冬支度

23. 人魚問答 あるいは

 ぼくらの秘密基地に入る方法は二つある。

 一つは、最初に乙音に連れてこられたときのように海に潜っていく方法。

 これは夏場はいいけれどほかの季節に実行するには少々厳しいものがあるし、なにより乙音の手引きなしでは海の中で自由に泳ぎ回れるほどぼくの泳ぎは熟達していない。

 だから、ぼくはもう一つの方法で行くことがほとんどだ。

 花桃の生えた崖に続く道の途中、鬱蒼とした木々と岩の隙間にある洞穴の暗く狭い中をずっとまっすぐ進んでいく。通うようになってから滑らないように色々工夫をしてはいるが、それでも水場に続くこの道は滑りやすい。苔に足を取られないように慎重に歩き続ける間はいつも少しの恐怖心がぼくを襲う。

 この先は本当にいつものあの場所に通じているのか、ぼくは前に進んでいるのか、今本当に生きているのか――そんな不安に心臓が慣れることはない。

転ばないように、それでもできる限り早く着くように足早に進めば、青い光に包まれる。

 ほっとして息をつく。最後の一歩を踏み出せば、もうすっかり過ごしやすく改造しきったぼくらの秘密基地の中だ。

「お、来た来た」

 ぱしゃんと水を打つ音がする。

 今日は乙音の方が早かったようだ。

「今日は何して遊ぼうか」

 中学校生活ももう残り半分を切ったというのに、彼女は今日も小学校のころと同じ文句を言ってにやりと笑った。

「なんでもいいよ。楽しければ」

 ぼくも結局、同類なのだけれど。


 それからいつものように乙音が持ち込んだ謎の物体を検分したり、陸から持ってきた海にはなさそうな物を見せたり、持ち寄ったお菓子を食べ比べたりして遊び疲れたころ、ぼくらの遊びは自然に雑談へと切り替わっていった。

 それもいつものことだ。

 ぼくらはいつだって好奇心に餓えている。


 二、三議題が移り変わって、いつもならそろそろ帰らなくてはいけないと意識し始めるころになって、乙音が新しい議題を持ち出した。

「そういえばさ、人魚って本当にいると思う?」

 珍しいこともあるものだ。

 乙音がこんな時間ギリギリになって議題を切り替えることも、『人魚』という言葉を持ち出すこともどちらも滅多にあることではない。

 ぼくは内心驚きながら、ふむ、と考え込んだふりをして、茶化すように笑って見せた。

「目の前に」

「あはは。毛なし猿と猿人どっちがいい?」

「ごめん」

 すぐさま腰を90度に曲げて謝罪する。

 口で笑い声を発音しながら完全に目が笑っていなかった。

 自分で話題に出してきたからそういうフリかと思ったけれど違ったようだ。

 現代において、『人魚』という呼称に対して水人が示す反応はほぼ両極端と言っていい。

 あくまで幻想であるのだから『あだ名の一つ』として大して気にせず受け入れるものと、現実と幻想の区別もつかず呼んでくる奴が鬱陶しいから絶対受け入れたくないというものだ。前者の場合は呼んでも何ということはないが、後者の場合は歯ぐきから血が出るまでひっぱたかれたとかいう例も残っているくらい拒否反応をしめされる。

 もう使わないようにするのが安全なのでは? という意見が度々出ることがあるが、一部地域においては未だに水人の別名として陸と水双方で使われていたり、物語上語られた嵐を呼んだりする怪物・幻獣としての存在を研究目的で区分する場合に使用されることもあるので容易く使用禁止にすればいいというものでもないのが難しい単語の一つだ。

 まさか乙音が拒否派だったとは。

 たいてい拒否反応を示す人は自分で口にするのも嫌がるし、なにより乙音の性格から拒否派だとは思っていなかったので、正直驚いた。

「わかればよろしい」

 そう言った彼女に促され顔をあげれば、再び同じ問いが投げつけられる。

「で、人魚っていると思う?」

 怒る割にその単語を口にすること自体には忌避感がないらしい。

 つまりはここで言う『人魚』は彼女たち水人のことを示しているわけではないというとだろう。

「水の人たちのことじゃなくて、所謂お伽話の『人魚』ってことでいい?」

 念のため確認すれば、こくりと素直な頷きが返ってきた。

「うん。下半身が魚で魂がなくて恋が叶わないと泡になっちゃうアレ」

 恋なんてワードをわざわざ使ってくるあたり、恐らくイメージはハンス・クリスチャン・アンデルセンの『人魚姫』でいいのだろう。

 19世紀前半に発表されたそれは、水人と陸人が共存する現代においてはよく取り上げられる作品の一つだ。

 水人と陸人の悲恋を書いたものである。いやいやアンデルセン自身の悲恋をモチーフにして書いたものに過ぎず実際の水人は一切関係していない。もしかしたらその悲恋というのがアンデルセンが水人に恋をした証なのでは? 等々、今は亡き偉大なる童話作家が聞いたらどんな反応をするのかと思ってしまうほど、人々のいい玩具になっている。

