまな視線は無意識のものではなかったらしい。まんまとぼくは誘導されたのだろう。あるいは、あれもまた乙音の試しだったのだろうか。
不快さはないので別にいいんだけど、普通に悔しい。
ふてくされたぼくを観察し終えたらしい乙音が、すっと表情を消す。
「……でもさっき、直接会って姿を見て、話を聞いて、確信した」
大水槽よりもずっと向こうに向けられた目が、熱い炎を宿している。
「わたしが見たのは、間違いなくホンモノの人魚だった」
断言する声は強く、美しく、鋭く、ぼくの胸を貫いた。
歴史上数多いる偉人たちの、その隣に居ただろう無数の凡人たちよ。
あなたたちも、こんな気持ちだったのだろうか。
一足早く灯された熱を心臓に宿して、ぼくは自分の言葉に宿った熱量に気づけていないらしい我が親友にして無二の英雄に問いかける。
ぼくごときが灯台になるだなんて大それたことは思ってはいない。
ただ――きみの始まりの手を引くくらいの贅沢はしたって罰は当たらないはずだ。
「乙音は、何がしたい?」
その問いかけに、彼女が取り乱すことはなかった。
ただ、明確な形をとるにはまだ時間がかかるのだろう。わたしは、と小さな声が漏れた後に続く言葉はない。
だから、ぼくは勝気に笑って宣言する。よく光がないと言われる目が、今なら輝いている自信がある。
「ぼくは、大学に進む。学部は今決めた――文月さんと同じ、『水の人』そのものの研究がしたい」
「……それ、今のわたしの話のせい? なら」
「勝手にぼくの重荷になってくれるなよ。親友」
まだ、弱気が拭い去れていないみたいだね。と続ければ、乙音の目が瞬く。少しずつ、少しずつ、曇った刀身を研ぎあげるように、陰鬱な影が取れていっているけれど、まだ元通りには程遠い。
もっともっと、ぼくの親友は苛烈で、美しい。
「ぼくはもう二度ときみを原因にしたりしない」
――きみといると、ぼくはおかしくなる
かつて、訳もわからず口にした言葉は拭うことはできない。
それでも、きみがぼくの友達であってくれたから、ぼくはこれまで生きてこれた。自身のことは今も大嫌いだけれど、それでも生存を許すことができた。
感謝、贖罪、恩愛、友愛、敬愛、信仰、愛憎、親愛。そのすべてを籠めて、ライラックの白い五つの花弁を飲み干すように、きみに贈ろう。
「ぼくが、興味があるから選んだんだ――見せてくれるんだろ。乙音の世界を」
大きく、琥珀色の目が揺らいで――閉じる。
水を通して降り注ぐ青い光が輪郭を濡らして、長いまつ毛の影が頬に落ちる。ちょうど水面近くを通った大きなジンベエザメの影がその目元を覆い隠す。ゆっくりと、ゆっくりと、雲間が裂けるように影が退き、再び彼女の目が開く。
「――本当、馬鹿だなあ。睦月は」
その目は、残酷なほどに美しい満月のように、強く、眩しく輝いていた。
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