冬にきみと約束を

25. 甘い夢は何でできている?

「そういや、進路って決めた?」

 高校生になって初めての冬。とある放課後に橘が突然そんなことを言い始めた。

 早い人なら気にし始めるころだとはいえ、まさかおまえが、と間の抜けた声を出しかけて、飲み込む。

「進学するつもり。まだ学部とかは決めてない。橘は?」

「迷ってるんだよなあ。最後は家継ぐのは決めてるんだけど」

 背もたれを抱え込みぼくの前の席に座った橘の表情が曇る。

 家業を嫌っているわけではないはずだ。毎年嬉々として自分の家のみかんができたと配り歩くような奴が嫌っていたら驚きである。

 だとすれば、農学部とかで学んでから継ぐか、すぐ継ぐかで悩んでいるのだろうか。

「ああ、継ぐんだ」

 アタリをつけたことを顔に出さず、あくまで視線は手に持った本に落としたままそう言えば、背もたれを抱いていたはずの日に焼けた腕が、ぼくの机の上にだらりと載せられる。

 正直に言って、邪魔だ。

「ねーちゃんはもう家出てるし、下は妹だしなー。いや、俺が勝手にそう思ってるだけなんだけど」

 でもなあ、と妙に歯切れが悪く、ついには頭まで机に載せてくる。

 割と明朗快活な人間であるこいつがこうも中途半端な態度をとるときは、大抵ある人物が絡んでいる。

 なるほど。進学か早々に家業に入るかとか、そんな真面目な話をしに来たわけではないらしい。

 ある意味橘らしいな、と本を閉じ、邪魔な頭を小突く。

「てっきりお嬢さんのところに婿入りでもするのかと思ってたよ」

「むっ……ことかそういうのはまだ早いというかその」

 頬はおろか耳まで紅潮させ、頬に手を当てたり、頭を掻いたりと途端に動きが増える。本当にわかりやすい。

「くねくねするな気持ち悪い」

 盛大にため息をつく。見慣れた姿ではあるが、年を重ねるほどに照れ方が激しさを増しているような気がする。

「ひどくね?」

 不満げに頬を膨らませるが、可愛くもなんともない。

「目の前で190オーバーのでかいやつが、遠恋中の相手のこと思って百面相して悶えているのを見せられたぼくの気持ちになってくれないか?」

 素直に言って微笑ましさよりも鬱陶しさの方が上回る。なにせこの男、のろけを必ずぼくに言ってくるのだ。さすがに週三回以上はきつい。

「年々、睦月の口が悪くなっていってるような」

「そうか?」

 残念だが自覚的だ。わざと荒くしているというよりはいい加減、優等生面にも飽きてきたので学校でも隠さなくなったというのが一番適切な表現だが。

「まあいいんだけどさ。……正直、千早ちゃんがどうしたいのか、わからないんだよな」

 運動部らしい肺活量で、大きなため息が橘の口からあふれる。

「聞けば?」

 そもそも、この男に察するという芸当ができるとは思えないのだから、うだうだ悩まず直接聞いてしまえばいい。だというのに、残念なものを見る目線が返される。

「ほんっとに情緒ってもんがないなこの友人A」

「ぼくは当たり前のことを言っただけだろ友人B」

「俺をBにするほどおまえ友達いないだろ……」

 失礼な奴だな。と思いはしたが、否定はしない。

 そもそも狭く深く派だと前々から宣言している。

「Bの方が口当たりがよかったんだよ」

「……はあ、千早ちゃん……」

 これは早々に手を打たないと完全下校時刻になるまで解放されなさそうだ。

 おもむろに端末を取り出し、履歴の一番上にいる名前をタップする。呼び出し音が三コールほどなって、いつもの声が聞こえた。

「……あ、もしもし。乙音? 今そっちにお嬢さん来てるよな?」

「千早ちゃんこっち来てんの!?」

 椅子を倒すな。学校の備品だぞ。

 ぎゃあぎゃあ一人で慌てふためき始めた橘を余所に話をサクサク進める。

「うん、そう。毎度おなじみの大男がめそめそして鬱陶しいからさ、かわってもらえる?」

「ちょ、ま、待って待って心の準備が」

「月一デートしておいて何を……。あ、どうも。睦月です。うん、元気そうで何より」

「なんでおまえが恋人みたいな出だしで喋り始めてるんだよ!」

「いや、今のは普通のあいさつだろ……。ああ、そう。きみの梓さまがちょっとナイーブになってるみたいだからさ。少しお話してやってくれない? ああ、大丈夫これ無料通話だから。うん、かわるよ」