 ちなみに一般的には『泡になる』なんてあからさまに幻獣として描かれたそれは人間としての水人を観測して描かれたわけではなく、神話から発展して書かれたものであろう。というのが最も広く知られている。

 まあ、ぼく自身は捻くれものらしくその大多数の見解に少しばかり疑問があるわけだが。

「そもそも、アンデルセンの時代に水の人が未発見だったとか有り得るの?」

 19世紀といえばいよいよ科学が発達していく時代だ。その前には多くに陸人が海に船で出ようとした時代もあり、礼儀を知らないものはその時ことごとく水人たちに沈められ、一部の海の作法を知っているものだけが通行を許可されたという逸話も残っている。主流となっている神話からの発展作品であるとしても、ここまで水人に酷似した身体的特徴を描くものだろうか。

 ぼくのそんな疑問に、乙音はちゃぷちゃぷと水で遊びながら、「そんな不思議でもないと思うよ?」と軽い調子で首を傾げた。

「未発見じゃないにしろ疎遠だった時期はあるでしょ。とくにヨーロッパの方とかだと」

 ぱしゃん、と大きく尾びれが水を打つ。

「ああ……、水人狩り、かあ」

 未知なるものに恐れをなしたのか、それとも水底の資源を狙ったのか、存在自体に都合の悪さを見出したのかはわからない。

 海で船を落とす水人がいる一方、浅瀬の水人たちは網に囚われそれはむごい仕打ちを受けたのだという。

 魔女狩りと時を同じくして行われた。なんてほんの一文だけ教科書で触れられていたその単語は、ひどく残酷な響きを伴って脳に染み付いていた。

「かもね。まあ日本では薬扱いされたこともあったみたいだし。でもまあ、どっちが悪いとかじゃないでしょ、こういうの」

 あまりにも乾いた反応に、ぼくは思わず口ごもってしまう。

「……リアクションに困るよ」

「なんで?」

「前も言ったかもしれないけど、陸の人間が一応やったことだから罪悪感っぽいものがね?」

 大して同族意識もないが、なんとも申し訳ない気持ちになるのだ。いや、むしろ水側の方に親しい人間が多いからかもしれない。

 眉を寄せてもごもご話すぼくに、乙音の方も困ったような顔をした。

「そこがよくわからないんだけど……」

「なんでわからないかなあ……」

 肩を落とせば、冴え冴えとした琥珀色の目の真ん中で黒い瞳孔が丸く大きく広がって、ぼくの影をのんだ。


「だって、睦月は私を食べようとは思わないでしょ」


 薫風のような声は月の光のような温度で耳を撫でた。

 静かな笑みだ。

 本当にこの親友は顔がいい上にその使い道をよく知っていらっしゃる。

 真珠色の髪、健康的だが白い肌、滑らかな尾びれ。完成された彫像が浮かべるアルカイックスマイルに似たその美しさを前に、ぼくは夢中で頷いた。

「それは、もちろん。でも先祖が申し訳ないなって罪悪感はちょっとあるというか、馬鹿な人類がごめん感があるというか」

「……やっぱり、よくわからないなあ。陸ってそんなに片方だけが悪いみたいなこと教えてるの?」

「馬鹿なことを繰り返さないように、って感じでは言い聞かされてる気はする」

 そう考えると、ぼくがぼくの罪悪感だと思っているものは案外大人たちのモノなのかもしれない。

 ぼくの中に新たな発見が生まれると同時に、乙音が「ふうん」と納得したのかしていないのかいまいち判別できない声を発しながら頷いた。

「水も別に善人ってわけじゃないのにね」

 それはそうだろう。

 水も陸と同じ人間ならば、全員均一の価値観を持っていたら気持ちが悪い。だが、そういう話でもないのだろうな、とかつて教えられたそれを思い出す。

「海に出ようとした陸の人間を沈めたり、川を渡ろうとした人間を溺れさせたっていうあれ? あれはたしか、自衛だって話じゃない?」

「自衛だけってわけでもないだろうなあ、と勝手に思ってる」

 声は、重たかった。

 いや、きっと乙音が発した声自体は先ほどまでと変わらず静かで美しいままだ。だが、内緒話を意図せず聞いてしまったように、その言葉は重さを増してぼくの耳に届いた。

「多くの人は自衛だったかもしれないけど、何人かはたぶん、遊びだよ」

「遊びって……」

 思わず唾を飲み込んだぼくをちらりと横目で見て、まるでその場にいた人間がその時の嫌悪を掘り返すみたいに老成した顔で少女は言葉を連ねていく。

「陸のもそうでしょ。大義名分と『悪い奴を退治してる』っていう満足感が作った残酷なショーの歴史だよ。あんなの」

 今日の乙音は、本当に珍しい。

 苛立っているというか、波が寄せるように時折神経がひどく張りつめてはそれに気づいてかき消そうとしているようだ。

