24. 黄昏時に見えるもの

 それから数日後のことだった。

 あの日のことがなかったかのように、ぼくと乙音は相も変わらずどうでもいいことをだべり、笑い合う日々を過ごしていた。

 この安穏とした、べったりとした平穏は、けして良いものではないとわかっていたけれど、あの日の静寂を掘り起こすことはどうにも恐ろしくて、ぼくは今日もそれに触れることができずにいた。


 小学校のころから、ぼくは何も成長できずにいるのだと痛感する。それをどうにかしようと考えて手に入れたものさえ、結局は鞄の中に埋もれたままだ。


 ――こんな性根のくせに、なにが世界を敵に回しても乙音の味方をする、だ。笑わせるなよ。死ぬなら今死んでしまえ。あの日捨てそこなった命をもって今償え。

 笑顔の裏で、そんな自分を呪う言葉はこの数日絶えず湧き続けている。

 浮かべている笑顔が歪なことくらい、自分自身わかっている。当然乙音にはわかっているだろうに、彼女がそれを指摘することはない。

 ついに呆れられただろうか、それとも――本当に、気づく余裕がないのだろうか。

 小さな不安と大きな懸念がぼくの心に雲をかける。

 しかし、空はそんなぼくの心情など知る由もなく、見事に晴れ渡った空に赤々とした夕焼けを広げ始めていた。

 永遠に遊んでいられると思っていた夏の昼の長さが恋しくなるほどに、秋の日は短い。

 寂しさにため息をつけば、ぱしゃんと水音を大きく鳴らした乙音が小さく声を上げた。

 大きな琥珀色の目が赤い空を食い入るように見つめている。

「……金色の日だ」

 微かに呟かれた声が何を示しているのかわからず、ぼくは首を傾げる。

「なに言って……」

「わたしね、夕方って割と好きなんだ」

 ぼくの困惑を気にすることもなく、真珠色を朱に染めた乙音が訥々話す。

 水かきのある手に掬い上げられた水が、何になることもなく手の際から流れ落ちていく。

「目線の下が全部光を帯びて、空が深い赤を灯して、一日で一番眩しい時間でしょ?」

 眩く愛しいものを見るように、乙音の表情が和らいだ。

 ぼくは納得できずに空を見上げた。眼前に広がる天頂はすでに暗く、端ばかりが赤々と色づいている。

「夕方ってそんな眩しい? 空気までどんどん青や紺に染まっていく感じがして、むしろ暗いような」

「うん? 天気が悪い時ならともかく、太陽が出てればだいぶ明るくない?」

「……いや、どう考えても暗いと思う」

 明るい、暗い、明るい、暗い。

 一向に意見が噛み合う様子もなければどちらかが譲ることもなく、ぼくらは空を見上げ続ける。

 同じように空を見ているはずなのに、どうしてこうもわかりやすい明るさの話が噛み合わないのだろう。

 首をひねるついでに乙音を見下ろせば、丁度乙音も首を傾げながらぼくの方を見上げたところだった。

「んー?」

「どうした?」

「いやね? 当たり前なんだけど、随分背が伸びたなあって。むかしはこうして並んで歩いても水路よりだいぶ低かったのに」

「そりゃ成長期だからね……」

「うん、視点が変わるんだよね。忘れてたよ」


 それはきっと、身長だけの話ではなかった。

 苦く笑った乙音の顔は、幸福な夢から覚めた少女のように寂しげだった。

 ああ、と思い至る。

 ぼくが寄り添う中で自分の弱さから目を逸らしていたように、乙音もぼくといる間は何かを気にせずにいられたのだろう。

 そんななにも背負わずにいられる時間があんまり楽しくて、愉快で、子供らしい時間だったから、否応なく変化が訪れることを恐れて二人して知らぬ間にそれを意識の外に置いてしまった。

 ぼくらの出会いは変化そのものだったというのに、恐れるなんてまったくお互い、馬鹿みたいだ。

 思わず笑いが込み上げてきたぼくを見て、乙音がゆっくり瞬いた。

 琥珀色の目が、斜陽を吸っていつもよりも濃く色づいている。

 夕焼けの色を切り取ったように赤々とした紅葉を拾い上げ、これがぼくに見えている色だよと差し出してみればくすくすと笑いが転がった。

「――水面から顔を出していると、空が端から赤や深い青に染まりながら白んでいって、それなのに水面は美しい白金色でどこまでも輝いて、揺れるんだ。とびきり気持ちがよくて綺麗な景色で……見てほしいから、もう一回どぽんと行ってみない?」