「待て待てま、あっ……うん、俺、梓。うん、」

(はあ、めんどくさい奴……)

 耳まで赤くしてその巨躯に見合わない繊細さで頷きながら喋っている様を横目に見るのにも飽きて、ぼくは先ほどまで読んでいた文庫本に再び目を落とした。少し昔の詩人が最愛の妻へ、生前どころかその死後においても、生涯をかけて贈り続けたというそれは、未だに恋というものに実感を持たないぼくでも、籠められた想いの強さに圧倒されそうになる。

 ふいに風が吹いて、読み進めていたページがぺらぺらと逆再生されていく。慌てて指で抑えてはみたものの、そもそもまだ最初の方だったこともあって、最初の一篇にまで戻ってしまっていた。

 (どのあたりまでいったっけ)

 栞紐を挟んでおくんだったな、とページの隙間からそよそよと風に揺れていた茶色の紐を左の人差し指に絡めながら書籍特有の薄くて頑丈な紙を指でつまみ――ふいに、冒頭を飾る詩が目についた。

 

  いやなんです

  あなたのいつてしまふのが――

 

 どんな場面でこれを詠ったのか、ぼくは知らない。

 なんとなく図書館で手に取っただけで、この詩人についてぼくが知っているのは、裏表紙と作者近影に書かれた解説文くらい。それでも圧倒されそうな熱量と哀切――それを、一歩下がりながら読んでいた。

 だというのに、このたった二行に心動かされるようなことに思い当たる節など一つもないというのに、どうしようもなくその一節が胸に突き刺さった。

 

 (乙音がどこかにいってしまうなんて、そんなことあるはずがないのに)

 

 ふいによぎった思いに、一瞬遅れて思考が追い付いて血の気が引く。

「違う……ぼくは、」

 恋ではない。恋であろうはずもない。

 彼女を独り占めしたいなんて気持ちは微塵もなく、明日恋人を連れて来ても笑顔で祝福できる自信も変わらない。たとえ道が分かれても、10年後にまた不意に会って同じように笑いあえればそれでいい。

 この詩と被る気持ちでは、決してない。

 その確信はかつて橘に宣言した時と何一つ変わっていない。

 だからこれは、予感だ。

 彼女がどこか遠くへいってしまうという、予感。

 もうぼくらはとうに枝分かれた存在だというのに、たったこれだけで揺らいでどうする。自分に喝を入れ、臆病な自分を殺す。

 もうすっかり空気は冬の色をしてるというのにうっすらとかいてしまった汗をぬぐいながら、早鐘を打つ心臓を押さえつけた。

 

(そういえば、乙音は……進路、どうするんだろう)


 窓の外を見れば、薄青い空に骨のような木の影が這っていた。


              ***


 そんなことを考えていたからだろうか。

 その夜、こんな夢を見た。

 

 ぼくと乙音が二人、冬の空を背景に、どこかの風が強い屋上にいる。

 ごうごうと耳元で鳴る風にあおられて、ぼくの黒い髪も乙音の真珠色の髪も吹き流しのように揺れている。

 ぼくの学ランも乙音のセーラー服も冷たさを孕んだその風を受けるには足りないだろうに、鼻の頭を赤くしながらぼくらはずっと話している。

 屋内に入ればいいものを、飽きもせずずっとずっとそこで話をしている――二人そろって、立ちながら。

 そう、乙音も、立っている。

 いつものように尾びれを器用に使っているわけではない。

 すらりとした二本の足を上履きに収めて、立っている。陸で直立した彼女は男子の中では身長は中の下といったところのぼくとだいたい同じ高さの身長をしているらしい。双子のようにちょうど同じ目線の高さだ。

 肩を並べて、目線が自然に合う高さで、ぼくらはとりとめもないことを話している。

 夢の中のぼくは、それに違和感を持たず、とうに終わったはずの幼年期の甘露を啜っている。

 まったくもって未練がましいことだ。

 ぼくはそれを知覚しながら、夢の中のぼくを制御する術を持たない。

 

 明日は何をして遊ぼうか。

 昨日したあれは面白かった。

 今日の予定は何だっけ。

 

