28. 少年少女卒業旅行(2)
ぐだぐだと話していたのが嘘のように、わりとトントン拍子でぼくらの卒業旅行の準備は進んでいった。
途中、お嬢さんとの旅行先ですったもんだした梓からヘルプの電話があったが、どう聞いても惚気だったので乙音からお嬢さんへ実況をお願いするなどの一幕はあったものの、大したことは起こらないまま、ぼくらは当日を迎えた
ひとけのない電車に乗り込んで、九駅。そこからバスに乗ってしばらくすれば、海の気配は遠くなり、ちらほらとすっかり収穫期を終えた畑や田畑、ビニールハウスなどの農地が増え始める。
見知らぬ景色の中に潮の香はせず、かわりに緑と土のにおいがしっとりと積もっていた。地元の山や森の中とも違う匂いは少し不思議だ。
感慨に浸りかけ、とっさに首を横に振る。
ぼくにはまだやることがあるのだ。具体的にはなかなか降りてこない親友への連絡とか。
取り出した端末で乙音を呼び出せば、四コールほどしてから返答があった。
「乙音。着いたよ」
「んあ。あー……寝てた?」
「声が寝てるから、そうじゃない? ぼくがいる場所わかる? 水側の停留所のすぐそばにいるんだけど」
だいたいの移動が徒歩で済んでしまう地元では見る機会はほとんどなかったが、公共バスは基本的に二階建てらしい。
一階は水っ子たち用のプール状態、二階が陸っ子たちが座れるようにベンチを多数設置した座席になる。
自然、水っ子たちの乗降の際には大量の水がこぼれることになるので、二階席と一階席の乗降口は真逆につけられ、乗客は水陸の住人で動く場合はどちらかの乗降口側へ相手を迎えに行くのが一般的である。
「お、いたいた。睦月ー」
ざぶーんと水側の降り口から姿を現した乙音がのんきに腕を振る。こいつ、遅れたことを忘れたのだろうか。まあ、迷惑をかけない程度だからいいんだけど。
「まあまあの時間で降りてきたかな。乗り物酔いとかしてないか?」
「お母さんかな? いや、うちの母さんこんなに気を配らないけど」
「心配してるんだから、茶化さない」
「はぁい。乗り物酔いは大丈夫。寝ちゃったしね」
「ならいいや」
嘘はついていないようだ。顔色も良好。声が少しふわふわしているのは先ほどまで寝ていた余波か、あるいは旅先で気分が高揚しているからだろう。
そう真面目に考えるぼくの顔をしげしげと眺めた乙音がひとつわざとらしい重々しさで頷いた。
「……なるほど。睦月は酔ったんだね?」
思わず舌打ちが漏れかけた。
「……なぜバレるのか」
「親友だからねえ。散々顔色見てるんだからそんな絶不調みたいな顔してたらわかるに決まってるでしょ」
「そんな顔色悪い? ぼく」
「遠目から見たら死人かと」
「そこまでか……」
指先が冷たくなっているし正直こみ上げる吐き気はいまだに治まっていないが、一発でバレるほど顔に出ているとは。
地元で乗り物にほとんど乗らなかったのはお互い同じはずなのに、なんで乙音はこんなに元気なんだと少し恨めしくなる。
「どうする? 一旦休む?」
「いや、歩いてたら治る……と思う」
下車してから乙音が来るまででだいぶ回復してきたので、おそらく時間経過でよくなるのだろう。たぶん。
なにせ乗り物酔いなんて初めてなのだ。風邪の時とはまた勝手が違うだろうし、確実なことは言えない。
「じゃ、いこっか。無理はしないでねー」
「はいよ」
ぼくはリュックともう一つの荷物を持ち、乙音は荷物用のミニ舟を引きながらまっすぐバス通り沿いに歩き出した。
目指すは第一の目的地である農園だ。バス停から少しばかり離れたところにあるらしい。送迎サービスもあったが、体力の有り余っている高校生二人の旅路には早々負担にならないだろうと二人して話題に上げることもなかった。
「そういえばさ、結局水路あるって?」
「苺の方はアクアポニックスだから淡水ならあるけど、林檎の方は難しいみたい」
「じゃあ苺の方だけだね」
「え、どっちもやるけど」
ぼくの言葉に虚を突かれたように、ぱちりと乙音が瞬いた。
「睦月がおぶってくれるの?」
「いやぼくら体格ほとんど変わらないし無茶……。きちんと考えてきたよ。ようは移動だけどうにかなればいいんだからさ」
ぼくはそう言ってガチャリと小脇に抱えたそれを揺らした。
それから30分もしないうちにぼくらは件の農園に到着した。調べた通り水路はバス通り沿いに通ったものだけで農園内には通じていない。いつもの曲芸じみた逆立ち歩きやらオットセイのように器用に進む形式でも乙音なら進めるだろうけれど、砂利なども多いその道を行かせる気にもなれない。
