26. きみのメランコリィに触れない
近頃、乙音の様子がおかしい。
「乙音」
「……あっ、ごめんなに聞いてなかった」
返事が遅れたり。
「乙音」
「……」
気づかずに早々に家に帰ったり。
「乙音」
「ん? どうかした?」
「……」
笑い方が下手くそになっていたり。
最初の違和感は、本当に些細な、数日たてば記憶の波間に消えかねないものばかりだった。
だから、本格的に気にかけ始めたのは違和感を感じ始めてからしばらくたった後、橘が何気なく発した一言からだ。
「最近、乙音おかしくねえ?」
今朝段ボールで持ってきたはずなのにだいぶ量が減ったみかんを口に放り込みながら橘が首を傾げる。ぼくは割ろうとしていたみかんから目を放し、顔を上げた。
「橘でもそう思うなら、やっぱりおかしいのか」
うっかり境界を見誤らないようにと、疎遠とまでは行かないが一定の頻度で離れるようにした副作用だろうか。周囲が乙音の異変を噂し始めるまでぼくはそこまで周囲に知れるほどの様子のおかしさだとは思っていなかった。
その会話から一週間もしないうちに、石が坂を転がるように噂は大きさを増していった。
――「この間すんごい唸ってるの見かけたぜ」
――「尾びれがわかめに絡んで取るの苦労してた」
――「鏡で自分見て『わたしってこんな顔だっけ』って言ってたよ」
――「たまに溺れそうになってるよ」
水、陸どちらからもこんな目撃証言が寄せられる数が日に日に増していく。中にはくだらないものもあるが、ちらほら不穏なものもある。
いよいよ異常事態と言わざるを得なくなってきた。
さて、どうしたものかと腕組をしながら次第を整理していれば、いささか引いた様子で橘が口を開いた。
「いやなんでおまえのところに乙音の情報が集まるの? 怖いんだけど」
「頼んだ覚えはないのに水教室から陸教室まで全員ぼくに相談してくるんだよな……」
「完全なニコイチ扱いじゃん。おめでとう」
「親友として喜ぶべきかそこまで盛大に乙音が調子崩していることを嘆くべきか……昼飯食べ損ねてるとかいう証言もあったなそういえば。ちょっとあいつの口に林檎つっこんでくる」
時計を見ればまだ充分昼休みは残っている。大方どこにいるかも検討はついているし、問題ないだろう。
いそいそと自分のデザートだった林檎のタッパーに蓋をする。
「お母さんか?」
「親友様だが?」
「ツッコまねえぞ……まあいいや。俺の分のみかんも持っていってほしい」
ぽんと投げられたみかんを受け取り、立ち上がった。
まったく我が親友は今日も幅広く愛されているようでなによりだ。
足早に廊下を進み、階段を上がる。
うちの学校は全校生徒合わせても都会の一学年がやっと、といったところだけれど、かつて人数が多かったころの名残なのか教育方針なのか無駄に五階まである上に屋上なんてものまで整備されている。
安全上の都合で屋上に入ることが禁止されていた時期もあったらしいけれど、ぼくらが入学する前年に天文部が直訴したおかげで今ではすっかり生徒たちの憩いの場だ。
まあ今は冬なので、よっぽどの物好きしか昼間はそこに長くとどまらない。
もちろんぼくらは物好き側だ。
冷たいドアノブを肘を駆使してこじ開ければ、目当ての姿はしっかりそこにあった。
水人用の水路と直結したベンチに腰かけて、彼女は空を見上げている。
「乙音ー」
「……ん? あ、睦月だ。なあに?」
遠くをぼんやり眺めていた乙音がこちらを向く。循環塔の影になって顔色がわかりにくいが、反応が遅いのは確かだ。
「最近飯食い損ねてるって聞いたから林檎とみかんのお届けです」
「あ、やったあ」
にこにことした笑顔で差し出された両手の上に果物二つを積み上げて、ぼくはため息をつく。
「……否定しないってことは本当に食い損ねてるんだな?」
「ん、たまーにね。大丈夫。必要な栄養は一日トータルで見たらとれるようにしてるから」
悪びれる気配もない。言い訳ではなく本当に計算しているのだろう。
――つまり、計算を必要とするくらい、食べるのを忘れているということだ。
それだけならばまだいい。問題はそれを周囲に誤魔化しきれずにいる方だ。いつも通りの調子ならば、ただのクラスメイトにまで様子のおかしさを悟らせるようなヘマはしない。
体調でも悪いのかと眺めながら、ぼくは上履きと靴下を脱いで水路に足を入れ、際に腰かける。当然脳天まで響く冷たさが体を駆け上がるが、まあ慣れれば平気だろう。
「風邪ひくよ?」
「そのときはそのとき。ぼくの自己責任」
呆れ顔の乙音とようやく顔の高さが一致する。まっすぐかち合った視線を受けて、そのためにぼくが冷水に足を預けたのだとわかったらしい琥珀色の目が気まずげに歪んだ。
いくら影の中だろうとここまで近づけばしっかり顔も見える。
やつれた様子もなければ、血色にもとくに問題はない。だが、目の輝きが足りていない。炎が下に敷かれたように煌めく琥珀色が台無しだ。
「水っ子のくせに溺れたって聞いた」
「あはは。ちょっとふざけてたらね。恥ずかしいからあんまり掘り下げないでほしいな」
鏡を見せてやろうか。今の乙音では出会ったころのぼくどころか、そこら辺にいる赤の他人にだって真意がバレる。
「……悩みがあるなら相談しなよ」
無理に口を割らせることもできなくはない。
けれど、ぼくはそうしたくなかった。彼女が自分から開示しないかぎり、無遠慮に触れてはならない領域というものがある。
――中学の頃、人魚の実在について話した時のことを思い出す。