 順序だてて話すことなどなく、気になったことをだらだら話す。それだけの日々を享受して、甘受している。

 今も雑談はするが、これはもう少し懐かしくも忌まわしいものだ。

 姿かたちは乙音の足以外すべて現在のぼくらそのものだというのに、べったりと癒着するように互いの存在を預けすぎている様は、中学校の頃のぼくらそのものだ。

 彼らがいるのは、あの夕暮れの時に破った殻の中だ。

 空は曇っていて、鈍色をしている。気分がすくような快晴などではない、悲劇的な雨なども降っていない、雨の気配すらしない。どんよりとした、重たいだけの空を頭上に掲げながら、風の強さを無視するみたいに、馬鹿みたいに笑いあっている。

 ――時折、乙音の目が柵の向こうの遠いどこかを見つめるのに、夢の中のぼくはそれに気づかない。

 

 ふいに風がやんで、先ほどまで吹き流しのようにひらひらと泳いでいた真珠色の髪がバラバラとセーラーカラーの上に落ちる。

 琥珀色の目が、凪いだ海のようにぼくを見て、ひどく柔らかく細められた。

 嵐の前に凪いでいるのではない。そもそも風が一度も吹いたことがない、有り得ざる目だ。

 ひどく嫌な予感がする。

 

 「――わたし、どこにもいかないよ。睦月のそばにずっといるよ」

 

 こちらの不安を見透かすような、甘く優しい、残酷さなんて微塵もない声。むずがる子供をなだめて寝かしつけるような、真綿の声。

 けれど、そこに感情はない。ただそれを望まれたらそう返すようにプログラミングされている、機械仕掛けのような空々しさだけがある。

 水かきのある白い手が、ぼくの寂しさを肯定するように柔らかく黒い髪を撫でた。親のように、温かい手だ。

 ――俯けば、そこにはプリーツスカートの下で地面を踏みしめる、ほんの少しのヒレがついているだけの、多くの水人と同じ二本足がある。

 

「違う」

 

 夢の中のぼくと、今のぼくが結合する。

 ふわふわとした甘さもまどろみも吹き飛んで、冬の寒さが肌に突き刺さる。

 ぼくは、飴細工のような手を払いのけた。

 ぴしりとひび割れる音がする。乱暴に扱われて欠けたまがいものの肌の欠片が落ちて、頬を裂く。

 じっとりと濡れた感覚がするけれど、痛みも、鉄の臭いもしない――当たり前だ。これは、夢なのだから。

 

「乙音はそんなに甘い奴じゃない」

 

 目の前にいる、ただ真珠色をしているだけの誰かを、真正面から見据える。

 少女は至極不思議そうに、自分の欠け落ちて空洞が覗く体を見つめ、伽藍の瞳でこちらを仰ぐ。

 まるで、どうして? と言っているかのようだ。

 甘い夢はみんな好きでしょう? と問われているかのようだ。

 

 だから、ぼくは吐き捨てる。

 甘いものは嫌いじゃないけれど、甘ったるいものは好きじゃない。

 

「ぼくの親友は、こんな都合のいい奴じゃない」

 

 睨みつけ、散らばる欠片を踏みつける。

 ひらりと頭上で何かが揺れて、ぼくは空を見上げた。

 よくできました。とでもいうように、いつか見たにんまりとした意地の悪い笑顔を浮かべた親友がいつの間にか宙を泳いでいた。

 この世らしからぬその光景のほうがよほど幻想めいているというのに、自由に泳ぎまわる姿の方が淑やかな姿よりずっと似合っている。

 眩しいものをみるように目細めれば、偽物が甘ったるい声でぼくを読んだ。


「侮辱するなよ」


 呟いた途端、ゆらりと揺らしたそのしなやかな尾びれがまがい物の真珠色を粉々に打ち砕いて――夢は終わった。


              ***


「ひっどい夢」

 寝起きでかすれた声が喉から漏れた。

 まったく、悍ましい夢を見たものだ。

 仮に、あんなすべてのアイデンティティを奪われた、ただ美しいだけの人形のような彼女を望んでいる自分がどこかにいるとすれば、ぼくはそのぼくを殺してしまわなければならない。と寝起きの頭で誓う。

 仮に、世間的に恋と名付けられるような質のものがぼくにあったとしても、それが乙音からやりたいことを奪い去るような真似をするだけの感情ならば、そんなもの、ドブに捨てたほうがマシだ。

 

 夢は本質や、本当の望みを映す?

 現実に出てこれないようなものが、そんな強度を持っていてたまるか。

 夢は、夢だから美しい。

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