29. 少年少女卒業旅行(3)

 とっくりと暮れた漆のような闇の中、ぼくは目を覚ました。時計を見ればまだ夜半と言っていい時間で、変な時間に起きてしまったなと思いながらバルコニーに出る。

 凍るような風が頬に触れ、身震いする。一応着込んだから体が冷える心配はないけれど、まだ少しだけ体を取り巻いていた眠気はどこかに行ってしまった。特にやることもないし、さすがに乙音の部屋に突撃するわけにもいかない。普通に寝ている時間だ。

 仕方なしにガラス張りの安全柵に身をゆだねながら、月影だけが反射する海を見下ろす。陸地は遠く、今は夜に呑まれて影も見えない。

 手すりをなぞり、雑な造りの一つもないその仕上がりに感嘆する。

 卒業旅行の相談をしたらさほど時間差もなく送られてきた旅券だが、学生ではまず泊まろうという発想すら浮かばない部屋が指定されていて、思わず乙音と顔を見合わせたのは記憶に新しい。

 放浪癖があるせいであまり顔を合わせたことはないが、流火さんは謎の多い人だ。この間送られてきた写真の中には、明らかにどこかの王族か大金持ちと思われる人と肩を組んでいるものもあった。アナコンダを首に巻いているものと連続していて、正体がわかるどころかどんどん謎が増えている気さえする。


 そんなことをつらつらと考えていると、隣の部屋のバルコニーにも人影が現れた。バルコニーにも相応の高さの水槽が設置されているようで、船が水をかき分ける音にまぎれてちゃぷちゃぷと緩い水音がする。

 当然、そこにいるのは親友のはずだ。

 はずだけれど、その横顔が目に入った瞬間、ぼくは途方もない違和感に襲われた。

「……乙音?」

 潮風に目を細める彼女なんて、もうとっくに見慣れている。常に道化ているわけではないから、今さら静かな横顔に違和感を抱くはずもない。

 だが、勘違いでもない。

 遠く、遠く、海の底へと向けるような深い目が、何かを探しているように、迷っているように、複雑な色を――そう、この卒業旅行を思いついたきっかけである、様子のおかしさを思わせる色を帯びている。

 これまでの旅路での楽しそうな姿がまるきり偽りであったわけではない。

 けれど、無理もしていたのだろう。

「あれ、起こしちゃった?」

 明らかにぼくが声に滲ませた困惑をスルーして、乙音が笑う。

「いや。なんとなく目が覚めただけ」

 首を横に振って、ぼくは大きく息を吸った。この機会を逃してはいけないという虫の報せみたいなものがあった。

 肺を刺すような冷たい風に意識が研がれる。

「……ねえ、乙音」

「なーに」

「ぼくらはじきに大人になる」

「……そうだね」

「陸か、水か、だけじゃなく、いろんなところで分かれ道はあるだろ」

「そうだね」

「……ぼくは、たとえ10年隔たりが生まれても、ぼくらなら再会した時笑いあえると思ってる」

「そうなれたら、すてきだね」

「だから、乙音、」

 進路のこと、様子のおかしさのこと――これから、どこにいって、どうなりたいのか。それを聞こうとしたぼくを阻むみたいに、乙音が口を開いた。

「あの日、死にそうな顔した睦月を見て、さあ……」

 脈絡のない一言だった。それでもあの夏の日に蝉時雨を浴びながら彼女と出会った記憶が引っ張り出される。明るく笑いながらも、こちらを観察しているような目を思い出す。

「暇つぶしにつついてやろうと思ったんだよ。本当はさ」

「……知ってたよ」

 ネタ晴らしにしては随分と投げやりだ。今さらショックを受けることもない。

 乙音が優しさだけで人に声をかけるような善人なら、ぼくらの交流は始まることすらなかったのだから。

 琥珀色の目が瞬く。驚いた。とでもいうような表情がわざとらしい。

 ぼくが悟っていたことくらい、とうにわかっていただろうに。

「あれ、バレてたんだ」

「七年だよ。なんとなくわかる」

「はは。傲慢」

「茶化すな。で?」

「……あの頃のわたしはさ、海の中が息苦しかった」

 月光の中、ぼんやりと輪郭自体が光っているような姿のまま、乙音がぐっと手を月に向けた。その先で水かきが月光を透かす。薄いピンクの被膜が光に淡く色を増し、見上げる彼女の横顔には掌の形の影が落ちる。