近頃の乙音の不調は、あの時の様子に少し似ている気がした。
あの後、幾度か乙音の目線で撮った写真を見せてもらったり、自分たちがなにをどう感じているのかの答えあわせをしたこともあった。
けれど、結局彼女が人魚を話題に出した理由はわからないままだ。
いつの間にか折り合いをつけたのだと思っていたけれど、もしかしたら今もくすぶっているのではないだろうか。
あるいは、熾火となっていたそれが再び炎を上げ始めるようなことがあったのではないか。
だとすれば――無闇に突いてはいけない話題だ。
ぼくが火傷するだけならばいいけれど、あれは乙音自身も燃やしてしまう。
だから、ぼくにできるのは、きっかけを与えることだけだ。
ぐしゃぐしゃに貼り付けた下手くそな笑顔が、少しは見れるくらいの柔らかいものに変わる。
「ありがと。大丈夫だよ。自分の限界はわかってるつもり」
そう口にしたことで『悩み』だと改めてラベリングしなおせたとでも言うように、乙音がぐっと伸びをする。
「自分で解決できるから大丈夫だよ。親友」
じゃあ行くね、なんて軽い調子を装って水の中に消えていく尾びれを見送って、ひとつ深く息を吐いた。
ぼくも人の頼り方が得意な方ではないが、乙音も大概だ。
水から引き揚げた足は、すっかり赤く冷え切っていた。
屋上から戻ったぼくは懐炉を上履きの中に突っ込みながら机に突っ伏した。
「水っ子が溺れそうになるってどういう状況だよ……」
「え、聞き損ね?」
「ごまかされた。押して駄目なら引いてみろって戦法も躱された」
別に聞きたかったことはそこではないけれど、橘に深いところをぶちまけるわけにもいかないのでそう言っておく。
こういうところが似た者同士なんだよな、ぼくと乙音。
橘が難しい顔をして天井を見上げた。
「あー……なんなんだろうな。あいつ、もともと変わってはいるけど変わってるのの質がちょっと違っているっていうかさ」
「わかれば苦労はしない」
そうは言いつつも、一応思い当たる節はある。
乙音の奥には、尾びれ持ちであるという希少性からくる孤独がある。
自分が、尾びれ持ちが、『ヒト』ではないのかもしれないという、小さな不安の種はいつだって彼女に付きまとっているのだ。最初の夏に彼女から分かち合われた彼女の不安は、おそらく今もあの道化の裏に着々と溜まっているに違いない。
それがぼくも知らない何かしらの『人魚』にまつわる出来事と合体して、それまで耐えられていたものが臨界点を超えたのではないだろうか。
本人の了承も取らずに勝手に事情を明かすわけにもいかないので、口にはしないが。
いや、ぼくも別に全部語ってもらえたわけではないので七割くらいは憶測にすぎないんだけれど。
「どうしたものかな」
「まあ、乙音のことだし、しばらくしたら元気になるだろ。あいつ強いしさ」
「……だといいんだけど」
そんな見通しは甘かったようで、ひと月すぎても乙音の様子は変わらなかった。
だんだんと猫の被り方は調子を戻し、周囲から違和感を持たれることは少なくなったようだけれど、ぼくの目からすれば引きつり笑いが愛想笑いに変化した程度だ。
少なくとも、育ての母である皐月さんの次には見抜く確率が高いと自負している。
そんなことを考えていれば、丁度よくその日のうちに家に魚を届けに来た皐月さんと出くわした。
「皐月さん。最近乙音変じゃありません?」
「あいつは最初から変わりもんだろ。そこが可愛いんだが」
「いやそういうことじゃなくて」
「じゃあ、どういうことだ?」
とぼけられているのか、それとも本気で気づいていないのかどちらだろう。腹芸を好む人ではないが、食えないところも多分にある。
「いつになく調子が悪いというか、ドジが多いというか……乙音、ふざけることはあっても基本運動も勉強もできる方なのに溺れたとか聞いたし」
「まあ、何か考えてるのは確かだけど……それで? 睦月はなにがしたいんだ?」
問いかけられて、一瞬答えに困ってしまった。
何がしたい。と言われても、特に求めるものはないのだ。
しいて言うならば――。
「……あいつが過ごしやすいようにしてやりたい」
「そうか。頑張れよ」
至極さっぱりと頷いて、皐月さんは踵を返した。背も高いうえに足も長い人だから、引き留める間もなくその姿は水路の中に消えてしまう。
薄情な人だと思いかけるが、あれが乙音から不可思議な部分を引いてオブラートもすべて剥がし切った性格なのだと思うと、なんとなく納得できた。
ヒントこそ得られなかったけれど、気合は入ったから良しとしよう。
翌日登校すれば、ひどく蕩け切った顔の橘に迎えられた。
また惚気か。呆れながらどうしたのかと尋ねる。
「今度千早ちゃんと旅行に行けることになってさー」
「この間電話するだけで照れてたのに突然だな?」
「いや、千早ちゃんが旅行券あてたからって誘ってくれて……そこできちんと将来どうしたいか話したいなって……思って」
「ふうん……まあ、いいんじゃないか?」
たぶん業を煮やしたのはお嬢さんの方なのだろうな、という言葉は飲み込んだ。乙音に負けず劣らず濃い子ではあるが、基本的に彼女はご令嬢なのだ。懸賞で旅行券を当てるなんてことは多分しない。
「旅行ね……」
そういえば、なんやかんやでこの町から出たことがほとんどないな、とその時初めて気が付いた。
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