 そう、例えるなら、嵐の前触れとして凪いでいる海に似ている。

「……乙音。なんかあった?」

 道化るのは得意で、感情を高ぶらせた演技をするのも大得意。だからこそ、彼女は自分の本当の感情を曝け出すことを避ける節がある。

 小学生の頃の方がまだマシだったように思えるくらい、年々隠すのがうまくなっていっている。

「あったけど言わない。わたしの中の折り合いの問題だから」

 かつて、ぼくの前で見せた道化に垣間見た、その激情を想う。

 ――自分がだれで、何者か。

 言葉にすれば簡単で、ともすればカッコいい言葉に聞こえるかもしれない。

 けれど、その渦中にいる苦しさをぼくは知っている。

「乙音」

 万感の想いを籠めて呼びかける。

 今日の乙音は、あの日のぼくに似ている。

 似ているだけだ。当然、彼女はぼくじゃない。彼女の葛藤は彼女だけのものだ。それでも、話を聞いてやることくらいはできるから、促すように目線を合わせる。

 琥珀色の目の奥に、揺らめく炎のような激情が見えるようだ。

「……、気持ちは嬉しいけど、たぶんこれは、分けちゃいけない奴だから」

 固く握りしめた手からは血の気が引いている。思わず両手で覆って温めてやりたくなるけれど、その拳の中にあるのは彼女の矜持だとわかっているから、ぼくは触れることはしなかった。

 怯えているなら、逃げたがっているならいくらだって体温を分けてその冷たさを貰うこともしたけれど、今の乙音はそれを必要としていない。

「話したくなったら、いつでも言いなよ」

 乙音はぼくの言葉にぱちりと瞬いて、少年のように破顔した。

「ありがと」

 自分の非力さに涙が出そうだった。

 

 すうっと息を吸い、吐いて、乙音がころりと表情を変えた。

「話がずれたけどさ、人魚、居ると思う?」

 今日はあくまで、この話題に答えなければぼくは返してもらえないらしい。

 そこに彼女の真剣さをかぎ取って、自分なりの答えをどうにかひねり出す。

「……水の人との違いが気になるから、居た方が面白い。でも水側で見つかってないなら、いない気もする。なんて曖昧な感じだとお気に召さない?」

 最後の最後で冗談めかしてしまうのは、乙音の道化癖がうつったからだろうか。内心冷や汗をかいていれば、予想よりは和やかな返答が返ってきた。

「ううん。全否定しないあたり、睦月っぽい」

 それは落胆とも、安堵とも取れない色をした声だった。否定を求めていたのか、肯定を求めていたのか、その時のぼくにはわからなかった。

 だから、どうにも乙音の真意がつかめなくて、すこし焦ってしまったのかもしれない。


 一つまみの冗談めかした色をのせて、乙音に促す。

「で、言い出しっぺの乙音さんはなんて思ってるわけ?」

「いると思う」

 確信を持った声だった。

 乙音は道化た振る舞いはよくするけれど、根本はリアリストだ。こちらがゾッとするほど残酷に見えるくらい、彼女の目は常に目の前の現実を睨むように観察している。だからこそ断定を避けることもあるし、様子見することもある。こういう、所謂答えが出ない問いの場合は特に、自分の意見を交えつつも答えを保留する傾向が強い。

 だというのに、こんなにも真剣な声で、断定した。まるで、見たことがあるような確固たる自信が、その声の裏には流れているように聞こえた。

「へえ……」

 見たのか。と、続けるべきだったのかもしれない。けれど、ぼくの喉はそれ以上の音を紡げなかった。

 聞いたが最後、日常が終わってしまうよと幼いぼくに袖を引かれた気がして、弱虫なぼくは乙音を楽にできるだろうそれを告げる勇気を出すことができなかった。

 乙音の口が、金魚のようにはくりと一瞬動いて、きゅっと引き結ばれる。

「……なんて、ことがあったら、ロマンだよねえ」

 気を遣わせた。と即座に察した。チラリと此方を見た琥珀色の目が明らかに動揺を映して、一瞬のうちにすべてに鍵をかけていく。

「乙音っ」

 掴もうとした腕はするりとすり抜け、青く光り輝く液体状の宝石のような水面にその身を浸して乙音が微笑む。

 

 なにが、乙音のためなら万人がどうなったって構わない、だ。その本人にこんな顔をさせておいて――何様のつもりだ。


 警鐘のように、自分を苛む声がする。


「……帰ろうか、睦月」


 居心地がいいはずの秘密基地が、冷たい静寂を湛えていた。

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