「どこまでも広く広く、美しい水の中を見渡しても、誰もいないみたいだった。誰より速く遠く泳げる下肢を持っているのに――クラゲみたいに寄る辺がなかった」

 彼女の孤独の、本当の輪郭が銀色に光って浮かび上がる。

 形が違うということだけではない。ぼくが焦がれた彼女の英雄性もまた、きっとその寄る辺のなさに拍車をかけていたのだろう。

「同じヒトだと語る口の上で、海底を歩けないわたしを哀れむ目がどうしようもなく気持ち悪かった」

 淡々とした語り口に、その言葉に通例結び付けられる熱量はない。

 気持ち悪さは本当だろうけれど、きっとそれはぼくが乗り物に酔った時に反射的に吐き気を催したのと同じようなものだったのだろう。

 感覚と噛み合わないものを享受したときに覚える、どうしようもなく生理的な気持ち悪さ、とでも言えばいいのだろうか。

 主義や主張なんて理性の産物ではないことだけは確かだ。憎悪も悲哀も憤怒も、なにも伴っていない。

「……ヒトであることを、やめたかったのかも、しれないね。わたしは」

 諦観めいた一言を呟いて、乙音が深く息をついた。


 自分の形が他者と違うことを恨まず、かといって性質を多数に寄せて迎合することもできず、無意識に哀れんでくる目を前にして悲劇に酔うこともできず、また大衆自体を心底憎むことも、彼女にはできなかった。

 残酷なまでの平等さが、子供らしい偏りを自分に許さなかった。

 対象こそ違えど、その曖昧な感情に苛まれる感覚には、痛いほど覚えがある。


「そんな気持ちで水面を見上げてたら、なんか似たような表情した子がこっち見ててさ、鏡かと思ったんだよ。だから、鏡にいたずら書きするような気持ちで……自分自身をつつけるんじゃないか、みたいな好奇心で、きみに声をかけたんだよ」


 何が暇つぶしだ。

 ぼくは思わず口元をほころばせた。

 きっと、乙音の自覚としては文字通りなのだろう。けれど、ぼくにはその言葉は違う意味を帯びて聞こえた。


「鏡どころか、取り替えっ子だったけどね」

「本当! いたずら心がまさかの! って感じ」

 彼女と笑いあい、少しずつ日常が形を取り戻そうとしているような錯覚が、胸を満たす。

 ――けれど、きゃらきゃらと童女のように笑い終えた乙音はその笑顔のまま、ボールを気軽に放るように、問いを投げかけた。

「ねえ睦月。進路、決めた?」

「……言うつもりないのかと思ったよ」

 ぼくの問いを遮って話題をずらしたくらいだ。余程触れられたくないものだと思っていたのだけれど、違うのだろうか。

 怪訝な目をしたぼくに乙音が眉を寄せてへらりと笑う。

「最初はね。でも睦月、絶対あきらめる気なかったでしょ。ならわたしから聞いた方がいいかなって」

「ぼくが聞きたいことよくわかったね」

「んー、なんとなくね」

 ぱしゃんと軽く水を弾いて、一瞬の間をはさんで乙音がくつくつと笑い出す。

「すごい気まずそうだから告白されたらどう断ろうかなって悩みかけたけど……睦月に限ってそれはないし」

「よくおわかりで」

 軽口を返しながら、どうにも嫌な感じがした。

 もともとぼくらの会話にはとりとめもないものが多いけれど、それとは根本的に質が違う。気になることを忌憚なく口から出すから話題がずれていくのではなく、意図的に会話の流れを乱されている。