ちょっと待ってて、と声をかけて、ぼくは抱えていた包みを地面におろし、何度も練習した通りに既定の形に組み上げていく。
ぼくこれを差し出す日が来るとは思ってもいなかったな、と最後の金具をはめ込んだそれをひと撫でする。
「……車いす?」
乙音の言葉に頷く。
その通り、ぼくが用意したのは折りたたみ式の車いすだ。かつてぼくが座っていたものよりも随分簡素だが、旅路の助けにはちょうどいいだろう。
「補助輪を応用した奴とかも考えたんだけど、これが一番手っ取り早いかなって」
なにせ、補助輪形式だと結局手をつかせることになってしまう。それにほとんどの尾びれ持ちはどれだけ身体能力に優れているといっても乙音のように逆立ちで歩き回ったりはしないので、この方法が一番不審じゃない。
地元だと乙音が曲芸技を使って闊歩しているのはもはや日常で誰も騒ぎやしないが、さすがにここではそうはいかない。
「なるほど」
「許可は取ってあるから、木の近くまではこれで行けばいいよ」
「用意周到! さすが親友!」
農園内はどこか空気自体が甘い香りに満ちているように感じた。
熟れた果実が、その艶やかな紅い地肌をにおいたたせているに違いない。胸いっぱいに吸い込んで、はたと目を瞬かせる。
潮風とのあまりの正反対さに乙音も不思議な感覚を覚えたのだろう。鏡のような表情と目が合い、思わず笑ってしまった。
気を取り直して、まずは苺を狩った。
ビニールハウスの中は巨大な水槽と苺畑の二重構造になっており、ゆったりと泳ぎ回る大きな鯉たちと、その頭上で鈴なりに実る手のひら大の苺が存在感を放っている。鱗と果実両方の艶やかな赤色がブルーとグリーンの間で浮かび上がるようだ。
「水路から直接入って大丈夫なんですか?」
色々説明してくれた農園のスタッフに尋ねる。
「ああ、繋がってるように見えるのは外見だけでね。通路と水槽の水は別々に引いてるから大丈夫だよ」
水人の観光客はこうした農園に好んでやってくるから、彼らが少しでも不快な思いをしないようにしたいのだと笑うスタッフさんはどこか橘を大人にしたような雰囲気があった。
自分の手で摘んだ苺はツヤツヤとした赤みがいっそう鮮やかに見える。口に含めば甘酸っぱいが果汁がぱっと広がって、心躍る香気が鼻に抜けた。
うん。美味しい。
水路の方に目を向ければ、上機嫌そうに揺れる尾びれが見えた。顔は葉の影になっているけれど、それでも充分わかるくらい全力で楽しんでいるようでなによりだ。
まだ林檎もあるの忘れるなよ。とだけ声をかければ、果汁のついた手がひらひらと返事をした。
それから規定時間いっぱいまで苺を食べきった乙音を車いすに乗せ、スタッフさんの後ろをついて林檎園へと移動する。入り口で感じた甘い香りが進むほど濃くなっていき、あれは林檎の匂いだったのかと一人得心する。
「あー! いっぱい食べたー!」
「スタッフさんびっくりしてただろ。食べすぎ」
「規定量しか食べてないよ?」
きょとんとした顔で乙音がぼくを見上げた。
「けっこう規定量に余裕持ってたからなあ、これまで限界値まで食べた人がいないんだと思うよ」
「それはもったいないなあ」
美味しかったのに。と呟く乙音の表情に出発前の憂いは見えない。まさか計画時からこの農園につくまでに悩みが解けるような出来事があったとも思えないし、おそらくは道化の調子が戻ってきているだけだろう。
そうこうしているうちに林檎園についたらしく、小さな立札の向こう側には赤い実をつけた木々が整列しているのが見えた。
一応車いすが入ってもいいとは聞いているけれど、足元はふかふかとした草に覆われているしこれなら乙音が降りても問題ないだろう。
案内してくれたスタッフの人に口々にお礼を言い、ぼくらは背の低い木の前まで進み出る。
緑の葉の合間で実る林檎の赤は先ほどの苺とはまた違う、目が覚めるような色をしている。苺の赤が触れれば手が染まってしまいそうな濡れた赤色だとすれば、こちらは光を閉じ込めたような爽やかな赤色と言ったところだろうか。
「乙音、届く?」
二足なら小学生でも届く高さだが、乙音が陸で活動するときに曲芸をしない場合の基本姿勢はオットセイスタイルだ。ぎりぎり届くか届かないかと言ったところだろう。
「ん。大丈夫大丈夫」
ひらりと手を振って、乙音が両手を地面からはなした。腹や背に力を入れて器用にバランスを取りながら徐々に接地面積を減らしていく。