「突然パワープレイにもっていくのやめろ」

 しんみりした空気をすぐに飛ばしにかかるのは何なんだ。

 恐らく照れ隠しか何かなのだろうけれど、この時期に実行されたら風邪をひくからやめてほしい。

 そこでふと、思いつく。

「だいたい、そんなことしなくても……」

 散々弱虫の種が邪魔をして渡せずにいたそれを取り出して、また臆病が顔を出さないうちにと乙音の掌に押し付けた。

「これを使えばいいよ」

「……? カメラ?」

 乙音の掌から少しはみ出るくらいの大きさをした、銀色のそれをしげしげと見つめる乙音にこくりと頷く。

「そ。がっつり防水機能付き。水の人が海の中で使用しても問題ありません。ってやつ」

「なんで?」

 きょとんとした顔で切り返され、思わず言葉に詰まる。

 これでいつも通りにやにやした何でもお見通しですとでも言いたげな表情で言われたら余裕で返せたのに。

 深く息を吸い込んで、吐き出す。

 きっと今のぼくはとても情けない顔をしている。

「……この間、なんか気を遣わせたみたいだからさ。ごめんの証と、提案」

 声が端から端まで震えていて、こんな言葉一つ吐き出すのにどれだけ勇気が必要なんだと自分に呆れかえる。

 けれど、乙音は茶化すことなくまっすぐにぼくを見据えていた。

 自然と、背筋が伸びる。

「ぼくと乙音は絶対に同じ視点には立てない。体の構造も、思考の構成も、理解しようと努力はできるけど、どうやったって同じものを見るのは無理だ」

 

 同じものを見て、同じところで遊んで、同じものを食べて。多くの時間を共有していたとしても、ぼくらは同じ体を持ち合わせることはない。

 水とか陸とか、女とか男とか、英雄とか、人間とか、そういうもの以前の問題として、ぼくらは別の存在だからピッタリ同じではいられない。

 そんなことはずっと前から知っていたはずだったのに、それを忘れてしまうほどにぼくらは互いに親しんでいた。

 母の胎内で結合した双子のように、境目を見失っていた。

 べったりとした平穏が連れてきた『よくない感じ』の正体は、それだった。

 二人で一つと言えば聞こえはいいが、それはやがて互いの成長を阻害する原因となる。

 それを防ぐためにもぼくらはあの穏やかで居心地のいい――刺激のない秘密基地というシェルターへの依存から抜け出さなくてはならない。

 たったひとりの人間として、生まれ落ちるために。


 それは別に、離別ではない。

 別々のものとして立ちながら、それでも同じものが見たいなら――見ていたいなら、知らしめたいなら、知りたいなら。

 甘えるのをやめて、遠くから観察するのをやめて、孤独な生き物を美しいと愛でるのをやめて、きちんと傷つく覚悟をしよう。

 そんな、人が関わる上であたりまえのことを、改めて始めるだけの話だ。

 

「だから、それで乙音の見ている世界をぼくに見せてよ」


 きみの琥珀色の目には、何が見えているのかを教えてほしい。

 

 ぽとりと、先ほど渡した紅葉が水面に落ちる。

「……はは。なにそれ」

 言葉とは裏腹に、乙音はもう笑っていなかった。

 斜陽に濃く影を落とされたその顔は、よく見えないくせにこれまでの激情よりもずっと生々しい。無表情に近いのに目だけがギラギラ燃え盛るように揺らめいている。

 恐ろしい、わけではない。

 ただただ、美しい造形だけが持つ凄味が原液のまま目から流し込まれているように、一挙一動から目が離せない。そのくせ長いまつ毛が震えるだけで平伏したくなる。いや、これは造形だけの問題ではない。もっと深く、彼女の在り方そのものが、この呪いじみた影響力を放っているのだと本能で知る。

 これが正真正銘、一切道化を演じていない彼女の素顔なのだと思い知る。

 なるほど、乙音がどんなに薄くともなにかしらを演じ続けたがるわけだ。

「もともと、同じ体の形をしていようと、誰も彼も本当の意味で同じ風景を見ることはできないよ。双子だろうとね」

 だって、同じ座標に同時に違う人が存在できるはずもない。と道化が剥がれた顔のまま、乙音の口角がつり上がった。

 歪で、どこか攻撃的な――威嚇のような、笑顔だ。

 一度も乙音の激情に触れたことがなければ、気を失っていたかもしれない。自分に向けられたと思いこんで生涯のトラウマになりそうだ。

 威嚇されているのは、ぼくではない。ぼくに対しては何の圧も向けていない。そうわかっていても、冷や汗が止まらない。

 なのに、ぼくの口角もまた、乙音を真似るようににんまりと弧を描いてしまう。

 だって、こんなの、仕方がないじゃないか。

 こんな記念すべき日に、笑わないでいろって方が無茶だろう。

 一体何が琴線に触れたのかは知らないけれど、彼女が慰めでもなんでもなく、その深淵を一部とはいえ覗かせてくれているのだから――嬉しくないわけがない。


「いいよ。親友――わたしの世界を、同じ場所に立つことはできなくても、見せてあげる」


 渡したばかりのカメラのファインダーを覗き込んだ乙音が、パシャリとシャッターを切った。空の彼方に向くレンズの先に太陽の姿はすでになく、月と星だけが静かに燃えている。


「なにを見ても、文句言わないでね」


 もちろん、とぼくは頷いた。

 夜風に、冬のにおいが混ざっていた。

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