 聞いてほしいのか、聞かれたくないのか、掴み切れない。

 どうしてほしいんだ。と視線で投げかけてみても、乙音の視線が変わることはない。笑っているけれど、観察している視線を隠そうともしていない。

 なんとなく、かつて水中にぼくを引き込んだ乙音の気持ちが今ならわかる気がした。


 きっかけを与えてほしがっているくせに、それに無自覚。


 あの時のぼくは引きずり込まれることで知らない世界を見て、美しいものを知って、心臓がやっと動き出して救われた。

 さて、彼女に必要なのは何だろう。


 陸を歩く足などではない。海から上がる口実になるような王子も必要ない。

 お伽話の『人魚』と違って、生まれた時から魂(自分)を持っている彼女にとって、きっかけとなり得るものは。

 ぐるぐると考えながら顎にあてがった指を伸ばし、唇を突く。候補をあげては捨てを繰り返すうちに、一つの答えにたどり着く。

 自信はない。正直心臓がうるさくて仕方がない。

 冴え冴えとした月に照らされて一層迫力の増した美貌を前に、ぼくはバクバクと脈打つ不随意筋で出来た臓器を押さえつける。

 

 たどり着いた答えは、至極シンプルなもの。

 

 欠けのない満月のような少女に必要なのは――たった一つの問いかけだ。

 

「……聞かせてよ」

「乙音は、どこにいきたいの」

 

 遠くを見つめているきみには、もうそれがわかっているはずだ。

 

 そう思ったから、導き出した答えだった。

 ――けれどやはりぼくは、乙音にはなれないらしい。

 

「……わかんない」

 ぽつんと呟かれた言葉はひどく弱々しかった。一音一音が雫となって顎を伝い落ちていくように、脆い。

「わかんなくなっちゃったんだよ。睦月」

 月光が、青く彼女の頬に光を刷いている。その上を、ぽろぽろと銀の涙がすべっていく。ぽちゃん、ぽちゃんと乙音が身を預ける水面が音を立て、波紋を描く。

「だってさあ、あんな啖呵切ったくせに、なさけないでしょ?」

 それは問いかけの形をとっているけれど、ぼくに向けられた言葉ではないことくらいすぐに分かった。

 ただでさえ泣かない子供であった乙音がぼろぼろと、幼児のように大粒の涙を流しながら、懺悔するように慟哭する。

「見せてやるとか言ったくせに、わたしはわたしが『何』なのか、ちっともわからなくなっちゃった」

 大きく見開かれた目は虚空を見上げている。怯えるように唇がわなないている。水かきのある小さな手が自分の体を抱いて肩に食い込んでいる。、

 見るからに痛々しい、見たこともない乙音の姿がそこにはあった。

 おとね、と茫然としたぼくの声は、乙音の鋭い声と重なって散る。

「アレを見た日から、わたしは――っ!!」

 その先の言葉自体を閉じ込めるように、ぐっと唇が引き結ばれた。ごくん、と乙音の喉が動く。

 永遠にも感じるような長い沈黙が訪れた。

 かつて、人魚の話題に触れたことで乙音が見せたものよりも激しいが、幼さが勝る分あの時よりはずっととっつきやすい。だからと言って容易に触れていいものではない。

 けれど、触れないわけにもいかない。


「……ごめん、もう一度寝る」

「乙音!」


 水槽から這い出ようとした乙音に、ぼくは思いつく限りの言葉を差し出す。思案も何もない、何がよくて何が悪いかなんて知らない。ただ、こみ上げたものを声にする。


「ぼくは、きみがどんなものだろうと、ヒトじゃないと判を捺されても、親友をやめてやる気なんかないからな」


 琥珀色の目が驚いたように丸くなって、蕩けるように緩んだ。

「……そう、そっか」

 嬉しそうに頷く彼女に、ぼくは自分のコミュニケーション下手を再認識する。 さんざん考えた言葉よりも、咄嗟の言葉の方がよほど深く刺さったらしい。


「ありがと」


 小さな笑みは涙に濡れていたけれど、頭上に輝く星と同じ色をしていた。

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