ついには、尾びれ状の後肢をほぼ180度に開いてそのまま直立してみせた。
いや、出発前に少しなら立てるようになったよ! とは聞いていたけれど思ったよりまっすぐだ。安定するまでは揺れていたけれど今ではちらとも揺れていない。どんな体幹してるのやら。
新たな曲芸技を披露しながら、乙音はスタッフさんのアドバイス通り、一番近くにあった甘い香りを強く発している果実に手をかけた。
ぐっと水かきのある手が掴んだ実を押し上げれば、ぱきっと小さな音がして容易く枝から分離する。
思ったより簡単に取れるものなんだな、と思いながらぼくも手ごろな実をもぎ取る。ずっしりとした重さが手にかかり、つるりとした表面が指に吸い付くようだ。
齧りつけばしゃくりと軽い音がして、爽やかな甘みと香りが口いっぱいに流れ込む。これまで好きでも嫌いでもなかった林檎が好物になりそうだ。
ぼくでこれなのだから、乙音はどうだと思ってみれば、もう目がきらきらと輝いている。早々に一個目を食べ終わったらしく、スタッフさんに次によさそうなものを見繕ってもらっている。
先ほど苺をめいっぱい食べていたのが嘘のようだ。というかぼくの手にも余るくらいの大きさの林檎をまるまる一個完食してさらに次に行けるとか、乙音の胃袋はどうなっているのだろう。
思わずその薄っぺらい腹を見つめずにはいられなかった。
それ以降は規定量いっぱい食べ進める乙音と土産用にいくらかもぎ取るぼくという、果たして同行者なのか怪しくなりそうな絵面で決められた時間を過ごしきった。
スタッフさんたちにお礼を言い、農園を出るころにはもう日は天頂から随分と傾いていた。予定通りではあるが、どれだけ熱中していたのかとつい茫然としてしまう。
「えっと……次は海か」
「山行ったり海行ったり大変だねえ」
まだ農園内の甘い香りが尾を引いているように、どこかふわふわとした気持ちのまま言った言葉に、水路に戻った乙音がさも他人事のように言う。
「そういう計画立てたのはぼくらだろ」
「それもそう。ここからまたバスだっけ? 酔わないでね?」
「頑張るよ……。で、駅着いたらでかめの水路線があるから船で直、海へ出る」
水路線、とは最近水人側と陸人側で協議して整備された『船』を用いる公共交通機関だ。大幅に取られた水路に下手な家よりも大きな船を浮かべ、内地から直通で海へと向かうことができる。
かつては礼儀知らずなものの船を片っ端から沈めていた水人側にどんな心境の変化があったのかはわからない。しかし、この路線を通すにあたって、言い出したのは水人側だが、敷設する際にはかなり細かな条件があるらしいとも聞くから、複雑な心境が混ざり合っていることだけは確かだろう。
そんなことを思いながら、水路線の駅に停泊する小さなアパートに紡錘形の底を取り付けたような巨体を見上げる。
ふむ、船ってこういうものなのか。変わり者の水人の人とかが住んでいそうだ。
しげしげと観察していれば、乙音がぐっと背伸びをしてぼくに問いかけた。
「この船の中で一泊だっけ? 流火にいがとってくれた奴」
「そ。水陸で隣の部屋」
まだ試験段階らしい水人用の部屋と陸人用の部屋がランダムに設置された混合客室船のチケットをどうして流火さんが取れたのだろうという疑問はあるが、学生としてはありがたいことこの上ない。別に同室に泊まっても妙なことは起こらないだろうが、水人と陸人では快適な環境が違うので適応させた部屋があるのは喜ばしいことだ。
「寝て起きたらキラキラの海かー! 楽しみ!」
ぱしゃんと尾びれが水面を打ち、ゆらゆらと船に続く水人用の入口へと泳ぎだす。よほど地元とはまた違う海が楽しみなのか、それともやっと悩み事の解決方法が見つかる事への安堵なのかはわからないが、随分とテンションが高い。
「……あんまりはしゃぐなよ」
「はあい」
幼子のような返事に肩をすくめ、ぼくらは指定されている部屋へと向かった。といっても別に馬鹿みたいに広いわけでもないのでそう時間もかからずドアの前につく。
時計を見れば、少しばかり早いが歯磨きなどをしているうちに眠る時間になってしまいそうな角度を示している。
ぼくはひらりと手を振って、ドアノブに手をかけた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみー」
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